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足手まといの没落貴族を拾ったら、数年後、相棒へと成長した彼から逃げられません  作者: *しおり*
第三部

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第四部 2

男の人が、ゆっくりとニコラに向かって歩いてくる。


村の人たちがその恐ろしい気迫に息を潜めて後ずさる中、ニコラだけは、足の裏が地面に縫い付けられたように動けなかった。

ただ、自分の目からとめどなく溢れ落ちる涙の理由が分からず、戸惑うことしかできない。


「……ニコ。ああ……ニコっ……!」


男の人が、ニコラの目の前で足を止めた。


彼が口にしたその響きに、ピクリと肩が揺れる。


(ニコ……?)


ニコラの名前によく似ているけれど、少し違う。


こんな、絵から抜け出してきたような、恐ろしいほど美しい若い男の人が、どうしてニコラを見て泣きそうに顔を歪めているのだろう。


まるで夢の中の出来事のようで、全く現実味がなかった。


彼は、背中に背負っていた無骨で恐ろしい機関銃がぶつからないよう慎重に身を屈めると、ニコラの頬へ向かって、ゆっくりと右手を伸ばしてきた。


「あっ……」


ニコラは咄嗟に身をすくめた。 村の男の人に急に触れられそうになったら、いつもなら無意識に避けてしまうのに。なぜか彼のその手だけは、絶対にニコラを傷つけないと、身体の奥底が知っている気がしたのだ。


ニコラの頬にそっと触れたのは、分厚い剣ダコと、無数の生々しい傷跡に覆われた、とても大きな掌だった。


「……」


彼の手から伝わってくる、ひどく熱い体温。


そして、鼻先を掠める、火薬と上質なオーデコロンの匂い。


その瞬間、ニコラの胸の奥が、ギリッと音を立てて張り裂けそうになった。


(ああ、この匂いだ。わたしがずっと、背中に探していた匂い……)


「……ずっと、探していた。君を……」


縋り付くような、血を吐くような彼の声。


その痛切な響きに、ニコラはハッとして我に返った。


ニコラは彼の大きな手の上に自分の両手をそっと重ね、涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、戸惑いながら首を横に振った。


「あの……ごめんなさい!人違いじゃ、ないでしょうか」


「……え?」 彼が息を呑み、その美しい瞳が大きく見開かれる。


「わたしは、ニコ、ではありません。……わたしの名前は、ニコラです」


「……ニコラ……?」


「はい。一年前、そこの川に打ち上げられていたところを、村の人に助けてもらいました。……それより前のことは、自分がどこから来たのかも、家族のことも……あなたのことも、何も覚えていないんです!」


その言葉が落ちた瞬間。


彼から、スッと血の気が引いていくのが分かった。

彼の手が微かに震え、わたしの顔を、髪を、そして着ている村娘の服を、信じられないものを見るように見つめている。


かつてのニコが絶対に纏うことのなかった、柔らかな服と、真っ赤なリボン。そして、血と硝煙の殺気を完全に脱ぎ捨てた、穏やかで無防備な普通の娘としての表情。


(……ああ。海は本当に、彼女の過去の因縁をすべて洗い流して、真っさらにしてしまったのか)


彼の瞳の奥で、強烈な絶望と、何かを悟ったような深い悲しみが渦巻くのが見えた。 愛する人が自分のことを忘れてしまった。その事実がどれほど彼を傷つけているか、記憶のないニコラにも痛いほど伝わってきて、胸が苦しくてたまらなくなった。


「ごめんなさい……! 本当に、何も分からないんです。でも……」


ニコラは、重い沈黙に耐えきれず、ぽつりとこぼした。


「でも、どうしてだろう。あなたのその匂いを嗅ぐと……胸の奥がぎゅっとして、泣きたくなるくらい、安心するんです。……歳だって全然違うだろうに......あなたは、誰なんですか?」


あなたの名前を教えてほしい。


そう問うと、彼は目を伏せ、唇を強く、血が滲むほどに噛み締めた。


(僕の許可もなく、勝手に終わらせるなと……あれほど怒り狂っていたのに)


彼は今、自分を忘れて真っ当な光の世界で笑っているニコラを見て、残酷な選択を迫られているように見えた。無理やり過去の泥水に引きずり戻すか、それとも、このまま他人のふりをして立ち去るか。


やがて。 彼は小さく息を吐き出すと、ニコラの頬に触れていた大きな手で、目尻の涙を親指でとても優しく拭い去ってくれた。 そして、彼方を見るような、寂しげで、けれど海よりも深い愛情をたたえた瞳で、ニコラに微笑みかけた。


