新たな日々8
鼓膜を圧し潰すような轟音と共に、古代要塞『天使の錨』がその巨大な質量を海へと崩落させ始めていた。
ロレンツォの手によって『黒いシリンダー』が中枢に突き立てられ、システムが完全に破壊されたのだ。床板がひしげ、赤茶けた高熱の蒸気が視界を奪っていく。
脱出ポートの中型艇へと向かって走る二人の前に、要塞の首領が遺した最終防衛プログラム——無機質な駆動音を立てる蒸気機兵の群れと、天井から降下してくる分厚い鋼鉄の隔壁が立ち塞がった。
「ハァッ……、ハァッ……!」
ロレンツォの脇腹からは夥しい血が流れ、上質なスーツをどす黒く染め上げている。限界を超えた出血量と、度重なる死闘の疲労で、彼の足がもつれた。
(……ダメだ。二人じゃ、助からない)
硝煙と血の匂いが充満する中、ニコの脳内で冷徹な生存確率の計算が弾き出された。
彼女は一切の躊躇なく、よろめいた血まみれのロレンツォの胸ぐらを力任せに掴み上げた。
「ニコ……!?」
「飛びな!!」
火事場の馬鹿力。彼女は重傷を負う青年の身体を、中型艇のある安全なポート側へと全霊の力で突き飛ばした。
ドガンッ!!
ロレンツォが硬い甲板に転がり込んだ瞬間、二人の間を隔てるように、分厚い鋼鉄の壁が凄まじい音を立てて落下した。
「ニコ!! 何をしてる、早くこっちへ来い!!」
ロレンツォは肺が破けそうなほど叫び、這いずるようにして隔壁へと向かった。だが、床との間に残された隙間は、もはや人が抜けられる高さをとうに切っていた。
向こう側には、迫り来る無数の蒸気機兵と、燃え盛る紅蓮の炎。
だが、ニコは決して逃げようとはしなかった。
彼女は、自らの命以上に執着し、どんな修羅場でも決して手放さなかった重い無骨な『旧式機関銃』——亡き幼馴染アルドの形見のストラップを外した。
「アタシの相棒なら、こんな鉄屑と一緒に沈んでんじゃねえよ!!」
頭上から迫る鋼鉄の隔壁。
ニコは自身の小柄な身体のバネと体重のすべてを使い、重傷を負っているロレンツォの大柄な身体を、降りてくる隔壁の向こう側——中型艇が待つ安全な脱出ポートのハッチ内へと、思い切り突き飛ばした。
「なっ……ニコッ!!」
ロレンツォの身体が宙を舞い、ハッチの冷たい床へと激突する。
ズッガァァァンッ!!
直後、二人の間を永遠に分断するように、分厚い鋼鉄の隔壁が落下し、凄まじい轟音と共に火花を散らした。だが、床に挟まった瓦礫のせいで、隔壁は完全に閉まりきらず、床との間にわずか数センチの隙間だけを残して停止した。
「……これで、バルディ家の因縁はすべて片付いた。アタシの『護衛』としての仕事も、これで終わりだ」
炎の熱気を浴びるニコの横顔には、死への恐怖など微塵もなかった。ただ、肩の重い荷物を下ろしたような、静かな凪の空気が漂っている。
「ニコ!! 何をしてる、早くこっちへ来い!!」
隔壁の向こう側で、顔を蒼白にしたロレンツォが這いずり、わずかな隙間に血だらけの両手を強引にねじ込んだ。 ギシギシと骨が軋み、無慈悲な鋼鉄が彼の指の皮を容赦なく剥ぎ取っていく。それでも彼は、指先から血を滴らせながら、ニコを掴もうと必死に手を伸ばし続けた。
ニコは、自分を掴もうと血を流すその大きく分厚い手と、精悍に歪んだ顔立ちをじっと見つめた。
六年前。初めてイゾラの酒場で出会った時、彼は重いだけの装飾剣を引きずり、自分の背中にすがりついて泣く、ひ弱で温室育ちの少年だった。 それが今や、自分の背を優に追い越し、大人の男の熱と匂いを纏って、自分のために血を流して泣き叫んでいる。
(……本当は、わかってたんだ)
ニコの胸の奥で、強固な自己卑下の鎧がボロボロと崩れ落ちていく。
カジノの夜、彼に壁際へ追いやられ、その熱い体温とオーデコロンの匂いに包まれた時。彼が自分の死角を守り、自分だけを真っ直ぐに見つめてくれた数え切れない日々。
(私も、あんたのその大きくて不器用な手に……しがみついて、ずっと一緒に生きていたかったよ)
だが、自分にはその資格はない。自分のような血と硝煙にまみれた疫病神がそばにいれば、この眩しい未来のある青年を、必ず地獄へ道連れにしてしまう。
「お前はもう、自分の身を守れる立派な男になった」
ニコは、溢れそうになる涙を必死に堪え、声の震えを殺して告げた。
「……これからは、私みたいな血生臭いババアのことは忘れて。光の世界で、真っ当な普通の女の子と……幸せに生きな」
