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足手まといの没落貴族を拾ったら、数年後、相棒へと成長した彼から逃げられません  作者: *しおり*


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11/11

10

カジノ船の安部屋。窓の隙間から差し込む眩しい朝の陽光が、埃の舞う冷たい空気を切り裂いていた。

ニコはベッドの上で低く呻き、重い瞼を押し上げる。二日酔いの鈍痛がこめかみを締め付け、昨夜の安酒のアルコールがまだ胃の腑で燻っていた。

彼女が乱れた髪を無造作に掻き毟りながら身を起こすと、視界の端でシュッ、シュッという規則的な音が鳴っていることに気づいた。


「……珍しく早起きじゃないか」

ニコが大きく欠伸をしながら声をかけると、部屋の隅の木箱に腰掛けたロレンツォが、砥石から顔を上げた。

すでに完璧に身支度を終えている彼は、ガルドから授かった実戦用の短剣を、黙々と研ぎ上げている最中だった。

「ああ。もう、僕はお荷物じゃないからな」

返ってきたのは、かつてのキャンキャン吠えるような甲高い声ではない。

昨夜、甘い果実水と共に飲み下した屈辱と、腹の底で煮え滾る暗い感情を冷たい鉄の奥に隠し込んだような、ひどく落ち着いた、大人のようなトーンだった。

ニコは僅かに眉を動かしたが、すぐにテーブルの上にあるものに気づいた。

凹んだブリキのコップには並々と真水が注がれ、その横には石のように硬い黒パンが、食べやすい大きさにちぎられて置かれている。

「……気が利くようになったね」

「水筒にも水を汲んである。出航の準備はできてるぞ」

ロレンツォはそれだけを言うと、ニコと目を合わせることもなく、研ぎ上がった刃の反射を冷ややかな目で確認し、革の鞘へとスッと収めた。ニコは、ベッドの縁に腰掛けたまま、いつもと違う少年の背中を無言で見つめ、喉の奥の渇きを冷たい水で流し込んだ。


退廃的な狂騒の箱庭を抜け出し、小型艇は再び過酷な外海へと飛び出した。

太陽の光を跳ね返す青い波を、けたたましいエキゾーストノートが荒々しく切り裂いていく。潮飛沫が容赦なく甲板を濡らし、塩辛い風が吹き抜ける。


操舵輪を握るニコは、ヴィンセントから得た、最新の潮目と結社が張っている網の位置情報が書き込まれた海図を、タバコを咥えたまま険しい目で睨みつけていた。

その後ろの甲板の隅。ロレンツォは波の激しい揺れに両足でしっかりと耐えながら、無言で装備のバックルを締め直していた。

以前の彼なら、波の揺れに怯えてニコの背中にすがりつき、不快な潮風に文句を垂れ流していただろう。だが今は、エンジンと波が砕ける轟音だけが響く空間で、二人の間には言葉のない静かな時間が流れている。


ロレンツォは、風に乗って鼻先を掠める匂いを深く吸い込んだ。

昨夜のカジノで嗅がされた、カルメンの息の詰まるような甘い香水。あれは彼を激しく動揺させたが、同時に、自分が全く手の届かない大人の世界の象徴として、強烈な劣等感を刻み付けた。

それに比べれば。

目の前に立つ小さな背中から漂ってくる、使い古された革と、むせ返るような火薬、そして焼き付いた機械油の匂い。

(……こっちの方が、よっぽど落ち着く)

ロレンツォは、胸の奥で燻る名前のない執着に蓋をするように、短剣の柄を親指でそっとなぞった。


数時間が経過した頃。

頭上を覆っていた青空が、不意に淀んだ灰色の雲に飲み込まれた。

じりじりと肌を焦がしていた陽射しが消え、急激に温度が下がる。吐き出す息が白く濁り、刺すような冷たい風が二人の頬を叩いた。

紺碧だった海の色が、まるで底なし沼のような、光を一切反射しない墨汁のような黒色へと変貌していく。


「……着いたね」

ニコが咥えタバコを海へ吐き捨てた。

周囲を乳白色の濃霧が包み込み、視界が急速に奪われていく。不気味なことに、あれほど激しかった波の音がピタリと止み、耳鳴りがするほどの痛いほどの静寂が世界を支配した。

