第四部 3
村の広場は、年に一度の『収穫祭』の熱気と、焚き火の明るい光に包まれていた。
陽気な弦楽器と太鼓の音が響き、村の人々が手を繋いで輪になり、楽しげなステップを踏んでいる。
「ほらニコラ、すっごく似合ってる! 今日は絶対に誰よりも可愛いわよ!」
広場の隅で、親友のルチアがニコラの背中をポンと叩いた。
今日ニコラが着ているのは、彼女が「特別なお祭りだから」と貸してくれた、裾に綺麗な花の刺繍が入った白いコットンのドレスだった。
いつも隠している腕や背中の傷跡も、ふんわりとしたショールで隠してくれている。
「あ、ありがとう……! でも、なんだかスースーして落ち着かないな!」
「もう、ニコラ姉さん! すっげえ綺麗だ!」
「いや、今日のニコラは本気で女神か妖精みたいだぜ……っ!」
ニコラが照れてモジモジしていると、顔を真っ赤にした十六歳のレオと、マテオをはじめとする村の若い男たちが、我先にと群がってきた。
「あの、ニコラ姉さん! 俺と、最初のダンスを……っ!」
「抜け駆けはずるいぞレオ! ニコラ、俺と踊ってくれ!」
次々と差し出される手。
でも、ニコラは困って曖昧に笑うことしかできなかった。
「ご、ごめんねみんな! わたし、踊りなんて全然知らないの。ステップも分からないし、絶対に足を踏んじゃうから……!」
過去の記憶がないニコラの中に、「ダンスを踊った」という優雅な記憶の引き出しは一つも存在しない。こんな可愛いドレスを着せてもらっても、中身はただの不器用な女なのだ。
ニコラが申し訳なく断ろうとした、その時だった。
「——彼女の初めてのステップを、素人に任せるわけにはいかないな」
広場の陽気な空気が、一瞬にしてスッと凍りついた。 背後から聞こえた、低い声。
振り返ると、黒シャツの胸元を少しだけはだけさせたロレンツォが、焚き火の光を背に受けて立っていた。
「ロ、ロレンツォさん……!?」
彫刻のように美しい顔立ちに、周囲の村の娘たちが一斉にほうっとため息を漏らす。
だが、彼が放つ『絶対に俺の獲物に近づくな』という圧倒的な威圧感と氷のような殺気に当てられ、レオやマテオたちは弾かれたようにサアッと道を空けてしまった。
ロレンツォさんは、群がる村の男たちを一瞥だにせず、ただ真っ直ぐにニコラだけを見据えて歩み寄ってくる。
「ロレンツォさん、あの、わたし……本当に、踊りなんて……!」
「僕に身を任せればいい。絶対に転ばせはしない」
彼は有無を言わさぬ優雅な動作で、ニコラの右手をそっと取り、もう片方の大きな手を、ニコラの腰へとしっかりと回した。
鼻先を掠める、火薬とオーデコロンの匂い。
「わっ……!」
抗う間もなく、ニコラは彼に引き寄せられるまま、広場の中央へとエスコートされてしまった。
弦楽器のテンポが上がり、周囲の男女がクルクルと回り始める。
(どうしよう、絶対に足を踏んじゃう……っ!)
ニコラがギュッと目を瞑り、身体を強張らせた瞬間。
ロレンツォが、グイッと強い力でニコラの腰を引き、大きく左へステップを踏み出した。
「あ……っ!」
転ぶ。
そう思って反射的に足を踏み出した、次の瞬間だった。
——タンッ。 ニコラの身体は、自分でも信じられないほど軽やかに、そして完璧な重心移動で、彼が動いたことによって生じた右斜め後ろへと、滑るように入り込んでいた。
(え……?)
ロレンツォが振り返るようにターンをすれば、ニコラはそれに合わせて低い姿勢で身を翻し、彼の死角をカバーするように背中合わせでピタリと止まる。
彼が腕を引けば、反発することなくその力の流れに乗り、彼の間合いの最も深い場所へと滑り込む。
(なに、これ……?)