「……僕の名前は、ロレンツォだ」


「ロレ、ンツォ……さん」

「ああ。……君の言う通り、少し人違いをしていたようだ。僕が探していた相棒によく似ていたから……すまない」


彼はそう言って、ニコラから静かに手を離した。


その途端、覆われていた体温が消え、ひどく冷たい風が吹いたような気がして、ニコラは思わず彼の手を追いかけるように指先を動かしかけた。


「……でも、これも何かの縁だ。ニコラ。少しの間だけ、君の村に滞在させてもらえないか」


「え……?」


「長旅で疲れているんだ。それに……君の淹れてくれるお茶なら、酷い頭痛も治る気がする」


彼は悪党のような、それでいてひどく優美で不敵な笑みを浮かべた。

記憶は失っても、目の前の女が自分の愛した女であることに変わりはない。 かつて彼女がそうしてくれたように。

今度は自分が、彼女のいるこの新しい日常の隣に、一から自分の居場所を作り上げ、もう一度彼女を惚れさせてやる。

それは、すべてを忘れたニコラに対する、ロレンツォという一人の男からの、途方もなく甘く、そして逃げ場のない二度目の恋の宣戦布告だった。



ロレンツォがこのアルボラ村に滞在し始めてから、数日が経った。

そのたった数日で、この平和で退屈だった村の空気は、彼を中心に完全に狂わされてしまっていた。


「ねえニコラ、見た!? 今日のロレンツォさん! 井戸で顔を洗っていらしたんだけど、濡れた金髪が太陽にキラキラ光ってて……もう、彫刻の神様かと思ったわ!」


「あの冷たい目がたまらないのよね! 話しかけても全然笑ってくれないんだけど、その大人の余裕がまた素敵で……!」


村の広場の片隅で、親友のルチアをはじめとする村の若い娘たちが、遠巻きに彼を見つめながらキャーキャーと黄色い悲鳴を上げている。


無理もない。 上質な黒いスーツを着崩した長身に、宗教画から抜け出してきたような圧倒的な美貌。


それでいて、いくつもの死線を越えてきたような冷たく退廃的な色気。


こんな辺境の村に、突然そんな規格外の「極上の男」が降ってきたのだから、村の娘たちが放っておくはずがなかった。毎日、彼が広場に現れるたびに、綺麗な花や手作りのお菓子を持った娘たちが、彼の周りに幾重にも人だかりを作っているのだ。


(……すごいなぁ。やっぱり、別世界の人なんだ)


ニコラは、パンを入れた重いカゴを両手で抱えながら、遠巻きにその光景を見つめていた。

あの日、彼はわたしを見て泣きそうな顔で「ニコ」と呼んだ。


でも、わたしが記憶喪失の「ニコラ」だと知ると、彼は『人違いだった』と寂しそうに微笑み、ただの旅人として村に滞在することになったのだ。


人違い。


そう言われたはずなのに。 なぜか、遠くで女性たちに囲まれている彼の姿を見るだけで、ニコラの胸の奥はチクリと、焦げるように痛むのだった。


「……よいしょっと。早くマルタおばさんのところにパンを運ばなきゃ!」


ニコラは胸の痛みを誤魔化すように首を振り、重いカゴを抱え直して歩き出そうとした。


——その時だった。


「貸して。君が運ぶには重すぎる」

「えっ……?」


不意に背後から、低く、火傷しそうなほど熱を帯びた声が降ってきた。

それと同時に、わたしの両手からふわりとカゴの重みが消える。


振り返ると、さっきまで広場の反対側で村の娘たちに囲まれていたはずのロレンツォが、いつの間にかわたしのすぐ後ろに立っていたのだ。


「ロ、ロレンツォさん!? どうしてここに……あっちで、女の人たちとお話していたんじゃ……?」


「退屈な世間話は切り上げてきた。僕が本当に話したい相手は、ずっとこちらを見て知らん顔をしていたからね」


「あっ……!」


(見られて、いた……?)