文字通り、『沈黙の海峡』だ。

操舵輪の横の羅針盤が、狂ったようにぐるぐると回転を始める。


「チッ、ただの鉄屑になっちまった」

ニコが忌々しげに羅針盤を叩く。磁場が完全に狂っているのだ。

「……ここからは、情報屋のデータだけじゃ抜けられないね」

「僕がナビゲートする。船を右舷へ切れ」

不意に、ロレンツォがニコの真横に立ち、口を開いた。

彼の片手には、父が遺した海図の写しが握られている。

「この海峡の磁場異常は、海底の特殊な鉱脈によるものだ。バルディの『海洋算術』の方程式に、現在の海流の抵抗係数を当てはめれば、安全な航路は自ずと割り出せる。……羅針盤より、僕の頭脳を信じろ」

一切の迷いがない、揺るぎない声。

ニコは一瞬だけ彼を見上げ、フッと短く鼻を鳴らした。

「……乗り上げた時は、お前が船を引けよ、鑑定士様」

ニコは乱暴に操舵輪を切り、小型艇は音のない黒い海面を滑るように進み始めた。


濃霧の中、世界は白と黒の世界に閉ざされていた。

ロレンツォの的確な指示により、小型艇は海面スレスレに隠れた鋭い暗礁を、あと数センチというところでギリギリで避けながら進んでいく。


ロレンツォは甲板に膝をつき、ゆっくりと目を閉じた。

その瞬間、彼の脳内で世界が変換される。 肌を叩く風の湿度、波の微細な振動、肺を満たす濃霧の密度——それらすべてが、バルディ家に伝わる『海洋算術』の数式に放り込まれ、無機質な幾何学模様と数字の羅列となって脳髄を駆け巡り始めた。


それは、単なる数学や航海術などという生易しいものではない。 かつてこの星の海を完全支配した古代帝国。彼らが残したこの算術は、本来、巨大な気象操作兵器や艦隊を制御するために、人間が世界そのものの変数を無理やり処理するための異常な思考の拡張技術なのだ。


(……3度右、微速。波の抵抗係数にズレ、水深の磁場干渉を再計算……っ!)


凡人が触れれば一瞬で脳が焼き切れるほどの膨大な情報量。温室育ちで軟弱だったはずのロレンツォの脳髄が、常人離れした古代の演算処理装置として悲鳴を上げ、フル稼働する。額から脂汗が滲み出し、限界を超えた眼球の奥が焼け付くように熱い。 だが、彼はその苦痛を奥歯を噛み締めてねじ伏せ、視覚が奪われた状態での、かすかな音と匂いから完璧な『解』だけを抽出し続けた。


ロレンツォは目を閉じ、ルカから教わった気配の察知法を海の上で研ぎ澄ませた。

視覚が奪われた状態での、かすかな音と匂い。

冷たい霧の向こう側。静寂の底から、不規則な重低音が微かに腹の底を震わせた。そして、湿った空気に混じる、生臭い鉄の匂いと硝煙の残り香。

——ヴィンセントが言っていた、結社の『網』。


ロレンツォは目を開き、無言のまま、ガルドの短剣を逆手に構えた。

足音を完全に殺し、滑るようにして、操舵輪を握るニコの右の斜め後ろへとスッと移動する。


背後でのその微かな気配の変化に気づき、ニコは操舵輪を片手で固定した。

口角が、好戦的な弧を描いて僅かに吊り上がる。

彼女は背中に背負っていたアルドの機関銃を無造作に手元へ引き寄せると、ガシャン、と重い音を立ててボルトを引いた。


乳白色の霧が、不気味な影を孕んで渦を巻く。

次の瞬間、霧の壁を突き破るようにして、武装した黒砂結社の黒い中型船がヌッとその巨大な船首を現した。


冷たい刃の感触を確かめながら、ロレンツォは重心を低く沈める。

大人たちをねじ伏せ、彼女に己を認めさせるための、血と硝煙に塗れた戦いが、今、静寂を引き裂いて幕を開けた。


乳白色の濃霧を引き裂き、ニコの構えた旧式機関銃が狂ったように咆哮を上げた。

 オレンジ色の閃光が霧を照らし出し、次々と迫る結社のボートを蜂の巣にしていく。鼓膜を劈く爆音と、むせ返るような硝煙の匂い。空薬莢が甲板にバラバラと降り注ぐ中、ロレンツォは低い姿勢のまま、その小さな背中を見つめていた。


