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足手まといの没落貴族を拾ったら、数年後、相棒へと成長した彼から逃げられません  作者: *しおり*
第三部

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新たな日々7

夜の海。分厚い暗雲を切り裂いて進む飛行艇のキャビンには、先ほどの狂騒が嘘のような、重く冷たい静寂が落ちていた。

響くのは、双発のプロペラが空気を叩き斬る無機質な轟音だけだ。


「……右のエンジンが被り気味だな」

操縦桿を握るレオンが、油まみれの指で計器盤のガラスをトントンと叩く。

「混合比が濃い。吸気弁を少し絞りな」

助手席で冷たい夜風を浴びながら、ニコは不規則な振動音だけを聞き分けて淡々と返した。彼女が纏うカルメンの豪奢なシルクドレスは、先ほどの死闘ですでに無惨に引き裂かれ、べっとりと赤黒い血と機械油の染みがこびりついている。完璧だったメイクも潮風で剥がれ落ち、彼女はすっかりいつもの「薄汚れた掃除屋」へと戻っていた。


機体後部。わずかに揺れるアンバーのランプの下では、前列とは全く別の世界の空気が流れていた。

「この連星軌道の引力変数を、プラントの防空網の周期に当てはめれば……」

「摩擦係数の誤差を修正。……防衛システムの巡回ログに生じる隙間は、わずか3秒ね。いけるわ」


奪い取った星図の石板を挟み、ロレンツォとベアトリーチェが身を乗り出して解読を進めている。羊皮紙に素早く書き込まれていく数式。そこには、裏社会の泥水や暴力とは無縁の、高度な『海洋算術』による完璧な知の共鳴があった。


やがて複雑な航路の解読を終え、限界まで脳を酷使したロレンツォが、座席の背もたれに深く寄りかかって浅いまどろみに落ちた時のこと。


ニコは、向かいの席で規則的な寝息を立てる彼にそっと近づき、膝の上で無防備に投げ出されたその大きな手に、自身の指先をそっと触れ合わせた。


分厚い剣ダコと、自分を庇って無数に刻まれた生々しい傷跡。


四年前、自分にすがりついて泣いていた白く柔らかい手は、自分の命を守り抜くためだけに、ここまでボロボロに、そして頼もしく男らしく成長してくれたのだ。


バルコニーで交わした、熱く狂おしいほどのキスと、痛いほどの愛の告白。


彼がどれほど自分を深く、狂気的なまでに愛してくれているか、彼のその不器用な手がすべてを物語っていた。


(……ああ。アタシは本当に、この男を愛してしまったんだ)


だからこそ、だ。


ニコは、彼の傷だらけの大きな手を両手でそっと包み込み、決して起こさないように、祈るように自分の額を押し当てた。


彼と心を通わせたことで、彼女の中で『彼と一緒に生きて幸せになりたい』という願望よりも、さらに強大で純粋な感情が完成してしまっていた。


(こんなにも私を愛してくれたこの素晴らしい男を、絶対に死なせたくない。……私の命に代えても、彼にだけは、真っ当で眩しい光の未来を生かしてやらなきゃならない)


それは、自らの身を炎に投げ打ってでも愛する者を守り抜くという、痛切でいて、それでいいて究極の自己犠牲の愛情の完成だった。 ニコは彼の掌の温もりを自身の魂に深く刻み込むと、そっと手を離し、迫り来る決戦の地へ向けて、静かに己の機関銃のグリップを握り直した。



蒸気と火花が乱舞する、要塞『天使の錨』の最奥・制御室。 


最新鋭のパワードスーツとスマート火器に身を包んだ結社の首領が、圧倒的な火力で室内を蹂躙していた。


「バルディの小僧……。貴様の父親と同じく、海の底で腐るがいい!」 首領の放つレーザーと重機関砲の弾幕が、石壁をバターのように削り取っていく。


だが、その弾幕の海を、使い込まれた旧式機関銃の野蛮な咆哮が真っ向から切り裂いた。


「邪魔だ、鉄ダルマ!」 


ニコが瓦礫を蹴り、首領の視界とセンサーを執拗な牽制射撃で完全に前方に釘付けにする。硝煙の匂いが充満し、オレンジ色の火花が首領の装甲を叩いた。


そのコンマ数秒——完璧な「一秒の死角」。 


ロレンツォは気配を完全に殺し、ルカに叩き込まれたストリートの足運びで、音もなく首領の懐深くへと潜り込んだ。


「なに……っ!?」 


首領がセンサーの警告音に気づいた時には、ロレンツォはすでに下半身のバネと体重のすべてを乗せた姿勢に入っていた。 ガルドから授かった実戦用短剣が、パワードスーツの装甲の唯一の隙間——首の動脈へと、下から深々と突き立てられる。 


ズブッ。


 血の飛沫が舞い、巨大な暴力の象徴が、重々しい音を立てて崩れ落ちた。

 血と泥に塗れた「一秒の連携」が、最新のシステムを完全に凌駕した瞬間だった。 だが、安堵の暇はない。


 首領が倒れても、要塞の起動シーケンスは止まらなかった。制御室の巨大なクリスタルが不吉な赤色に染まり、床が地震のように激しく揺れ始める。


「マズいね……システムが暴走してる」


 ニコが忌々しげに舌打ちをする中、ロレンツォは真っ直ぐに制御パネルへと歩み寄った。


 彼は懐から、父エンツォが遺した『黒いシリンダー』を取り出す。18歳になるまで封印されていた、結社を潰すための劇薬。


「……負の遺産は、僕の代で終わらせる」


 ロレンツォは、血と泥に塗れた分厚い手で、シリンダーを制御パネルの窪みへと力強く突き立てた。 


ガシャンッ!