ロレンツォは、カゴを片手で軽々と抱えたまま、長い睫毛に縁取られた氷のように美しい瞳を細め、わたしだけを真っ直ぐに見つめてフッと口角を上げた。


「それに、君がそんな重いものを運んでいるのを、僕が黙って見過ごせるはずがないだろう? ……さあ、行こうか。ニコラ」


彼はごく自然な動作で、空いたニコラの右手を、自身の分厚く大きな手でそっと、けれど逃げ場のない力強さで握りしめた。


「ひゃっ……!」


剣ダコに覆われた、ゴツゴツとした手。

触れ合った瞬間、鼻先を掠めたあの火薬とオーデコロンの匂いに、ニコラの心臓がドクン!と壊れそうなほど大きく跳ね上がった。 顔が一気に耳の裏まで沸騰し、全身の血が顔に集まっていくのがわかる。


「あ、あのっ、手……っ! みんな、見てますから……っ!」


「見させておけばいい。僕がエスコートしたいのは、この村で君だけだと、彼女たちにも分かってもらう必要があるからな」

「〜〜〜っ!?」


ロレンツォさんは涼しい顔で言い放ち、真っ赤になってパニックを起こしているニコラを引き寄せるようにして、ゆっくりと歩き出した。


周囲からは、ルチアたちの「ええっ!?」「どうしてニコラの手を!?」「ずるいー!」という悲鳴のようなざわめきが突き刺さってくる。


(どうして!? 人違いだったはずなのに、どうしてわたしにだけ、こんなに甘く、熱く触れてくるの……!?)


記憶がないまっさらなわたしの頭の容量は、もう完全にショート寸前だった。

でも、振り払えない。


彼に握られた右手のひどく熱い体温が、彼の分厚い胸板のすぐ隣というその定位置が。 理屈ではなく、細胞のすべてが「ここがわたしの帰る場所だ」と叫んで、嬉しくてたまらないと悲鳴を上げているのだ。


「……顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」


ロレンツォさんが立ち止まり、心配そうに顔を覗き込んでくる。

そして、彼の手がすっと伸び、ニコラの額に彼自身の額をコツン、と直接当ててきたのだ。


「ひゃああっ!?」

「熱は……ないみたいだな。よかった」


至近距離で微笑む、悪党のように優美で、色気を纏った極上の笑顔。 その奥に隠された、ニコラを絶対に逃がさないという重く凶暴な独占欲に、記憶のない彼女が気づけるはずもない。

ニコラは完全に茹でダコ状態になり、彼の腕の中で、ただされるがままに心臓を爆音で鳴らし続けることしかできなかった。



ロレンツォが村に滞在し始めてから、ニコラの心臓は毎日休まる暇がなかった。


重い水桶を運ぼうとすれば、いつの間にか後ろにいて「僕の役目だ」と奪われ。

木の実を割ろうとすれば、「手を怪我するぞ」と彼自身の分厚い大きな手で代わりに割ってくれる。


村の娘たちが遠巻きに黄色い悲鳴を上げる中、彼がその熱を帯びた瞳で見つめるのは、いつもニコラだけだった。


「ねえニコラ! 絶対、絶対ロレンツォさんはニコラのこと好きよ! あの熱烈なエスコート、まるで物語の騎士様みたいじゃない!」


村の共同洗い場で、親友のルチアが洗濯物を絞りながら興奮気味に身を乗り出してきた。


「そ、そんなわけないよ……っ!」


ニコラは真っ赤になった顔を冷たい川の水でパシャパシャと洗い、ふるふると首を横に振った。


「だって、彼……すごく大人びて見えるけど、たぶんわたしより随分と年下だよ!? わたしの年齢は分からないけど……彼の肌の張りや骨格の若さを見れば、きっと八つか、下手したら十近く違うはずよ!」


「うーん、確かに。あの色気に騙されそうになるけど、よく見たらまだ二十代前半くらいだもんねぇ」


ルチアが腕を組んで唸っていると、そこに薪を抱えたマテオが通りかかった。


「おっ、またあの黒服の男の話か? いや、正直俺も不思議なんだよな」


マテオは薪をドサッと置き、不思議そうに首を傾げた。


「いや、ニコラが綺麗なのは俺も認めるぜ? でもよ、あんな貴族の王様みたいな、とんでもねえ美男子だぞ。村の外に出りゃ、もっと若くて傷一つない、お姫様みたいな美人がいくらでも群がってくるはずだろ。なんでわざわざ、この村のニコラなんだ?」


「ちょっとマテオ! ニコラに向かって失礼でしょ!」


「い、いや、そういう意味じゃなくてだな!」


ルチアがポカポカとマテオの背中を叩くのを横目に、ニコラは自分の腕をそっと撫でた。


ブラウスの袖口から微かに覗く、刃物で斬られたような生々しい傷跡と、火傷の痕。


(マテオの言う通りだ。ものすごい美人でもない、若くもない、おまけにこんな恐ろしい傷だらけのわたしを……どうして彼は、あんなにも熱く、愛おしそうに見つめるの?)