(また僕は、彼女の後ろで震えているだけなのか)


昨夜、カジノの安部屋で嗅いだ、彼女の無防備なアルコールの匂いと、微かな体温。そして、自分の袖を握りしめながら過去の者の名を呼んだ、あの痛切な声。

 ロレンツォは、奥歯が砕けそうなほど強く噛み締めた。口の中に血の味が広がる。

 自分は覚悟を決めたはずだ。甘ったるい果実水を与えられるだけの、無力な子どもでいるのはもうごめんだ。過去の幻影にすがり、自分を罰するように泥を被り続ける彼女を、ただ安全な場所から見ているだけの存在には、絶対になりたくない。


——ガシャン、と。


猛烈な弾幕の音が、不意に途切れた。

 機関銃の弾切れ。ニコが舌打ちをし、新しい弾帯を装填しようと一瞬だけ視線を落とし、手元に意識を向けた、まさにその数秒の空白。


ザァッ、と波を切る音が間近で響き、霧の中から音もなく別のボートが真横に接舷した。

 黒い外套を着た大柄な敵兵が甲板に跳び移り、青白い刃を振り上げる。

 狙いは、弾倉の交換に意識を奪われているニコの右斜め後ろ——彼女の警戒の網から完全に外れた、死角。


(……違う。僕は——!)


ロレンツォの身体が、思考よりも先に弾けた。

 恐怖を、腹の底で煮え滾る怒りと傲慢な執着で強引にねじ伏せる。ルカに叩き込まれたストリートの足運び。泥に汚れたブーツは甲板を蹴る音を一切立てず、彼は滑るようにして敵兵の懐——下からの死角へと潜り込んだ。

 振り下ろされる刃より早く。

 ガルドに教わった通り、腕の力ではなく、下半身のバネと踏み込みの体重のすべてを、逆手に持った短剣の刃先に一点集中させる。


ズブッ、という、ひどく生々しく鈍い音が鳴った。


「がはっ……!?」

 ロレンツォの放った刃は、敵の脇腹から肋骨の隙間を抜け、深々と肉に突き刺さっていた。

 直後、柄を握る少年の両手に、ビチャリと生温かい液体が降り注ぐ。濃い鉄の匂い。手首にズシリとのしかかる、決して綺麗事では片付けられない命の重さ。

 胃袋が激しく裏返り、強烈な吐き気が喉元まで込み上げてくる。しかし、ロレンツォは決して刃から手を離さなかった。

 彼は白くなるほど強く柄を握りしめたまま、獣のような低い唸り声を上げ、全身の力で敵を甲板の端へと押し込み、ブーツで思い切り海へと蹴り落とした。


ドボン、と。

 黒い海面に重い水飛沫が上がり、敵の姿が波間に消える。


「……」


背後での鈍い物音と、風に乗って漂ってきた生々しい血の匂いに気づき、ニコは装填を終えた機関銃を構えたまま振り返った。

 そこにいたのは、血に染まった実戦用短剣を逆手に構え、肩で激しく息をするロレンツォだった。

 透き通るような白い頬には、赤黒い返り血がべったりと張り付いている。極度の緊張と吐き気で顔面は蒼白だったが、その両足は甲板にしっかりと根を張り、刃を持つ手は、もう微塵も震えてはいなかった。


