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足手まといの没落貴族を拾ったら、数年後、相棒へと成長した彼から逃げられません  作者: *しおり*
第三部

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第四部4

ーー深夜、アルボラ村を包む静かな闇の中で、ロレンツォはニコラが眠る部屋のドアの前に立っていた。

木板にそっと大きな手を触れ、静かに目を閉じる。


(君の過去がどんなに血と硝煙にまみれた地獄だったとしても、海がそれをすべて洗い流してくれた。今の君は、ただのニコラとして、この眩しい光の世界を生きている。)


自分がこのまま彼女のそばにいれば、いずれ裏社会の血生臭い因縁がこの平和な村まで確実について回り、彼女を再び人殺しの地獄へ引きずり戻してしまうだろう。

かつて彼女が、愛する者たちの『光の日常』を守るために自らの幸せをすべて殺し、たった一人で泥水を啜り続けてきたように。


今度は自分が、彼女の光を守らなければならない。


ロレンツォの脳裏に、あり得るかもしれない一つの未来が浮かぶ。


記憶のない彼女が、この村の善良な誰かと恋に落ち、結婚し、温かい家庭を築く未来。

自分以外の男に愛され、子どもを産み、やがて穏やかに老いていく彼女の姿。


その想像をしただけで、ロレンツォの胸の奥でどす黒い嫉妬が暴れ狂い、内臓を素手で握り潰されるような強烈な激痛が走った。 呼吸が乱れ、ドアに押し当てた拳から血が滲むほど強く握りしめる。


(……狂いそうだ。君を他の誰かに渡すくらいなら、いっそ記憶を奪ったまま、地の果てまで連れ去ってしまえばいい……っ)


それが、彼の中の「男」としての傲慢で醜い本音だった。


だが、彼は奥歯が砕けるほど強く噛み締め、暴れ狂う嫉妬と執着を、血を吐くような思いで必死にねじ伏せた。

彼女の真っ当な幸せを奪う権利など、自分にはない。


たとえ自分の心が嫉妬で永遠に引き裂かれ、暗い泥水の中で孤独に狂い死ぬことになろうとも。

決して彼女の人生に干渉することなく、ただ遠くの影から、彼女の平穏な日常を死ぬまで守り抜く。

それが、彼女の隣を歩く資格を持たない自分が引き受けるべき、永遠の孤独という名の究極の地獄なのだ。


ロレンツォは、木板越しに彼女の穏やかな寝息を感じながら、声を押し殺して静かに唇を動かした。

「……さようなら。僕の、たった一人の相棒」


低く、掠れた、血を吐くような呟き。


「どうかこのまま……光の世界で、普通の女の子として幸せに生きてくれ」

その痛切な祈りだけをドアの向こうに残し、ロレンツォはきびすを返した。

彼女のすべてを愛し抜いた一人の男が、永遠の孤独という地獄を引き受ける覚悟を胸に秘め、夜明け前の暗闇の中へと、一人で歩き出していった。



* * *



夜更け。


アルボラ村を包む静かな闇の中で、ニコラはふと浅い眠りの底から意識を引き上げられた。

部屋のドアの向こう側に、誰かが立っている気配がしたのだ。


(ロレンツォさん……?)


声をかけようとしたが、身体が鉛のように重く、金縛りにあったように声が出ない。

ドア越しに、木板にそっと大きな手が触れるような、微かな軋み音が聞こえた。


『……さようなら。僕の、たった一人の相棒』


低く、掠れた、血を吐くような呟き。


『どうかこのまま……光の世界で、普通の女の子として幸せに生きてくれ』


その痛切な響きが鼓膜を打った瞬間、ニコラの胸の奥がギリッと嫌な音を立てて軋んだ。


行かないで!


そう叫ぼうとしたのに、声にならない空気だけが喉から漏れ、やがてドアの向こうから、彼に染み付いていた、火薬とオーデコロンの匂いが、潮が引くようにスッと消え去っていくのがわかった。


