新たな日々9
古代要塞『天使の錨』がアルラド海の底へと崩落し、ニコという一人の不器用な掃除屋が波間に消えてから、数ヶ月が経過していた。
「——本当に、馬鹿な妹だよ」
イゾラの裏路地にある静かな酒場。
ジュリオは、誰もいないカウンターで一人、透明な炭酸水が入ったグラスに『黄色いレモン』を落としていた。
彼の手元には、ロレンツォから叩きつけられた『ニコの捜索依頼』の分厚い手配書がある。
彼女を光の世界へ帰すため、あえて冷たく突き放した自分の不器用な自己犠牲が、結局彼女を死地に追いやってしまったのではないか。
その深い喪失感と後悔に、ジュリオは静かに目を伏せた。
「……だが、あの子は、君が死んだなどとこれっぽっちも信じていないようだ」
ジュリオは、ロレンツォが手配書に書き込んだ『生存確率』の膨大な計算式を見て、ふっと自嘲気味に、しかしどこか安堵したように微笑んだ。
「……生きて、彼の元へ帰ってやってくれ。ニコ」
ジュリオは、自身の情報網のすべてを使って、近海の漂流者や名もなき死体の情報を片端から洗い続けることを静かに誓った。
一方、東の自由都市の裏港では、毎晩のように怒号とため息が交差していた。
「だから! あの海流の速度じゃ、東の無人島に流れ着くなんて物理的にあり得ねえんだよ! なんで俺がそんな岩礁まで飛ばなきゃなんねえんだ!」
「うるさいぞレオン! ロレンツォが『0.1%でも可能性があるなら飛べ』って言ってんだから、黙ってエンジン回せ!」
ツナギを油まみれにした空の運び屋・レオンと、すっかり一丁前の情報屋になったルカが、テーブルに広げた海図を挟んで大声で言い争っている。
その傍らでは、無事に元気な赤ん坊を出産したマリアが、呆れたように苦笑しながら温かいスープをよそっていた。
「もう、二人ともロレンツォの無茶苦茶な指示に文句を言いながら、結局徹夜で捜索ルート探してるじゃない」
「あんな血走った目で『ニコを見つけるまで休むな』なんて言われたら、逆らえるわけねえだろ!」
ルカが頭を掻き毟る。
ピエトロも「ニコ姉ちゃん、絶対生きてるよ!」と手伝いの海図を運んでくる。
誰もが、あの恐ろしい崩落からニコが生き延びているとは、頭のどこかでは信じきれていなかった。
だが、愛する女を失い、完全にタガが外れて狂気的なまでに世界中を這いずり回るロレンツォの執念を見せつけられては、彼らも「ニコの死」を悼んで立ち止まっている暇などなかった。
ーそして、そのロレンツォの狂気的な『生存計算』を、学術的な面から完璧に裏付け、サポートしている意外な人物がいた。
「……ロレンツォの言う通りね。この時期の海流の温度と、彼女の体重の浮力係数を『海洋算術』で弾き出せば……西の辺境大陸まで流されている可能性が一番高いわ」
中立都市の巨大な書庫。 プラントから彼らと共に脱出し、無事に故郷へ帰還した令嬢・ベアトリーチェだ。
彼女は、自分の命を盾にして救ってくれたあの『不器用な命の恩人』の生存を証明するため、家出娘から一転、ロレンツォの捜索の頭脳として日夜膨大なデータ処理を手伝っていた。
「必ず見つけ出してね、ロレンツォ。……私、まだ彼女にお礼も言えてないんだから」
ベアトリーチェは、徹夜で書き上げた海流の予測データを、速達の伝書鳥に託して夜空へと放った。
一方、狂騒のカジノ船のVIPバーでも、その話題で持ちきりだった。
「……いやぁ、純愛をこじらせた男の執念ってのは、本気で恐ろしいねぇ」
ヴィンセントがシガーの灰を落とし、手元の裏帳簿を見て呆れ返った。
「バルディの莫大な隠し資産を、全部あの女の捜索費用にぶち込んでやがる。おまけに、俺たちみたいな悪党のルートまで脅しと金で強引に使い潰す気だぜ」
「ふふっ、いいじゃない。採算度外視で協力してあげましょうよ」
真紅のドレスを纏ったカルメンが、琥珀色のグラスを揺らしながら艶然と微笑む。
「愛する女を失って、地獄の底を血走った目で這いずり回るあの坊や……。二年前よりもずっと危険で、狂っていて、最高に美しいわ。彼らがどんな結末を迎えるのか、最後まで見届けなきゃ」
——光の世界の住人も、裏社会の悪党も。
誰もが、あの小柄な掃除屋の死を覚悟しながらも、一人の青年の『絶対に諦めない狂気』に強引に引っ張られ、いつしか祈るように彼女の影を探し続けていた。
しかし、彼らの必死の捜索網を嘲笑うかのように。 ロレンツォが探し求める「火薬と機械油の匂い」は、どれだけ海を渡り、どれだけ泥水を啜っても、決して彼の鼻腔を掠めることはなかった。
そして、果てしない絶望の旅路は、一年という月日を無情にも飲み込んでいった。
* * *
1年後。
イゾラから遠く離れた、年中灰色の雲に覆われたどこかの名もなき『鉄屑の街』。
赤錆と腐敗した海水の匂いが充満する、荒くれ者たちがたむろする薄暗い海賊の酒場に、不釣り合いな影が一つ、音もなく足を踏み入れた。
上質な黒いスーツを着崩し、完璧にセットされた金髪を持つ、まるで宗教画から抜け出してきたような圧倒的な美貌の男。
だが、その背中には、彼の洗練された身なりには到底似つかわしくない、使い込まれた無骨な『旧式機関銃』が乱暴に背負われていた。
男——ロレンツォ・バルディは、店内の血に飢えた視線など一切意に介さず、迷いのない足取りでカウンターへと歩み寄った。
彼はヴィンセントの情報網や、今や大物運び屋となったルカの力、そして莫大な資金を容赦なく利用し、この数年間、世界中の海やスラムを探索し続けていた。表向きは冷徹なバルディ家の当主として振る舞いながら、その中身は「たった一人の女を取り戻すためなら、世界中の海を干上がらせても構わない」という狂気を孕んだ執念の獣と化している。
ロレンツォはカウンターの丸椅子に腰を下ろすと、バーテンダーが震える手で差し出した琥珀色のグラスを傾け、氷のように冷たく、殺気を孕んだ眼光で裏社会の住人たちをグルリと見回した。
その視線に射抜かれ、酒場の荒くれ者たちが一斉に息を呑み、震え上がる。
ロレンツォはグラスを置き、低く、退廃的な熱を帯びた声で、ただ一つの情報だけを求めて静かに問いかけた。
「……背中と腕に無数の傷跡がある、口の悪い黒髪の小柄な女を知らないか。……僕の、たった一人の逃げた相棒だ」
彼女が自分を光の世界に押し上げようとしたのなら、ロレンツォは何度でも自ら泥水へ飛び込み、地獄の底まで彼女を追いかけて、力ずくでその手を掴み取る。
それが、過酷な生活の中で彼らが結んだ絆の結末であり、ロレンツォ・バルディという男の「生涯を懸けた、愛の生き様」だった。
薄暗い酒場の外では、錆びた鉄板を叩く冷たい雨が、彼の果てしない旅路を祝福するように降り続いていた。