ニコは目を丸くし、次いで、喉の奥で息を詰まらせた。


「……言ったはずだ」

 ロレンツォが、掠れた、けれど芯のある声で前を見据えたまま告げる。

「右の死角は、僕が塞ぐと」


痛いほどの静寂が、二人の間に落ちる。

 ニコは無言のまま彼を見つめていた。カジノで背中に庇ってやった、ミルクの匂いの抜けないヒヨッ子。震えながら自分の袖を握っていた、足手まといの荷物。

 しかし今、血と油にまみれた甲板に立っているのは、泥水を啜ってでも自分の役割を果たし、誰かのために手を汚す覚悟を決めた、一人の男だった。


チッ、と。ニコは小さく舌打ちをした。

 そして、乱暴に髪を掻き毟ると、今まで見せたことのないような、心底呆れたような、けれど確かに誇らしげな笑みをその唇に浮かべた。


「……生意気な相棒だ。背中が煤けてるよ、鑑定士様」

「あんたのタバコの煙のせいだ、野蛮人」


強がった言葉の応酬。

 ロレンツォの胸の奥で燻っていた強烈な劣等感と嫉妬が、その一言で昇華され、熱いカタルシスとなって全身を駆け巡った。彼女に、対等な背中として認められたのだ。


「行くよ。お喋りは後だ」

「ああ」


二人はもはや言葉を交わす必要すらなかった。

 阿吽の呼吸で背中を預け合い、ニコの重火器が前方の視界を薙ぎ払い、ロレンツォの短剣が死角からの奇襲を完璧に封殺する。迫り来る結社の追手たちは、噛み合い始めた二人の暴力と知恵の前に、次々と海の藻屑となっていった。


最後の追手のボートが炎を上げて沈んだ、その瞬間。

 頭上を重く覆い尽くしていた乳白色の濃霧が、まるで巨大な幕が引かれるように、一気に晴れ渡った。


痛いほどの静寂が破られ、再び波が弾ける心地よい音が鼓膜を打つ。

 突き抜けるような青空から、眩いほどの陽光が降り注ぎ、暗黒だった海面をキラキラと宝石のように輝かせた。


だが、安堵と同時に、ロレンツォの身体を極限の代償が容赦なく襲った。


 戦闘の緊張が解けた瞬間、視界がぐにゃりと歪み、頭蓋骨の内側を熱した刃物で直接抉られるような強烈な激痛が走ったのだ。


「……っ、ぐ……」  


ロレンツォはたまらず操舵輪に突っ伏し、額を強く押さえた。その鼻孔から、ツーッと一筋の生温かい赤黒い血が滴り落ち、甲板の木材に赤いシミを作る。

 凡人の脳を古代兵器の演算装置として強制的に狂わせる海洋算術の代償。


 一度でもこの劇薬のシステムを対人戦闘でフル稼働させれば、膨大な情報処理に耐えきれず眼球の毛細血管が破裂して白目が赤く染まり、その後数日間は、わずかな光や波の音にすら吐き気を催すほどの強烈な偏頭痛に襲われ続けることになる。


ただの知識ではない、命そのものを前借りにする危険な代物なのだ。


「……おい。顔色が最悪だぞ、お坊ちゃん」


 背後で機関銃を下ろしたニコが、怪訝そうに顔を覗き込んできた。  ロレンツォは奥歯が砕けるほど強く噛み締め、燃えるような脳髄の痛みを強引にねじ伏せた。そして、懐のハンカチで鼻血と白目に滲んだ血を素早く拭い去ると、微塵も表情を崩さずに顔を上げる。


「……ただの船酔いだ。気にするな」


 かつての温室育ちの自分なら、この頭痛に耐えきれず泣き叫んでいただろう。だが、血と泥にまみれながらも自分の前を歩き続けるこの小さな相棒の隣に立つためなら、自らの命を削ることなど、彼にはとうに覚悟の上だった。


 光の先。穏やかな波間にポツンと浮かぶ、絶海の孤島が姿を現した。

 緑に覆われた岩山の中腹に、バルディ家が代々隠し続けてきた『秘密の保管庫』へと続く巨大な地下洞窟の入り口が、ぽっかりと口を開けて二人を待っている。


小型艇が静かに島の桟橋に接舷する。

 ロレンツォは短剣の血振るいをして鞘に収め、ニコは機関銃を背負い直して、タバコに新しい火を点けた。


「……着いたね」

「ああ」


二人は甲板に立ち、そびえ立つ岩山を見上げた。

 もはやそこに、守る者と守られる者の境界線はない。血と油の匂いを纏い、並んで立つその背中は、過酷な海を乗り越えた対等な相棒としての確かな信頼で結ばれていた。


ロレンツォは深く息を吸い込み、海図の入った革袋を胸に抱き直す。

 ニコの吐き出した紫煙が、青い空へと溶けていくのを横目で見ながら、彼は確かな足取りで、物語の最終目的地へと続く暗い洞窟へ向かって歩き出した。



巨大な地下洞窟の最奥。


冷たい石造りの広間に辿り着いた二人の前に、黒い外套を纏ったスマートな人影が立ち塞がった。 手には最新式のスマートライフル。ランプの灯りに照らされたその男の顔を見て、ロレンツォは息を呑んだ。