頭の中には、ダンスのステップなんて一つもない。
なのに、彼の身体の動き、筋肉の僅かな収縮、彼が作り出す一秒の隙間——そのすべてに、ニコラの細胞と筋肉が阿吽の呼吸で完璧に反応し、連動しているのだ。
それはまるで、命懸けの恐ろしい場所で、互いの死角を補い合いながら銃弾の雨をくぐり抜けてきたかのような……戦場で培われた、絶対的な戦闘の連携だった。
「……!」
ニコラの無自覚な完璧なステップを受けたロレンツォは、一瞬だけ驚きに目を大きく見開いた。
そして次の瞬間、彼の氷のように冷たかった瞳の奥に、狂おしいほどの歓喜と、ドス黒いまでの愛おしさが爆発するように広がったのだ。
「……すごい、ニコラたち、息がぴったりじゃない!」
「まるで、ずっと昔から一緒に踊っていたみたいだわ……!」
周囲の村人たちが、流れるように完璧な二人のステップに感嘆の声を上げる。
ニコラはパニックになりながら、ロレンツォの胸元を見上げた。
「ロ、ロレンツォさん……っ、わたし、なんでこんな……っ!?」
「……」
ロレンツォは答えず、ニコラの腰に回した手にさらに強い力を込め、ニコラの身体を自身と隙間なく密着するほどに強く抱き寄せた。
「っ……!?」
周囲の目がある広場のど真ん中だというのに。 彼はわたしの耳元に唇を寄せ、男の重く甘い熱を、直接脳髄へ流し込むように低く囁いた。
「……頭では忘れたと言い張っても」
剣ダコだらけの彼の大きな手が、ニコラの背中を震えるほどの熱で撫で上げる。
「君の身体は、僕の隣が自分の帰る場所だと……ちゃんと、覚えているじゃないか。相棒」
「〜〜〜〜ッ!?」
ドクンッ!! と。
ニコラの心臓が、今までで一番大きな音を立てて爆発した。
『僕の隣が帰る場所』。
その重たい独占欲と、逃げ場のない愛の言葉。
何より、彼のリードに一切の抵抗なく完璧に従ってしまう自分自身の身体の記憶に、ニコラの顔は首の先から耳の裏まで、一瞬にして火が出るほど真っ赤に沸騰してしまった。
周囲の陽気な音楽なんて、もう何も聞こえない。 ただ、彼のオーデコロンの匂いと、ニコラを絶対に逃がさないという重い腕の力だけが、記憶のないまっさらなニコラを、底なしの甘い熱の中へと容赦なく引きずり込んでいくのだった。
*
収穫祭のダンスの夜から、ニコラは自分の身体が信じられなくなっていた。
一度も習ったはずのない複雑なステップを、ロレンツォのリードに合わせて完璧に踏みこなしてしまった、あの夜。
(わたしの身体は……過去のわたしは、彼とどんな風に生きていたの?)
その答えを知るのが怖くて、ニコラは彼と目を合わせるのを避けるようになってしまっていた。
その日。
平和なアルボラ村の静寂は、突然の馬の嘶きと、けたたましい怒号によって引き裂かれた。
「ヒャッハー! 金目のものと、若い女をよこしな!」
村の広場に土足で乗り込んできたのは、近隣の山を荒らしている野盗の集団だった。
十人ほどの薄汚れた男たちが、抜き身の剣やナイフを振り回し、村の屋台を次々と蹴り飛ばしていく。
「きゃああっ!」
「ルチア!」
逃げ遅れたルチアが野盗の一人に腕を掴まれ、悲鳴を上げた。助けに入ろうとしたマテオやトマスも、野盗の蹴りを受けて地面に転がされてしまう。
ニコラは広場の隅で、薪割りの鉈を手にしたまま、恐怖で足がすくんで動けなかった。
(どうしよう、みんなが……っ!)
