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足手まといの没落貴族を拾ったら、数年後、相棒へと成長した彼から逃げられません  作者: *しおり*
第三部

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第四部1

「わたし」の朝は、清らかな川のせせらぎと、森を抜ける心地よい風の音で始まる。


辺境の清流村、アルボラ。ここでの生活が始まって、ちょうど一年が経った。


木漏れ日が差し込むトマス一家の台所で、わたしは硬い木の実をナイフの柄でガンガンと手際よく叩き割り、手早く朝食の準備を進めていた。 「相変わらず、ニコラの手際は魔法みたいだねえ。猟師の男たちよりよっぽど見事だよ」 かまどの火の番をしていたマルタおばさんが、太陽みたいに温かい笑顔で目を丸くする。


「あはは……なんだか、考えなくても勝手に手が動いちゃうの!」


ニコラは少し照れくさく笑って、白いエプロンで手を拭いた。


一年前。わたしはこの村の川岸に、ボロ布のように打ち上げられていたらしい。 それを木こりのトマスおじさんと息子のレオが見つけてくれて、わたしは三ヶ月もの間、高熱にうなされて生死の境を彷徨った。


ようやく目を覚ました時、ニコラは自分の名前が「ニコラ」であること以外、すべてを忘れていた。 どこから来たのか。家族はいるのか。なぜ自分が川を流れていたのか。何も思い出せない。 それ以上にわたしを酷く怯えさせたのは、着替えの時に鏡に映った、自分の身体だった。


華奢な腕や背中に刻み込まれた、刃物で斬られたような無数の生々しい傷跡や、引き攣れた火傷の痕。


(わたしは……過去に、どんな恐ろしい生活をしていたの?)


血生臭い何かに追われているような強迫観念で、夜も眠れず、部屋の隅で膝を抱えて震える日々が続いた。


そんなわたしを救ってくれたのは、マルタおばさんの温かいシチューと、村の人たちの屈託のない優しさだった。


『傷跡なんて、あんたが一生懸命生きてきた証拠じゃないか。過去がどうあれ、ニコラは今、ここで息をしてるんだよ』


その言葉に、どれだけ救われたか分からない。

ニコラは傷跡を隠すように長袖やブラウスを着るようになった。恐ろしい過去の自分に怯えるのはやめて、この温かい村で、ただの『ニコラ』として未来を生きていこうと決めたのだ。


「ニコラ姉さん! 頼まれてた薪、割っておいたよ!」


「ありがとう、レオ。運ぶの手伝うね!」


裏庭に出ると、十六歳になるレオが、少し背伸びをしたような顔で薪を抱えていた。


ニコラがひょいと重い丸太の束を軽々と持ち上げると、彼は「お、俺が持つから無理しないで!」と慌てて顔を真っ赤にする。


「ふふっ、レオは今日もニコラにいいとこ見せようと必死だな」

「ちょっと、からかわないでよマルコ! エルザも笑ってないでさ!」


通りかかった農家の若夫婦——マルコとエルザが、手を繋ぎながらクスクスと笑ってレオをからかっている。 彼らのような、争いとは無縁の「普通の幸せ」を築いている若夫婦の姿を見るたび、わたしの胸の奥は、なんだかとても温かくて、同時にきゅうっと締め付けられるような、不思議な気持ちになる。


(わたしもいつか……あんな風に、誰かと手を繋いで日向を歩けるのかな)


「おーい、ニコラ!」

「あ、ルチア!」


広場の方から、両手に籠を抱えたルチアが小走りでやってきた。わたしより少し年下の彼女は、この村で初めてできた、大好きな親友だ。


「今日、行商人が来てね。すごく可愛い赤いリボンを見つけたの! これでニコラの髪を編み込んだら、絶対似合うと思って!」


「ええっ、わたしに……? そんな可愛いもの、わたしにはもったいないよ!」


「またそんなこと言って! ニコラは素材がいいんだから、もっとおしゃれしなきゃダメ!」


ルチアは強引にニコラを木の切り株に座らせると、この一年で肩甲骨のあたりまで伸びたわたしの黒髪を、優しい手つきで梳かし始めた。


「ニコラの髪、本当に艶々で綺麗。それに、お肌だってすっごく若々しいんだから。レオみたいな村の男の子たちが放っておかないのも無理ないわね」


ルチアの言葉に、ニコラは思わず苦笑した。

自分の本当の年齢は分からないけれど、きっと「婚礼適齢期」と呼ばれる年はとうに過ぎている気がする。


それなのに、鏡に映るニコラの身体は、自分でも不思議なほど引き締まっていて、細胞の隅々まで若々しいのだ。


ルチアに髪を編み込んでもらい、赤いリボンを結んでもらう。 かつてのニコラなら、絶対に選ばなかったであろう可愛らしい装い。でも、こうして女の子同士でキャッキャと笑い合いながらおめかしをする時間は、胸がくすぐったくなるほど嬉しくて、泣きそうなくらい幸せだった。


暴力も、血の匂いもない。ここには、嘘偽りのない真っ当な日常がある。


でも——。


ふと一人になって風に吹かれている時。 ニコラは無意識に、自分の右斜め後ろを振り返ってしまう。


安全な村のベッドで眠る時も、なぜか自分の背中に広くて温かい「誰かの背中」を探してしまい、毛布を強く抱きしめて丸くなってしまう。


(わたしは……誰を待っているんだろう)