「まさか、本当にあの暗号を解いてここまで辿り着くとはね。……驚いたよ、ロレンツォ坊ちゃん」


「……先生……?」


かつて、屋敷でロレンツォに『海洋算術』や法学を教えていた、元・家庭教師の男だった。


「……先生……? なぜ、あなたが結社に……!」

「バルディの綺麗事には辟易していたからね」


男は眼鏡を押し上げ、薄く、酷く冷ややかに笑った。


「エンツォ様は、自ら泥を被る覚悟もないくせに、裏社会を牛耳ろうとした無能だ。……表向きは高潔で清廉潔白な貴族を演じておきながら、裏では軍の汚職やマフィアの弱みを裏帳簿で握り、脅迫して首輪をつけていた。その歪な二面性と傲慢さに、私は吐き気がしていたのだよ」


ロレンツォの肩がピクリと動く。


「法や正義を声高に語るなら、なぜ自ら手を汚し、我々と同じ泥水に浸かろうとしなかった? 完全に悪になりきることも、完全に善を貫くこともできなかった中途半端な偽善者……だからこそ、私がこの海洋算術の知識を手土産に、結社を導いて差し上げたのさ」


尊敬する父を侮辱され、ロレンツォの顔に激しい怒りが走る。


「……チッ、御託の多い野郎だ!」


ニコが機関銃を構え、咆哮と共に猛烈な弾幕を張った。

カンッ、キィン! 洞窟の硬い岩壁や鍾乳石に当たった弾丸が、恐ろしいほど正確な幾何学的軌道を描いて跳弾し、隠れていたニコの死角を次々と抉っていく。


「海洋算術の応用……! 岩壁の反射角と空気抵抗を完璧に計算して、跳弾を撃ち込んでいるんだ!」


ロレンツォが叫んだ直後。


その銃撃は、凄腕の殺し屋や傭兵が放つ勘や経験の産物とは次元が違う。最近裏社会に出回っているという、内蔵歯車で自動的に弾道を計算する最新式のスマートライフルですら、ここまでの精度は出せない。


 男の片眼鏡の奥にある眼球は、もはや人間のそれではない。眼前の空間をミリ単位の三次元グリッドとして認識し、弾丸の初速、装薬の燃焼率、岩壁の硬度から生じる摩擦係数といった数百の変数を、引き金を引くコンマ数秒の間に弾き出しているのだ。


「素晴らしいだろう? 新興商会のスマートライフルなど、機械の処理速度に依存した児戯に過ぎない。人間の脳髄を直接オーバークロックさせ、空間の物理定数を掌握するこの『海洋算術』こそが、至高の兵器なのだ!」 男が陶酔したように叫ぶ。


その言葉に、ロレンツォの脳裏でこれまでの違和感がすべて氷解した。 魂のない最新兵器が金と効率で世界を牛耳ろうとする時代にあって、バルディ家は、この狂気の技術が再び戦火を巻き起こさぬよう、その本質をただの退屈な貴族の教養という無害な衣で覆い隠し、代々秘密裏に封印・管理し続けてきたのだ。


凡人が触れれば一瞬で脳が焼き切れるほどの膨大な情報量を処理する、劇薬のシステム。


 海洋算術の正体。それは、かつてこの星の海を完全支配した古代帝国が、巨大な気象操作兵器や無敵の艦隊群を制御するために生み出した、人間を人間でなくすための、思考の拡張技術だった。


 父エンツォが、幼いロレンツォに逃げ出しそうになるほどこの学問を叩き込んだのは、彼を殺戮兵器にするためではない。いつかこの封印が破られ、悪用された時に、それに抗うための盾を息子に授けるためだった。