ハッと息を呑んで跳ね起きた時、窓の外はすでに白み始めていた。


「……ロレンツォ、さん?」


ベッドから飛び降り、裸足のままドアを開け放つ。


誰もいない。


いつもニコラが無意識に探していた気配が、この村のどこからも完全に消滅していた。


ドクンッ、と。心臓が握り潰されたような激痛が走った。


呼吸がうまくできない。

彼が、あの恐ろしい機関銃を背負った彼が、もう二度とこの村には戻ってこない。その事実を本能が悟った瞬間、パニックで目の前が真っ白になった。


ニコラは部屋に戻り、鏡の前に立った。


そこには、純白の寝巻きを着た、無数の傷跡だらけの女が映っている。


ニコラが何者なのか、どんな恐ろしい過去を生きてきたのか、今も何も思い出せない。

この傷が、地獄の証なのだとしたら、彼がニコラを置いていったのは、ニコラをその地獄へ引きずり戻さないための、彼なりの不器用な優しさなのだろう。


『この傷は、君が誰よりも優しくて……自分の命を削ってでも、愛する者たちを守り抜いた、世界で一番誇り高く美しい勲章だ』


彼がニコラの醜い火傷の痕に唇を落とし、そう言ってくれた時の、火傷しそうなほどの熱。


(……過去のわたしが、どんな地獄を生きてきたとしても)


ニコラは鏡に映る自分を、真っ向から睨みつけた。


彼がいない、この安全で平和なだけの村で、ニコラは一生、作り笑いを浮かべて生きていくのか?


自分の後ろの空白を一生探し続けながら、ゆっくりと心を腐らせていくのか?


(……そんなの、絶対に嫌だ!)


理屈じゃない。

記憶なんてどうでもいい。


ニコラの細胞のすべてが、血が、魂が、彼と一緒にいることを——彼が歩く泥水を、共に歩くことを強烈に渇望して叫び声を上げているのだ。


ニコラは、寝巻きのまま、裸足で部屋を飛び出した。


「ニコラ姉さん!?」 朝靄の立ち込める村の広場を駆け抜けようとした時、薪割りをしていた十六歳のレオと、ルチアが目を丸くしてニコラを見た。


「ニコラ、どうしたの! 裸足じゃない!」


「ルチア、ごめん! わたし、行かなきゃ……っ、彼を追いかけなきゃ!」


ニコラが叫ぶと、レオが血相を変えて彼女の腕を掴んだ。


「だめだよ姉さん! あの黒ずくめの男なら、夜明け前に川の小舟に乗って村を出て行った! 姉さんには、あんな血生臭い危ない男、ふさわしくないよ!」


「離して、レオ!」


ニコラが振り払おうと揉み合っていると、ルチアがスッと間に割って入り、レオの腕をパシッと叩き落とした。


「ルチア姉ちゃん!?」


「……行きなさい、ニコラ」


ルチアは、ニコラの両肩をしっかりと掴み、朝陽を背に受けて力強く微笑んだ。


「あんた、この一年間ずっと、自分の背中になにかを探して……迷子みたいに、泣きそうな顔をしてたじゃない。やっと見つけた自分の帰る場所なんでしょ!」


「ルチア……っ」


「走りなさい! 早くしないと、行っちゃうわよ!」


親友の温かい祝福——それは、ニコラがこの一年間過ごした『光の世界』との、完全な決別の合図だった。 ニコラは涙を拭い、「ありがとう!」と叫んで、朝露に濡れた草むらを全速力で駆け出した。



一年前、『ニコラ』が流れ着いた、村はずれの川辺。


そこには、川岸のもやいを解き、まさに小舟を出そうとしている黒いスーツの背中があった。 彼の背中には、彼自身の命の重さのような、無骨な旧式の機関銃が背負われている。


「……どうして!」


ニコラの声が、朝の静寂を切り裂いた。 ロレンツォがビクッと肩を震わせ、信じられないものを見るように振り返る。


「どうして、何も言わずに勝手に行っちゃうの!」


ニコラは息を切らし、足から血を滲ませながら、川岸の泥濘へと転がるように駆け寄った。


「ニコラ……!? なぜ、君がここに……っ、来るな!」


ニコラが小舟にすがりつこうとすると、彼は強い力で、ニコラの肩を乱暴に突き飛ばした。


ドシャッ、と。


ニコラは川辺の冷たい泥水の中に尻餅をつき、白い寝巻きが泥で無惨に汚れた。


「……いいか、ニコラ。僕が長居すれば、いずれ僕の纏う裏社会の因縁が、この平和な村まで及ぶ。……君が失った過去は、血と硝煙にまみれた地獄だ! 僕の手を取れば、君はまたその傷だらけの身体で、人殺しの地獄を歩くことになるんだぞ!」