ふとした瞬間に鼻先を掠める、嗅いだことのないはずの『火薬とオーデコロン』の匂い。

その幻の匂いを思い出すたび、胸が張り裂けそうに痛くなるのだ。


ニコラは、自分の過去を捨ててここで生きると決めた。

それでも、身体の奥底には、その匂いの主への愛おしさと、彼を守らなければという切実な祈りだけが、細胞レベルで確かに刻み込まれている。


「……っ」


不意に込み上げた涙を、ニコラはブラウスの袖で慌てて拭った。


泣いちゃダメだ。


せっかくルチアが可愛くしてくれたんだから。 ニコラは大きく深呼吸をして、青く澄み渡るアルボラの空を見上げた。


彼が誰なのかは分からないけれど。


(わたしは今日も、この平和な村で、わたしらしく笑って生きていくよ。)


翌朝。


村の広場は、月に一度の『行商人の日』で朝から浮き足立っていた。


「あーあ、今回の行商人の中にも、運命の王子様は乗ってなかったわねぇ」


広場の隅にある木箱に腰掛け、ルチアが退屈そうにため息をついた。

彼女の視線の先では、荷馬車から色とりどりの布や香辛料を下ろす行商人たちを、村の若い娘たちが遠巻きにキャッキャと眺めている。


この平和で緑豊かなアルボラ村は、居心地はいいけれど、若者にとっては少し退屈な場所だ。

だから村の娘たちは皆、こうして外からやってくる行商人の中に、自分をこの村から連れ出してくれるような『素敵な外の世界の男の人』がいないかと、密かに胸をときめかせている。


「ルチア。運命の王子様なら、ずっと前から君のすぐ隣にいるじゃないか」

「ちょっとマテオ、急に顔を近づけないでよ! 暑苦しいわね!」


隣で大袈裟にポーズを決めたのは、村の青年マテオだった。

彼はルチアのことがずっと好きで、その繋がりでニコラともよく話をする気さくな男友達だ。


「ニコラからも言ってやってくれよ。俺くらい働き者で、将来有望な木こりは村にいないってさ」


「ふふっ、そうだね。マテオは昨日もトマスおじさんより早く丸太を割り終えてたし、とっても頼りになるよ!」


ニコラが笑ってフォローすると、マテオは「ほら見ろ!」と胸を張り、ルチアは「ニコラは優しすぎるのよ!」と呆れたように笑った。


こんな風に、他愛のない冗談を言い合いながら過ごす時間が、わたしはとても好きだった。


ルチアやマテオ、そしてレオたち村の若者たちと笑い合っていると、自分が抱える恐ろしい無数の傷跡や、過去の空白なんて、何でもないことのように思えてくるからだ。


「でもさ、ルチアの言うことも分かるぜ。たまには、俺たちも腰を抜かすような、すっげえ美人の旅人でも村に来ないかなぁ」


マテオが荷馬車の方を見ながら伸びをした、その時だった。


「……あれ?」


マテオの言葉が、不自然に途切れた。


彼だけではない。

荷馬車に群がっていた村の娘たちも、品物を並べていた行商人たちも、次々と広場の入り口——村へと続く丘の上の道へと視線を向け、水を打ったように静まり返っていったのだ。


「どうしたの、マテオ?」


ニコラが尋ねようとした瞬間、そよそよと吹いていたのどかな村の風が、不意に変わった。

鼻先を掠めたのは、パンの焼ける匂いでも、行商人の香辛料の匂いでもない。 嗅いだことのないはずの、けれど脳髄の奥を直接焦がすような、強烈な『火薬と機械油』、そして『上質なオーデコロン』の混じった匂い。


(なに、この匂い。……なんだか、すごく……)


ドクン、と。心臓が痛いほどの音を立てて跳ねた。

無意識に、わたしは立ち上がっていた。

丘の上から、ゆっくりと広場へ向かって歩いてくる一つの影があった。


牧歌的な村には致命的に似つかわしくない、上質な黒いスーツを着崩した長身の若い男。


長旅の埃にまみれてはいるが、その顔立ちは、村の娘たちが夢見ていた『王子様』などという甘っちょろい言葉では到底表現しきれない。


宗教画から抜け出してきたような、恐ろしいほどの美貌と、数多の死線を越えてきた者だけが持つ、氷のように冷たくもとんでもない色気を放っていた。


だが、村の男たちが息を呑み、警戒して後ずさった理由は別にある。

彼の広い背中には、村の誰も見たことがないような、無骨で血生臭い旧式の機関銃が、まるで彼自身の命そのもののように、大切に背負われていたからだ。


「な、なんだあの男……。行商人じゃないぞ」


マテオがルチアを庇うように一歩前に出る。

村の娘たちは、その圧倒的な男の気迫と美しさに魅入られ、言葉を失っていた。


男の冷たく鋭い瞳が、広場の人だかりを滑るように見渡し——そして、木箱の前に立っていた『ニコラ』を捉えた瞬間。


ピタリ、と。 男の足が止まった。


ニコラも、彼から目を逸らすことができなかった。

彼が誰なのか、わたしは何も覚えていない。


なのに、彼のその痛切で、泣き出しそうなほど切迫した暗い瞳と視線が交差した途端。 ニコラの目から、自分でも信じられないほどの大粒の涙が、ポロポロとこぼれ落ちた。


(ああ……)


ニコラが眠る時、いつも背中に探していた『温かくて広い背中』は。 右斜め後ろの空白に、無意識に探し求めていた”誰か”は。


彼だ。


細胞のすべてが、血が、魂が、彼を知っていると叫んでいる。


「……ニコ」

若い男の喉の奥から、血を吐くような、掠れた声が漏れた。


彼はこちらへ向かって、震える足取りで一歩を踏み出した。



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