「バルディ家が代々、この算術の真の力を隠蔽し、ただの教養に矮小化させていた理由がわかっただろう! これはただの知識ではない。一人の人間を、戦場を支配する『殺戮の演算装置』に変えてしまう極めて危険な劇薬なのだ!」


「がはっ……!」


予測不能の死角から飛来した跳弾がニコの脇腹を深くえぐり、彼女が大量の血飛沫を上げて膝をついた。


「ニコ!!」

「無駄だよ。すべて私の計算通りだ」


男が銃口をニコの頭に合わせる。


「次はその下品な女の脳天を撃ち抜く。さあ、海図を渡しなさい」


絶体絶命。ニコの腹部からは血が流れ、機関銃も弾切れを起こしている。 だが、ロレンツォの頭脳は、極限状態の中で氷のように冷たく澄み渡っていた。


相手の戦術は完璧な計算だ。常に合理的で、最も効率的な解を選ぶ。ならば、その計算の前提を崩せば必ず隙ができる。


ロレンツォは地を這うようにニコの背後に近づき、震える声で囁いた。


「ニコ……っ。奴は、最も合理的な動きしか予測できない。……3秒だけ、奴の計算を狂わせてくれ」


血を吐きながら、ニコはフッと、狂気じみた好戦的な笑みを浮かべた。


「……上等だ」


次の瞬間、ニコは弾の切れた重い機関銃をなんと盾代わりに前に突き出し、傷ついた腹から血を撒き散らしながら、一直線に男へと突進したのだ。


「なっ……!?」


遮蔽物を使わず、自らの命を投げ捨てるような非合理極まりない特攻。 完璧な数式と綺麗事の中で生きてきた元・家庭教師の脳が、理解不能な泥臭い行動に一瞬だけ処理落ちを起こし、ライフルの照準がブレた。


「愚かな……!」 男が慌ててニコの足を撃ち抜こうと銃口を下げた、その『1秒』。


ニコの背中の影——完全に男の意識から外れた右の死角から、ロレンツォが弾かれたように飛び出した。 ルカに教わったストリートの足運び。足音を完全に殺し、泥にまみれて地を這うような低い姿勢。貴族の教養である美しい剣術のセオリーなど微塵もない、生き残るためだけに研ぎ澄まされた野良犬の動き。


「あ……っ!」 男が気づいた時には、ロレンツォはすでに懐に潜り込んでいた。


その瞬間。極限の集中状態にあったロレンツォの脳内に、奇妙な現象が起きた。


驚愕に見開かれた男の眼球の動き、引き金を引こうとする指の筋肉の収縮、重心が後ろへ崩れる僅かな角度——それらすべてが、沈黙の海峡で波の抵抗を計算した時と同じように、無機質な『数式』となって脳内で可視化されたのだ。


(……そうか。この海洋算術は、航海や銃の弾道だけじゃない。対人戦闘における『間合いと肉体の動き』すらも、完璧に計算し、支配できるのか……!)


意図せず古代帝国の戦闘演算の扉を開いたロレンツォは、男の回避行動の数式が示す彼が絶対に避けられない場所へと、腕の力ではなく、下半身のバネと体重のすべてを乗せ、ガルドから授かった実戦用短剣を逆手に振り抜く。


「計算外だろう……! 僕が、こんな泥臭い戦い方をするなんて!」


ズブッ!! 冷たい刃が、男の脇腹から内臓を深々と貫いた。


「がはっ……ぁ……っ」


男の目が見開かれ、手からスマートライフルが滑り落ちる。ロレンツォはそのまま男を石積みの壁へと力任せに押し込んだ。


「ごほっ……! あの、逃げ出してばかりだった落ちこぼれの坊ちゃんが……まさか、ここまで来るとはね。だが、エンツォ様は無能だった……! 偽善者だったから、我々に足元を掬われたのだ!」


血を吐きながらも、家庭教師は呪いのようにエンツォへの侮蔑を口にする。 かつてのロレンツォなら、顔を真っ赤にして「父上を愚弄するな!」と喚き散らしていただろう。


だが、今の彼は違う。


ヴェネトの地下水路で隻眼のマルコから聞いた、父の背負っていた途方もない十字架。


「……父上は、偽善者なんかじゃない」


ロレンツォの瞳には、怒りの炎すら浮かんでいない。ただ、薄氷のように冷たく、静かな大人の男の眼差しがそこにあった。


「父上が矛盾を抱え、たった一人で泥を被り続けていたのは……僕に、あの温室のような光の世界だけを残すためだ。自分の手を血で汚してでも、理不尽な悪から弱者を守ろうとした、誰よりも不器用で気高い人だった」