彼は血を吐くような声で叫び、自らの髪を掻き毟った。


「君は記憶を失い、海がすべての因縁を洗い流してくれたんだ。お願いだから……この真っ当な村で、普通の女性として幸せに生きてくれ! それが、過去の君が、命を懸けて望んだことだろうが!」


それは、ニコラを心の底から愛しているからこその、彼なりの痛切な叫びだった。

でも、ニコラは泥水に塗れたまま、ゆっくりと立ち上がった。


かつて彼から逃げていた頃の惨めな自己卑下は、今の彼女には一切ない。 ニコラはただの一人の女として、大好きな男を真っ向から見据え、泥だらけの腕で彼を指差した。


「……過去の記憶なんて、どうでもいい!!」


わたしの張り裂けるような声が、川面に響き渡った。


「過去のわたしが何を望んだか知らないけど、今のわたしが欲しいのは、あんただけよ! わたしの身体が、細胞が、魂が……あんたの右の死角が自分の帰る場所だって叫んでるの!」


ロレンツォさんが、息を呑んで完全に硬直した。


「あんたがいない平和な光の世界なんて、わたしには息が詰まるだけ……っ。わたしを置いていくくらいなら、この泥水に引きずり込んでよ! わたしを、あんたの地獄に連れて行ってよ!!」


涙で視界がぐしゃぐしゃになりながら、わたしは我儘で、痛切で、絶対的な愛の言葉を彼に叩きつけた。


静寂。 川のせせらぎの音だけが、二人の間に流れる。


やがて。


ロレンツォさんの瞳の奥で、私を光の世界に置いていかなければならないという彼の『最後の理性』が、音を立てて焼き切れるのがわかった。


「……っ!」


彼は背負っていた重い機関銃を小舟の底へ乱暴に投げ捨てると、泥濘も気にせず川岸へと飛び降り、ニコラの身体を骨が軋むほど、壊れそうなほど強く、その広い胸の中へと抱きすくめた。


「……あぁっ、もう、絶対に離してやらない」


彼の広い肩が震え、その分厚い胸板から、彼自身の激しい鼓動と、彼の匂いがニコラを完全に包み込む。


「君の過去も、この泥水も、君のすべては僕のものだ。……地獄の底まで、一緒に歩いてもらうからな」


「……うんっ、うん……!」


わたしは泥だらけの腕を彼の背中に回し、そのシャツを力いっぱい握りしめた。


朝陽が、川面を眩い黄金色に染め上げていく。


ロレンツォさんはわたしの顎を分厚い手でそっとすくい上げると、涙で濡れたわたしの漆黒の瞳を、退廃的な熱を帯びた瞳で深く見つめ返した。

言い訳も、過去の幻影も、もう何一つ存在しない。


彼の顔が近づき、ニコラはそっと目を閉じる。


重なり合った唇からは、彼が隠し持っていた狂気的なまでの愛情と、火傷しそうなほどの男の熱が、直接ニコラの魂へと流れ込んできた。


朝陽が黄金色に染める川辺。


泥水の中で交わされた、嘘偽りのない純度のキス。ニコラは、もう二度とこの温もりを手放さないと誓いながら、彼が与えてくれるその圧倒的な愛の熱を、真っ向から受け入れていた。


彼が誰なのか、過去の自分がどんな地獄を生きてきたのか、まだ何も思い出せない。それでも、朝陽が黄金色に染める川辺。の魂はこの『火薬とオーデコロンの匂い』だけを求めていた。


(ああ、これでいい。……彼がいれば、わたしはもう何もいらない)


そっと唇が離れ、彼が熱を帯びた瞳でニコラを愛おしそうに見つめ下ろす。 その背中に腕を回そうと、わたしが泥濘に手をつき直した、その時だった。


——ゴツン。


「え……?」


泥の中に投げ出されていた『冷たくて重い、無骨な鉄の塊』に、ニコラの指先が触れた。 彼が小舟に乗る時、自らの命のように大切に背負っていた、あの古い旧式の機関銃だ。


(どうして、こんなに美しくて洗練された人が、こんな時代遅れの重い鉄屑を……)


不思議に思い、その傷だらけの銃床を指先でそっとなぞった、瞬間。 ビリッ、と。 指先から、強烈な電流のようなものが全身を駆け巡った。


冷たい鉄の感触。


そこに染み付いていた強烈な火薬と古い機械油の匂いに混じって……むせ返るような、『彼の血と汗の匂い』がした。


グリップは、彼の大きな掌の形にすり減り、銃身には、わたしが知らない「新しい無数の刃傷」が刻み込まれている。

この一年間。彼がどれほどの絶望の中でこの重い鉄塊を抱きしめ、狂ったように世界中の泥水を這いずり回り、わたしを探し続けて血を流してきたのか。 その執念の重さと痛切な熱が、鉄越しにわたしの脳髄を直接貫いたのだ。


