第四部6
清流村アルボラを出発した二人が、ルカたちの待つ街へ向かう中継地点として選んだのは、高級ホテルなどではなく、潮風と微かな機械油の匂いが染み付いた港町の場末の安宿だった。
軋む木の階段を上り、案内された狭い部屋には、簡素な水差しと、ギシギシと音を立てる硬いベッドが一つあるだけだ。
「あー、やっと落ち着ける。泥だらけで気持ち悪いったらありゃしないよ」
部屋に入るなり、ニコは大きく背伸びをして首の骨をポキリと鳴らした。そして、ロレンツォの目の前だというのに、いつものように何の躊躇いもなく、泥水で汚れたシャツのボタンに無造作に手をかけた。
かつてのロレンツォなら、「なんて破廉恥な格好を!」と顔を真っ赤にして壁際まで飛び退くか、あるいは毛布を頭から被せてぐるぐる巻きにして拘束していただろう。
だが、今日の彼は一歩も動かなかった。 ニコがシャツを脱ごうとした、その手首を。 剣ダコに覆われた、分厚く大きな男の手が、逃げ場のない力強さでガシッと掴み止めた。
「なっ……」
振り返ったニコの言葉は、ロレンツォの退廃的な熱を帯びた暗い瞳に真っ向から射抜かれ、喉の奥でヒュッと消えた。
ロレンツォは、ニコの細い手首を掴んだまま、彼女の身体をゆっくりと、しかし圧倒的な男の力で壁際へと追い詰めていく。
ドン、と。
ニコの背中が壁にぶつかり、ロレンツォの広く分厚い胸板が、彼女の視界と退路を完全に塞いだ。 鼻先を掠める、彼の体温と上質なオーデコロンの匂い。
「……おい、ロレンツォ。何すんだい……っ」
「……忘れたのか、ニコ」
ニコの強がる声を遮り、彼の低く、ひどく熱を帯びた声が耳元に落ちた。
「カジノ船の夜、言ったはずだ。……『僕がいつまでも、聞き分けのいい相棒でいられると思うなよ』と」
ビクン、と。ニコの背筋に、強烈な電流のようなものが走った。
あの日、彼女が逃げ道にしていた「過去の幻影」への執着。 彼女はそれを自ら海へ捨てたにもかかわらず、その後すぐに記憶を失い、ロレンツォはさらに一年間、狂気のような孤独と絶望の中で泥水を這いずり回らなければならなかったのだ。
「……っ、この、バカ犬が。……まだ、心の準備ってもんが……」
耳の裏まで真っ赤にして視線を泳がせるニコ。 その不器用で愛おしい強がりを、ロレンツォは甘く、ひどく熱いキスで塞いだ。
「んっ……ぁ……っ」
火薬と古い機械油、そして互いの血の味がする、深く貪るような口づけ。
ロレンツォは彼女の細い腰を抱き寄せ、その首筋に顔を埋めながら、抑えきれない情熱と執着を声に滲ませた。
「準備する時間は、六年と一年……たっぷりと与えたはずだ」
彼の大きな手が、ニコの背中や腕に刻まれた無数の傷跡を、まるで世界で一番尊い勲章を扱うように、熱く愛おしむように撫で上げていく。
「君が過去の幻影への言い訳を捨て、僕を真っ直ぐに選んでくれるまで、ずっと待ってやったんだ。……これまでのツケは、一生かけて君のすべてで払ってもらうからな」
「……っ、生意気な……相棒だ……」
ニコはもう反発することも逃げることもせず、ただ不器用に彼の広い背中へと腕を回した。
高級なシーツも、甘い香水もいらない。
安宿の軋む硬いベッドの上で、互いの剣ダコと無数の傷跡を確かめ合うように重なる体温。
火薬と機械油、そしてロレンツォのオーデコロンの匂いが混ざり合う中、かつて彼を見下ろしていた「血生臭い掃除屋」は、六年間彼女を待ち続けた大人の男の圧倒的な熱と愛に、ついに完全に溶かされていった。
それは、光の世界を捨て、理不尽な世界で共に地獄の泥水を歩むと誓い合った二人にとっての、最も美しく、答え合わせの夜だった。
* * *
どれほどの時間が経っただろうか。 夜明け前の、青灰色に染まり始めた薄暗い部屋。 ニコは、ロレンツォの分厚い胸板に耳を押し当てるようにして、彼の腕の中で微睡んでいた。
