第四部 番外編
イゾラの裏路地にひっそりと佇む、古い木材と爽やかな柑橘の香りが漂うジュリオの酒場。
ジュリオが一人、カウンターの奥で静かにグラスを磨いていると、カラン、と。
かつてと変わらぬドアベルの音が鳴り響いた。
「……いらっしゃい」
静かに顔を上げたジュリオは、店に入ってきた人物を見て、その目を限界まで見開いた。
そこに立っていたのは、かつての煤けた革ジャケット姿のニコと、白のシルクシャツを纏ったロレンツォだった。
だが、ジュリオを驚かせたのは彼らの訪問そのものではない。
ニコの背中には、かつて彼女が自らの命以上に執着していたあの『旧式機関銃』が背負われていなかった。
そして何より、彼女の鼻先を掠める匂いが違った。
血と硝煙、強いタバコと酒の匂いではない。
今の彼女から漂ってくるのは、ベビーパウダーと、ほんのりと甘い『ミルクのような温かい匂い』だったのだ。
「ジュリオ。……久しぶりだね」
ニコが、すっかり毒の抜けた、柔らかく穏やかな母親のような顔で微笑む。
その隣では、かつて氷のような殺気を纏っていたロレンツォが、大きな身体を丸めるようにして、腕の中の大事な『おくるみ』を抱え込んでいた。
「ほら、ニコ。あまりドアを開けっぱなしにすると隙間風が入る。この子が風邪でも引いたらどうするんだ! ジュリオ殿、すまないが一番奥の、風の当たらない暖かい席をもらえないか」
「……相変わらずこいつが過保護でうるさくてさ。ジュリオ、悪いけどミルク用のお湯ももらえるかい?」
呆れ顔で笑うニコの隣で、ロレンツォは完全な『メロメロなパパ』と化していた。
それもそのはずだ。
彼の腕の中にいるのは、彼が命を懸けて愛し抜いたニコとの間に生まれた、正真正銘の愛の結晶なのだから。
ジュリオはグラスを置き、どこか夢でも見ているかのような足取りで、二人の元へと歩み寄った。
「……子ども、なのか」
「ああ。……僕とニコの、第一子だ」
ロレンツォが誇らしげに、けれど壊れ物を扱うようにそっとおくるみの布を下げる。
そこから顔を出したのは、、ニコにそっくりな艶やかな黒髪と、漆黒の丸い瞳を持った元気な赤ん坊だった。
ジュリオが恐る恐るその小さな顔を覗き込もうと身をかがめた、その瞬間。
「だーっ!」
赤ん坊は人見知りして泣くどころか、短い腕を力いっぱい伸ばし、ジュリオの高い鼻梁を、小さな手でガシッと力強く掴み上げたのだ。
「お、おい……っ」
「あははっ! こら、初対面のおじさんの鼻をもぐんじゃないよ!」
ジュリオが慌てて身を引こうとするが、赤ん坊はギュッと鼻を掴んだまま、キャッキャと豪快で楽しげな笑い声を上げた。 その物怖じしないガサツさと、すでに大物の片鱗を見せつけるような豪快な笑い方は、間違いなく母親であるニコの血を色濃く受け継いでいた。
「……やれやれ。君に似て、ずいぶんと威勢のいい子だな」
ジュリオは赤くされた鼻をさすりながら、呆れたように、けれど心の底から愛おしそうに目を細めた。
「名前は、なんて言うんだ?」
ジュリオの静かな問いかけに、ニコとロレンツォは顔を見合わせた。 ニコは少しだけ照れくさそうに、けれど真っ直ぐにジュリオの黒い瞳を見つめ返して、はっきりと告げた。
「……アルド、だよ」
その名前が落ちた瞬間。
波一つ立たなかったジュリオの静謐な瞳が、大きく揺らいだ。
「アルド……」
「ああ。この平和な光の世界で、お腹いっぱい美味いもんを食べて、たくさん笑って生きていけるようにってね。……ジュリオ。アタシたちはもう、過去の幽霊に怯えなくてもよくなったみたいだよ」
ニコの言葉に、ジュリオは震える手で口元を覆った。
かつて、ジーナとアルドの死という過去の因縁に縛られ、自分は疫病神だと泣き崩れていたニコ。
彼女はもう、その名前を呪いではなく、未来へ続く希望として受け継ぐことができるほどに、完全に過去のトラウマを昇華させていたのだ。
ジュリオの目から、ツツーッと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……ああ。本当に……いい名前だ」
彼は、長年背負い続けていた妹を守れなかったという重い十字架が、完全に、そして温かく解け去っていくのを感じていた。
「……どうだ、ジュリオ殿」
ロレンツォが、我が子を抱き直しながら、ジュリオに対して静かなマウントを取るようにふっと口角を上げる。
「僕が人生を懸けて手に入れた、世界で一番可愛くて最強の家族だ」
かつて、ジュリオの薬指にあった指輪の跡を見て絶望していたニコだったが、今の彼女からはもう強い酒もタバコの匂いもしない。
ただ、愛する家族のための温かいミルクの匂いだけを漂わせている。
ジュリオは、ロレンツォのその誇らしげな顔を見て、涙を拭いながら完全に白旗を上げるように微笑んだ。
「……ああ。本当に、最高の男に捕まったものだ」
日向の酒場に、アルドの豪快な笑い声と、三人の温かい笑顔が響き渡る。
店内に満ちていたレモンの香りは、もう届かない過去の幻影ではなく、彼らの新しい未来を祝福する、爽やかな希望の香りへと変わっていた。