『君の右の死角には、もう僕がいる』

『僕が欲しいのは、僕が生涯愛し抜くと決めたのは……君だけだ、ニコ!!』


「あ……っ!」


ドクンッ!! と、心臓が破裂するような衝撃と共に、脳裏に凄惨で、愛おしい記憶の濁流がフラッシュバックした。

ヴェネトの裏路地で彼に背中を預けた夜。ガルドの工房で不器用に笑い合った食卓。バルコニーで交わした、血と硝煙の味がする熱いキス。


そして——燃え盛る巨大な要塞。

崩れ落ちる鋼鉄の隔壁。

血まみれの彼を助けるため、自分が命以上に執着していたこの重い機関銃を、乱暴に床へ投げ捨てたあの手の感触。


『アタシの相棒なら、こんな鉄屑と一緒に沈んでんじゃねえよ!!』

『私みたいな血生臭いババアのことは忘れて。光の世界で、普通の女の子と……幸せに生きな』


——思い、出した。


わたしは、何にも知らない無垢な村娘「ニコラ」じゃない。 路地裏で泥水を啜り、彼と一緒に血反吐を吐いて死線を潜り抜けた掃除屋の『ニコ』だ。


そして目の前にいるこの男は、わたしが命を捨ててでも光の世界へ帰したかった、たった一人の愛する相棒、ロレンツォだ。


「……っ、ぁ……」


記憶の濁流に呑み込まれ、大きく目を見開く。 同時に、一つの残酷で、あまりにも重すぎる『真実』を悟った。

あの日、彼を光の世界へ行かせるために、わたしは過去の因縁の象徴であるこの機関銃を捨てて海へ落ちたのだ。


なのに、この大バカ野郎は。


光の世界へ行くどころか、わたしが捨てたこの重い鉄屑を自ら拾い上げ、背負い直し。わたしを探し出すためだけに、また一人で裏社会の地獄を這いずり回ってくれていたのだ。 彼のその美しかった手が、わたしを探すためだけに、さらにボロボロに傷ついている


「ニコラ……? どうした、どこか痛むのか……?」


急に震え出したニコラを心配し、ロレンツォが顔を覗き込んでくる。 その、相変わらず無駄に整った綺麗な顔。二十歳にもなって縦にも横にもデカくなったくせに、わたしが絡むと途端に余裕をなくしてキャンキャン吠える、過保護で生意気な男。


「……っ、ふふっ」


『ニコ』は、両手で顔を覆い、涙と泥でぐしゃぐしゃになった顔のまま、堪えきれずに笑い出した。


「ニコ、ラ……?」

「……本当に。どうしようもない、世話の焼けるバカ犬だね」


「え……?」


ロレンツォの身体が、ピクリと硬直した。 今の記憶喪失の『ニコラ』なら、絶対に口にしないはずの、ガサツで血生臭い響き。 ニコは顔を上げ、涙を拭いもせず、この上ない愛おしさを込めて彼を真っ向から睨みつけた。


「アタシの相棒なら、こんな鉄屑と一緒に沈んでんじゃねえって……あの日、言っただろうが」


その言葉が落ちた瞬間。


ロレンツォのその瞳が、限界まで見開かれた。


「光の世界で幸せになれって遺言を残してやったのに。……わざわざこんな重いモン背負い直して、ずっとアタシを探して泥水を歩いてたのかい。……この、胃酸過多のヒヨッ子が」


「わたし」から「アタシ」へ。


完全に蘇った、かつての生意気で極上の毒舌。


「ニコ……お前、記憶が……っ!」


ロレンツォの端正な顔が、驚愕から、やがて歓喜と狂おしいほどの愛おしさにぐしゃぐしゃに歪んでいく。


「ああ。全部思い出したよ。……遅くなって悪かったね、ロレンツォ」


ニコがいつものように、悪ぶってフッと口角を上げた次の瞬間。


「——ニコォォッ!!」


彼は言葉にならない絶叫と共に、ニコの小さな身体を、今度こそ骨が砕けるのではないかと思うほどの力で、その分厚い腕の中へと抱きしめ返した。

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