その決定的な別れの言葉が、ロレンツォの理性を完全に焼き切った。
「ふざけるな、バカを言うな!!」
ロレンツォは血を吐くような悲鳴を上げ、隔壁の隙間にねじ込んだ腕をさらに深くまで押し込んだ。
「お前がいない光の世界になんて、何の意味がある! 僕は君の隣に立つためだけに、この六年間、泥水を啜ってきたんだぞ!!」
血管が切れんばかりに絶叫し、涙と血で顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼の指先が、あと数ミリでニコのブーツに届くところまで迫る。
「他の女なんていらない! 僕が欲しいのは、僕が生涯愛し抜くと決めたのは……君だけだ、ニコ!!」
この六年間、ずっと押し殺してきた、一人の男としての魂からの愛の告白。
それが響き渡った瞬間、ニコの目から、せき止めていた涙がポロポロとこぼれ落ちた。
(……ああ、なんて……愛おしくて、バカな男なんだろう)
ニコはゆっくりと膝をつき、隔壁の隙間から必死に伸ばされている彼の手——剣ダコに覆われ、自分のために傷だらけになったその大きな掌に、そっと自分の小さな手を重ねた。
「ニ、コ……?」
触れ合った指先から、お互いのひどく熱い体温が伝わってくる。 ロレンツォはその手を強く握り返そうとした。
だが、ニコは自分の血濡れた手で、彼の指先を、優しく、けれど決定的な拒絶の力で、隔壁の向こう側へと押し返した。
「だめだ。……これ以上、あんたを汚したくない」
「やめろ……っ、離すな、ニコ!!」
「……私を見つけてくれて、ありがとう。ロレンツォ」
ニコは立ち上がり、迫り来る蒸気機兵の群れと紅蓮の炎へ向けて、大きく後退した。
視線の先で泣き叫ぶ青年に向けられたのは、いつものような不敵で毒づくような笑みではない。
化粧も剥がれ、泥と血にまみれた顔。それでも、その瞬間の彼女は、強がりの鎧をすべて脱ぎ捨てた——ただ一人の男を深く愛した、年相応の『一人の女』としての、息を呑むほど美しく、ひどく悲しげな微笑みだった。
(……ジーナ。アルド。ガルド。……今、そっちへいくからね)
共に泥水を啜り、先に逝ってしまった愛する家族たちの顔が浮かんでは消える。 ニコは、炎に包まれる要塞の端から、暗く冷たい海へと背中から身を躍らせた。
「——愛してるよ。......ロレンツォ」
鼓膜を破るような大爆発の音が要塞の中枢を飲み込んだ、その瞬間。
ロレンツォの絶叫を置き去りにして、ニコの身体は黒い波間へと真っ逆さまに吸い込まれた。
冷たい海水が全身を打ち据え、意識が遠のいていく中。
彼女の鼻腔の奥に最後まで残っていたのは、彼から移った微かなオーデコロンの香りと、焦げるような大人の男の熱の記憶だけだった。
ズッガァァァンッ!! そして、二人の間を隔てていた鋼鉄の壁が、完全に、重く冷たい音を立てて閉じ切った。
*
ニコの身体が、炎に包まれる要塞の端から暗く冷たい海へと落ちていく、まさにその瞬間だった。
古代要塞『天使の錨』の中枢が臨界点に達し、鼓膜を完全に破壊するような凄まじい大爆発が起きた。
真っ白な閃光が視界のすべてを奪い去る。
直後、要塞の崩壊が巻き起こした強烈な衝撃波と爆風が、鋼鉄の隔壁の向こう側にいたロレンツォの身体を、中型艇ごと空高く吹き飛ばした。
内臓が押し潰されるような重力と、船体が海面に叩きつけられる激しい衝撃。ロレンツォの意識は、そこで完全に暗転した。
* * *
どれほどの時間が経っただろうか。
嵐と爆発の轟音が嘘のように消え去り、ロレンツォの耳を打ったのは、船腹を優しく撫でる穏やかな波の音だけだった。
重い瞼を押し上げる。
見上げれば、頭上には突き抜けるような青空が広がり、眩いばかりの朝陽がアルラド海の海面を黄金色に染め上げている。
身を起こし、痛む身体を引きずって甲板の縁に立つ。あの忌まわしい黒鋼の巨大要塞も、それを守っていた結社の最新鋭艦隊も、すべてが海の底へと消え去っていた。
彼の父が命を懸けて守り抜き、彼自身が泥水を啜ってまで破壊を誓った「旧貴族の矜持」と、世界の理不尽なパワーバランスの元凶が、ついに完全に清算されたのだ。
すべてが片付いた、完璧で、残酷なほどに美しい朝。
しかし。
「ニコ……?」
ロレンツォはふらつく足で甲板を歩き回り、声を枯らして叫んだ。
黄金色に輝く波間には、要塞の無数の瓦礫が漂うばかりで、いつも不機嫌そうにタバコを吹かしている、あの小柄で薄汚れた掃除屋の姿はどこにもない。