(……思えば、最初は最悪だったな)
ロレンツォは、自分の腕の中で丸くなるニコの頭を優しく撫でながら、ふと出会った頃の記憶を辿った。
温室育ちで甘ったれていた十四歳の僕にとって、血と硝煙の匂いを纏い、躊躇なく人の首を掻き切る彼女は、ただただ恐ろしい『人間のかたちをした理解不能な化け物』だった。
自分の身の丈に合わないルビーの装飾剣を引きずり、彼女の背中に隠れてキャンキャンと虚勢を張って吠えるだけだったあの頃。
彼女が自分で傷口を太い針で縫い合わせる姿を見て、本気で震え上がっていたっけ。
マメが潰れて血を流しただけで、絶望して泣きじゃくっていたあの温室育ちの少年が。 なぜこんなにも早く、人を殺すことに躊躇いのない冷徹な修羅になり、彼女を力でねじ伏せられるほどの男になれたのか。
「……ゆっくりと大人になる時間なんて、僕にはなかったからだ」
ロレンツォは、ニコの背中にある引き攣れた火傷の痕にそっと唇を落とし、静かに息を吐き出した。
鉄屑の街の薄暗い船室で。 彼女が安い酒を傷口にぶっかけ、太い針で自らの肉を顔色一つ変えずに縫い合わせている姿を見た時。 僕を庇って、その華奢な肩から血を流し、それでも僕の前に立ち塞がろうとした無数の夜。 そして、カジノ船のVIPバーで、過去の男の幻影に囚われ、絶望したように自らを卑下して泣いていたあの痛切な声。
そのすべてを目の当たりにするたび、僕の腹の底で、焦燥感がマグマのように煮え滾った。
(……早く。一日でも早く、一秒でも早く、強くなれ)
(キャンキャン吠えるだけの子どものままじゃ、彼女の横には立てない。彼女が一人で背負っている重すぎる荷物を、半分奪い取ってやることができない!)
相手は、数多の死線を潜り抜けてきた二十代の凄腕の掃除屋だ。
僕が順当に、平和に大人になるのを待ってなんかくれない。僕が子どもでいる間に、彼女はきっと、誰かのためにその命をあっさりと投げ捨ててしまう。 あるいは、あのヴィンセントやカルメンといった狡猾な大人たちに、僕の知らない場所へと連れ去られてしまうかもしれない。
だから僕は、無理やりにでも時間を早回しにするしかなかった。
血反吐を吐いてでも、脳髄を焼き切ってでも、彼女を物理的に庇い、その強がりを力ずくで塞ぐことができる大人の腕力と権力を、最短距離で手に入れる必要があったのだ。
だが、僕が泥水を啜り、彼女の隣で戦う術を学ぶにつれて……彼女が被っていた『バケモノの仮面』の裏側にある、痛切な自己犠牲と不器用さを知った。
誰かの日常を守るために女であることを捨て、自分の小さな手には合わない亡き幼馴染の重い銃を『錨』として背負い続けていたこの小さな背中。
いつしかその恐ろしさは、胸を締め付けるような愛おしさに変わっていた。
「……んん……」
寝返りを打ったニコが、無意識にロレンツォの広い胸板へと顔をすり寄せてくる。 かつてはドアの前でナイフを握りしめ、浅い眠りしか取れなかった彼女が、今は自分に完全に背中を預け、無防備な寝息を立てている。
(……本当に、可愛い人だ)
ロレンツォの唇から、甘く満ち足りた吐息が漏れた。 外では血生臭いババアだと名乗り、悪態をつきながら敵を蜂の巣にするくせに。 ガルドの工房で、僕の目を盗んでブラックコーヒーに角砂糖を五個も入れていた甘党なところも。
カジノ船で少しからかっただけで、耳の裏まで真っ赤にして怒っていたところも。 そして今夜、僕に触れられて、強がりながらも不器用に泣いてしがみついてきたことも。
世界で一番強くて、誰よりも脆くて不器用な、僕だけの相棒。
ロレンツォは彼女の短い前髪にそっとキスを落とし、誓うように抱きしめる腕の力を強めた。
(もう、絶対に一人で泣かせはしない。これまでの七年分のツケも含めて、一生かけて僕が甘やかしてやる……覚悟しておけよ、ニコ)