彼は血に濡れたガルドの短剣を逆手に握り直し、音もなくかつての恩師の懐へと歩み寄る。


「安全な場所で知識だけを弄り、強者の暴力に媚び諂ったお前ごときでは……父上の気高き泥に触れることすらできない」


感情を完全に削ぎ落とした氷のような宣告。直後、ロレンツォは己の体重を刃に乗せ、幹部の心臓へと躊躇なく短剣を突き立てた。


肉を裂く鈍い音。ひゅう、と空気が抜ける音と共に、家庭教師の瞳から完全に光が失われた。


「……やるようになったじゃないか、お坊ちゃん」

背後の岩陰で、脇腹の深い裂傷を押さえながらニコが力なく笑った。先ほどの死闘で、彼女はロレンツォの死角を補うために、幹部の凶刃をその身で受けていたのだ。


ロレンツォは短剣を引き抜き、血の滴る手を握りしめたまま、洞窟の最奥に鎮座する巨大な金属の扉へと向き直った。

鍵穴はない。表面には、複雑な『海洋算術』の方程式が刻まれた幾つもの歯車と、中央に手形を合わせる窪みがあるだけだ。

バルディの正当な後継者の「血」と、最終解を導き出す知能。その両方が揃わなければ開かない古代の封印。


ロレンツォは、幹部の返り血と自身の血で赤黒く汚れた右手を、ゆっくりと持ち上げた。

かつては、靴に泥が跳ねただけで不快感を露わにしていた。孤児たちに触れられることすら不衛生だと拒絶していた。

だが今は、この血と泥に塗れた醜い手でなければ、父の遺産を受け継ぐことはできない。その残酷で美しい皮肉に、ロレンツォは小さく自嘲の笑みを漏らし、迷いなく血濡れた掌を窪みへと押し付けた。


——ゴゴゴゴゴゴッ……!


地鳴りのような重低音と共に、数百年分の埃を散らして、巨大な金庫の扉がゆっくりと口を開いた。


重い金属の扉の向こうにあったのは、想像していたような金銀財宝の山ではなかった。

カビ臭い空気の中、無骨な机の上に積まれているのは、膨大な量の書類の束。そして、中央に置かれた一通の封筒と、鈍い光を放つ手のひらサイズの黒いシリンダーだけだ。


ロレンツォは震える手で封筒を手に取り、蝋の封を切った。

中から現れたのは、見慣れた父・エンツォの、酷く乱れた筆跡だった。


『ロレンツォ。お前がこの手紙を読んでいるなら、私はもうこの世にはいないだろう』

羊皮紙の擦れる音が、ロレンツォの耳の奥で父の声に変換される。

『私は長年、この裏帳簿で結社や軍の首輪を握り、理不尽なパワーバランスを強引に保ってきた。だが……お前が生まれ、成長するにつれ、私はこの泥沼から抜け出し、お前に美しい世界だけを残したいと願うようになってしまったのだ』


ロレンツォの呼吸が、浅く、不規則に乱れ始める。


『結社への締め付けを緩め、裏社会から足を洗おうとした私の親としての隙。それが、奴らに反逆の機会を与えてしまったのだろう。すまない、ロレンツォ。私の甘さが、バルディを滅ぼした』


「あ……」

ロレンツォの喉の奥から、形にならない声が漏れた。

自分の存在そのものが、父の非情さを鈍らせ、破滅させた原因だった。父は、自分を光の世界で生かすためだけに、己の命と家門を天秤にかけ、そして死んでいったのだ。

「うぅ……っ、ああぁぁっ……!」

張り詰めていた糸が切れ、ロレンツォはその場に崩れ落ちた。羊皮紙を握りしめ、嗚咽を漏らす。ポロポロとこぼれ落ちる大粒の涙が、顔にこびりついた血と混ざり合い、床の石畳を黒く濡らしていった。