「——その汚い手で、彼女たちに触れるな」
氷のように冷たく、絶対的な死を孕んだ声が響いた。
ロレンツォが、ルチアを掴んでいた野盗の前に音もなく立ち塞がっていた。
「あぁん? なんだてめえ、よそ者が……がはっ!?」
野盗が剣を振り下ろすより早く、ロレンツォの長い足が鋭く跳ね上がり、男の顎を正確に蹴り抜いた。
男が白目を剥いて崩れ落ちる。
「野郎、殺せ!!」
激高した残りの野盗たちが、一斉にロレンツォへと襲いかかった。
ニコラは息を呑んだ。 彼は腰に提げた短い短剣に手をかけた。
だが、鞘から刃を抜き放とうとしたその瞬間、彼の視線が、広場の隅で怯えて震えている『ニコラ』と交差したのだ。
その途端。
ロレンツォの瞳から、敵の喉笛を躊躇なく掻き切るような残酷な殺意が、スッと消え去った。
(……ダメだ。今の彼女の前で、僕の血に塗れた「人殺し」の顔を見せるわけにはいかない)
彼は、ニコラを怖がらせないため、そしてこの平和な村に血を降らせないために、あえて刃を抜かず、鞘のまま打撃だけで野盗を制圧する道を選んだのだ。
「ぐはっ!」
「こ、こいつ、強ぇ……っ!」
鞘による的確な打撃と、無駄のない体重移動で、野盗たちが次々と地に伏していく。
血を一滴も流させない、圧倒的な実力差。
しかし、彼が相手を殺さずに手加減をするという選択をしたことで、彼の完璧な戦闘の動きに、本来ならあり得ない数秒の遅れが生じた。
一人の野盗を峰打ちで気絶させ、彼が大きく踏み込んだ瞬間。 ロレンツォの『右斜め後ろ』の空間——彼の視界から完全に外れた場所に、致命的な死角が生まれた。
そこへ、倒れたふりをしていた別の野盗が、隠し持っていたナイフを握りしめ、音もなく飛びかかろうとしていた。
(あっ——!)
危ない。そう声に出すより早く。
ニコラの視界が、ぐにゃりとスローモーションのように歪んだ。 頭で考えるよりも先に、細胞のすべてが、筋肉が、血液が、爆発的な速度で弾け飛んだ。
気づけばニコラは、薪割りの鉈を逆手に握りしめ、地面を滑るようにして駆け出していた。
つま先から滑らせるようにして体重を移動させる、無音の足運び。
ニコラは吸い込まれるようにして、ロレンツォの背後に生まれたその空白へと潜り込んだ。
そして、下半身のバネと体重のすべてを鉈の峰に乗せ、野盗のナイフを下から力任せに弾き飛ばした。
ガキィンッ!
「なっ!?」
驚愕に見開かれた野盗の目。ニコラはそのままの勢いで男の懐に入り込み、鉈の冷たい刃先を、男の頸動脈の真上——喉笛の皮膚一枚のところへ、ピタリと押し当てていた。
「ひっ……!」
あと一ミリ力を込めれば、確実にこの男の喉を裂いている。
極限まで研ぎ澄まされた、無駄のない殺意の連携。 その完璧すぎる自分の動きに、ニコラ自身が一番驚愕し、ハッとして動きを止めた。
(わたしは……今、何を……?)
手が、足が、小刻みに震え出す。
ニコラは、人を殺すための急所の位置を、そして彼の右の死角を、理屈ではなく身体で完全に知っていたのだ。 鉈を握る手がカタカタと鳴り、ニコラは腰から砕け落ちそうになった。
「——見事なカバーだ。相棒」
不意に、背後から大きくて温かい手が、ニコラの震える両手をそっと、けれど力強く包み込んだ。
振り返ると、ロレンツォが、いつもの余裕のある大人びた顔ではなく、泣き出しそうなほど切なく、そして狂おしいほどの愛おしさを湛えた瞳で、ニコラを見下ろしていた。
「ロレンツォ、さん……わたし、わたし……っ!」
「震えなくていい。……君の身体は、ただ僕を守ろうとしてくれただけだ」
彼は、ニコラを怯えさせた野盗を一瞥で威圧して逃げ散らせると、手から鉈をそっと取り上げ、そのままニコラを自身の広い胸の中へと強く抱き寄せた。
「ごめん。僕が手加減なんかしたせいで、君に武器を握らせてしまった。……でも」
ロレンツォは、ニコラの耳元で、火傷しそうなほど熱い吐息と共に囁いた。
「君が、僕の死角を守るために飛び込んできてくれたこと。……本当に、嬉しかった」
その声には、記憶を失ってもなお、ニコラの魂が彼との連携を——『相棒』としての絆を忘れずにいてくれたことへの、深い歓喜が滲んでいた。
彼の胸から漂う、火薬とオーデコロンの匂い。
ニコラは、彼に抱きしめられながら、自分の頬を一筋の涙が伝い落ちるのを感じていた。
もう、誤魔化しきれない。
ニコラは過去の記憶がなくても、きっと……いえ、絶対に、この命懸けの死線のど真ん中で、彼を深く愛していたのだ。