返事は、どこからも返ってこなかった。
足元に転がっていたのは、彼女が最後に隔壁の隙間から放り投げた、使い込まれた無骨な『旧式機関銃』だけだった。
彼女の温もりと、むせ返るような火薬と機械油の匂いが染み付いた、重い鉄の塊。
あれほど望んでいた平穏な光の世界が訪れたというのに、彼を六年間守り抜き、共に血を流して戦い抜いたたった一人の相棒は、彼の前から永遠に姿を消してしまったのだ。
ロレンツォは甲板に膝をつき、彼女の形見である機関銃を両手で拾い上げた。
ズシリとした、命の重さ。
彼女にとって、この銃は亡き幼馴染アルドの形見であり、自身の命以上に執着してきた重い『錨』だった。それを自分に渡したということは、彼女が「過去の因縁」と「裏社会の泥水」をすべて終わらせたという、決定的な証明に他ならない。
『これからは、私みたいな血生臭いババアのことは忘れて、光の世界で、普通の女の子と幸せに生きな』
脳裏に蘇る、彼女の痛切で不器用な愛情表現。
バルディ家の因縁は片付いた。アタシという薄汚い過去を切り捨てて、あんたは本来の綺麗な世界へ還れ。
「……ふざけるな」
ロレンツォの奥歯が、ギリッと嫌な音を立てて鳴った。
彼の胸の奥で、圧倒的な喪失感を塗り潰すほどの、激しい怒りと強烈な執着がどす黒く燃え上がる。
この六年間、自分が世界の平和やバルディ家の復興のためではなく、ただ『彼女の右の死角(隣)に並び立つため』だけに泥水を啜り、血反吐を吐いてきたことを、あの女は全く理解していない。彼女がいない光の世界など、彼にとっては完全に無価値な虚無でしかなかった。
「僕の許可もなく、勝手に終わらせるな……っ!」
ロレンツォは、機関銃の冷たい銃身を、骨が白くなるほど強く、壊れそうなほど力強く抱きしめた。
自分の命をゴミのように捨てて、「綺麗な世界」を一方的に押し付けてきた彼女の自己犠牲は、彼にとって絶対に許容できない最大の屈辱だった。
生死が絶望的な状況。だが、彼はただ感情的に「彼女は生きているはずだ」と妄信するような愚かな男ではない。彼はバルディ家の『海洋算術』を極めた、冷徹な計算と理詰めの男だ。
ロレンツォは悲嘆に暮れる暇など己の脳髄に与えなかった。
爆発の規模と爆心地からの距離、海流の速度と水温、そして彼女が海面へ落下した時の摩擦係数と入射角。
それらを脳内で狂ったように回し、「彼女が生存している可能性」を1%でも見つけ出そうと、物理的・数学的な証明を即座に開始する。
(……あの高さからの落下でも、彼女の反射神経なら致死的な水面衝突は避けられる。爆発の衝撃波も、要塞の崩落物が盾になれば直撃は免れるはずだ)
さらに、彼は誰よりもニコの「異常なしぶとさ」を知っている。
麻酔なしで自らの肉を太い針で縫い合わせ、生きるためならどんな泥水でも平然と啜る、彼女の異常なまでの「生存本能」を間近で見てきたのだ。
「あの野蛮でしぶとい女が、こんな海であっさり死ぬはずがない」
彼は感情論ではなく、彼女の圧倒的な強さに対する絶対的な信頼と、自らの冷徹な計算式を根拠にして、彼女の生存を「確信」へと変えた。
ロレンツォは、朝焼けの黄金色の海を鋭く睨みつけ、腕の中の機関銃を力強く握り直した。
すべてが終わった後、本来なら彼は「バルディ家当主」として表の光の世界に返り咲き、特権階級として生きる道が用意されていた。だが、彼はその眩しい道を、一切の躊躇なく永遠に捨て去る。
彼が選んだのは、『ニコが遺した機関銃を自分が背負い、彼女を探すために、再び裏社会の泥水の中を這いずり回る道』だった。
かつてニコが、アルドの代わりに汚れ仕事を被ったように。
今度は彼自身が、ニコの機関銃とガルドの短剣を手に、彼女の代わりに「掃除屋」のような真似事をして裏社会を放浪するのだ。
ニコの匂い——強烈な火薬と機械油の匂いが染み付いたこの重い機関銃を背負うことでしか、もはや彼は呼吸を繋ぐことができないのだから。
「君の右の死角は、僕のものだと言っただろう……っ。何度僕を突き放そうと、絶対に許さない」
ロレンツォは、血に汚れたままの顔で、不敵で凶暴な笑みを浮かべた。
青い空と黄金色の海を背景に、一人残された大人の男が、相棒の重い銃を背負い直して静かに立ち上がる。
いつか必ず、地獄の底まで泥をすすってでも、彼女を見つけ出す。その狂気的な決意だけが、波の音の中に確かな熱を帯びて溶けていった。