声の限り泣きじゃくり、やがて呼吸が落ち着きを取り戻した頃。ロレンツォは赤く腫れた目で、手紙の続きへと視線を落とした。


『そこに遺した黒いシリンダーは、結社や軍の裏取引を記録したマスターキーだ。これを世界中の中立機関に持ち込めば、結社を一撃で壊滅させる致命的な情報が世界中にばら撒かれる。だが——』


ロレンツォは、机の上に置かれた冷たい金属の筒を見つめた。 そっと手を伸ばし、手のひらに収まるその『黒いシリンダー』を握りしめる。


その瞬間、ロレンツォは微かに眉をひそめた。


ただの金属製の書類筒であるはずなのに、内部から脈打つような『微かな振動』と、命の熱を奪うような不自然な氷のような冷たさが掌に伝わってきたのだ。


さらに、シリンダーの表面にびっしりと刻印された奇妙な幾何学紋様。それは、彼らが命がけで突破してきたあの『沈黙の海峡』で狂ったように渦巻いていた、異常な海流の形と全く同じだった。


(……なんだ、これは? 本当にただの裏取引の記録なのか……?)


微かな違和感が胸をよぎるが、


『もしお前が14歳の今日、この手紙を読んでいるのなら、決してこれを使ってはならない。今の非力なお前が使えば、結社の残党や別の悪党に必ず奪われ、お前も、お前を護る者も消されるだろう。この情報は、子どもの手には余る劇薬だ』


という父の続く言葉が、彼の思考を引き戻した。


ロレンツォの心臓が、大きく跳ねた。


『だから私は、このシリンダーに封印を施した。正当な当主が、成人である18歳を迎える日まで、いかなる中立機関の暗号機もこれを受理しない。……生き延びろ、ロレンツォ。この4年間で、情報を武器として使いこなせる大人の男になれ』


それは、息子を縛る呪いなどではない。力を渇望する未熟な息子が、劇薬の重さに押し潰されないように。命がけで遺してくれた、4年間の猶予という名の強烈な愛情。


ロレンツォは、黒いシリンダーを両手で包み込んだ。


結社を潰す劇薬を手に入れた。しかし、あと4年は封印を解けない。追手は絶えず、自分はまだ14歳の非力な子どものままだ。圧倒的な無力感と、長すぎる4年という歳月が、重い鉛のようにロレンツォの両肩にのしかかる。


「……で、どうするんだ、当主様」


背後から、血を吐きながらも無理に笑みを作ったニコの声が響いた。

彼女は壁に寄りかかり、腹部の傷口を押さえながら、タバコに火を点けようと震える手を動かしている。


ロレンツォは、冷たい金属のシリンダーを懐の奥深くに仕舞い込んだ。

カジノのバーでジュースを飲まされた屈辱。幹部を刺した時の、吐き気を催す命の重さ。父が一人で被っていた泥の冷たさ。

そのすべてを己の血肉としてねじ伏せ、彼は涙の跡を粗い袖で乱暴に拭い去った。


そして、決然と立ち上がり、血まみれのニコの真っ直ぐ前へと歩み寄った。


「ニコ。あんたを、再雇用する」

「……は?」

ニコが、咥えようとしていたタバコを止めて目を丸くする。

「期間は4年。僕が18歳になり、この封印を解くその日までだ。……僕の死角を守り、この泥沼の歩き方をすべて僕に叩き込め」


それは、守られるだけの子どもからの懇願ではない。共に地獄を歩くことを強要する、対等な男としての新たな契約の申し出だった。

ニコは数秒間、その宗教画のように美しい、けれど確かな修羅の気迫を纏った少年の顔を見つめ——やがて、フッと吹き出すように笑った。


「……高くつくよ」

血だらけの顔でニヤリと笑い、ニコはロレンツォの肩にドンと拳を当てた。

「前金は、アンタの命だ。せいぜい振り落とされないようにしな、相棒」


薄暗い地下洞窟の中。

傷だらけの少年と、血に塗れた掃除屋の女は、互いの背中を預け合うようにして不敵な笑みを交わした。

果てしなく続く泥濘の道程。その真の始まりを告げるように、ニコの吐き出した紫煙が、開かれたバルディの金庫の奥へと静かに吸い込まれていった。

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