あの日、広場で出会った時。


彼は泣きそうな顔で、ニコラのことを『ニコ』と呼んだ。


その後『人違いだった』と言ったけれど、彼がわたしに触れるたび、わたしの細胞の奥底が『彼を知っている』と甘く悲鳴を上げるのだ。


(……もしかして。彼は本当に、記憶を失う前のわたしを知っているんじゃないだろうか)


この恐ろしい無数の傷跡の理由を。ニコラが何者で、どんな過去を生きてきたのかを。 彼がニコラに執着する理由は、その『過去』にあるのではないか。


ーーその日の夕暮れ。


ニコラは決意を胸に、村はずれの丘で一人、夕陽を見つめていたロレンツォの元へと向かった。


「ロレンツォさん!」

声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。


夕陽を背に受けた彼の金髪が風に揺れ、長い睫毛に縁取られた瞳が、わたしを見た瞬間にひどく優しく、甘い熱を帯びて細められる。


「ニコラ。……迎えに来てくれたのか?」


彼が自然な動作でニコラの手を取ろうと伸ばしてきたその大きな手を、ニコラは今日だけは、そっと避けた。

「……え?」

 彼の手が、空中でピタリと止まる。


「ロレンツォさん。……一つだけ、正直に答えてください」


ニコラは両手で自分のスカートの裾をギュッと握りしめ、彼の目を真っ直ぐに見上げた。


「あなたは本当は……わたしの過去を知っているんじゃないですか?」


「……」


ロレンツォの表情から、スッと大人の余裕が消え去った。


「あの日、あなたはわたしを『ニコ』と呼びました。ただの人違いにしては、あなたがわたしに向ける熱は……あまりにも真っ直ぐで、重すぎます!」


ニコラは自らのブラウスの袖を捲り上げ、無数の傷跡が走る腕を彼に見せた。


「この身体の傷。わたしがどこから来て、どんな恐ろしい生活をしていたのか。……もし、あなたが何か知っているのなら、教えてください!」


風が、二人の間を吹き抜ける。


ロレンツォさんは、ニコラの傷だらけの腕をじっと見つめていた。


その瞳の奥で、強烈な葛藤と、底知れぬ痛みが渦巻いているのがわかった。

彼が真実を話せば、ニコラは過去を取り戻せるかもしれない。

けれど、それは同時に、血と硝煙にまみれた『地獄の底』へ、この平和な村からニコラを引きずり戻すことを意味していた。


(……君の過去を教えれば、君はまた、自分を血生臭い年増だと卑下し、僕から遠ざかろうとするだろう。……それに、何より)


彼は、今のニコラが『過去の因縁』から完全に解放され、ただの女性として笑っているこの真っ当な幸せを、自分のエゴで壊すことだけは絶対に避けたかったのだ。


やがて。


ロレンツォはゆっくりと歩み寄ると、逃げる間も与えずに、ニコラのその傷だらけの腕を、自らの大きな両手でそっと、壊れ物を扱うように優しく包み込んだ。


「ロレ、ンツォさん……っ!?」

「……君の過去がどんなものであれ」

彼は、ニコラの手首の醜い火傷の痕に、祈るようにそっと額を押し当てた。


「この傷は、君が誰よりも優しくて……自分の命を削ってでも、愛する者たちを守り抜いた、世界で一番誇り高く美しい『勲章』だ。……それだけは、僕が保証する」


「あっ……」


彼の言葉の奥にある、血を吐くような切実な響き。

そして、傷跡に触れる彼の唇の、火傷しそうなほどの熱さ。 その瞬間、ニコラの目から、理由もわからない涙がポロリとこぼれ落ちた。

醜いと怯えていたニコラの過去の傷を、彼はこの上なく愛おしそうに、全肯定してくれたのだ。


ロレンツォは顔を上げると、涙で濡れたニコラの頬を分厚い手でそっと包み込んだ。


「僕が君の過去を知っているかどうかは……今は重要じゃない」


彼から漂う火薬とオーデコロンの匂いが、ニコラを逃げ場のない甘い檻の中へと閉じ込める。


「僕が恋に落ちているのは、過去の幻影なんかじゃない。今、僕の目の前で泣きそうな顔をしている……『ニコラ』、君自身だ」


「〜〜〜っ!?」


ずるい。

過去のことは何も教えてくれないのに。


そんな風に余裕で、圧倒的な色気で丸め込まれてしまったら、記憶のないまっさらなニコラが、彼に惹かれないはずがないじゃないか。


ニコラは顔をカッと耳の裏まで真っ赤に染め、彼の腕の中から逃げることもできず、ただ爆音で鳴り響く自分の心臓の音を聞いていることしかできなかった。



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