 要塞全体を駆け巡っていた赤い光が、一瞬にして青白い閃光へと反転し、そして——完全に消失した。

 駆動音が止み、自らの質量を維持できなくなった巨大要塞が、凄まじい地鳴りと共に海中へと崩壊を始める。天井から巨大な岩盤が剥がれ落ち、高圧の蒸気パイプが次々と破裂して熱風を噴き出した。


「ニコ、飛ぶぞ!」


 ロレンツォは、先ほどの戦闘でニコを岩塊から庇った際に背中に負った重傷から、夥しい血を流していた。上質なスーツは裂け、動くたびに顔が苦痛に歪む。

それでも彼は、ニコの細い腕を強く引き、自分たちの中型艇が待機している脱出ポートへと、崩れゆく瓦礫の中を駆け出した。脱出ポートの分厚い鋼鉄のハッチまで、あと十数メートル。 


その時だった。 


ピピッ、という無機質な電子音が鳴り響き、通路の前後から、けたたましい歯車の駆動音と共に『蒸気駆動の歯車式の無人羽ばたきオートマタ』の群れが出現した。首領が死の間際に起動させていた「最終防衛プログラム」だ。


 さらに壁面からは無数の自動スマート砲座が展開し、無数の赤いレーザーサイトが、二人を十字砲火の罠へと完全に囲い込んだ。


 同時に、頭上からは二人を分断し、この崩壊する通路に閉じ込めるための分厚い鋼鉄の隔壁が、鼓膜を劈く轟音を立てて落下し始めた。


「くそっ……! 海洋算術、展開……!」


 降り注ぐ銃弾の嵐の中、ロレンツォは己の背中の激痛を奥歯で噛み殺し、ニコを庇いながら血走った目で空間の変数を読み解こうとする。跳弾の軌道、隔壁の落下速度、オートマタの死角。 


だが、ニコは数々の死戦で培った「掃除屋としての生存本能」で、彼の計算よりも早く、一瞬で残酷な答えに辿り着いていた。


(……ロレンツォはもう限界だ)


 背中の出血が酷すぎる。このまま二人で弾幕を抜けようとすれば、あいつは確実に私を庇って、この隔壁に挟まれるか、ハチの巣になって死ぬ。 

ヒュンッ、と熱い塊が空気を切り裂き、ニコの頬を掠めた。


 ツーッと一筋の血が流れ落ちる。 ニコは、自身の背中——四年間、いや、アルドが死んでからの長い年月、自分の命よりも重い「錨」として背負い続けてきた『旧式機関銃』の重みを確認した。


 弾倉はすでに空だ。 彼女は、血に濡れた手でその無骨なスリングを掴むと、一切の躊躇なく、自身を過去に縛り付けていたその重い鉄塊を、崩れゆく通路の床へと乱暴に投げ捨てた。


 ガランッ、と。アルドの形見が、虚しい金属音を立てて転がる。


「……っ、ニコ!? 機関銃をどうして……」


 その信じられない光景に、驚いて振り返るロレンツォ。

 

 その瞬間。

 ニコは、彼の胸ぐらを両手で力任せに掴み、凄まじい脚力で床を蹴った。


「アタシの相棒なら、こんな鉄屑と一緒に沈んでんじゃねえよ!!」


 頭上から迫る鋼鉄の隔壁。


 ニコは自身の小柄な身体のバネと体重のすべてを使い、重傷を負っているロレンツォの大柄な身体を、降りてくる隔壁の向こう側——中型艇が待つ安全な脱出ポートのハッチ内へと、思い切り突き飛ばした。


「なっ……ニコッ!!」


 ロレンツォの身体が宙を舞い、ハッチの冷たい床へと激突する。


ズッガァァァンッ!!


 直後、二人の間を永遠に分断するように、分厚い鋼鉄の隔壁が完全に落下し、凄まじい轟音と共に火花を散らしてロックされた。


ニコは、薄汚れたバックミラー越しにその後部座席を見つめた。

ランプの温かい光に照らし出された、宗教画のように美しい青年の彫りの深い横顔と、プラチナブロンドの髪を揺らす可憐な令嬢の横顔。


息を呑むほどに調和のとれた、一枚の完璧な絵画。


自分には一生理解できない光の言語で語り合い、同じ高みで微笑み合う二人。ニコの鼻腔を、ベアトリーチェから漂う上質な花の香水が掠めた。自身の袖から匂い立つ硝煙と血の悪臭が、たまらなく不快なものに感じられ、奥歯をギリッと噛み締める。


(……私には、あの計算式は一生理解できない。彼の隣で光の言葉を話せるのは、あの子だけだ)

胃の腑の底に、鉛のような冷たい塊がドスリと落ちた。


ニコは静かに視線を外し、ドレスの深いスリットから覗く太腿に巻かれたホルスターの、冷たい革の感触を指先でそっとなぞった。


(だったら……せめて私は、彼らを生き延びさせるための『盾』になろう)


誰にも気づかれないよう、静かに、そして決定的な覚悟と共に、彼女は愛用の旧式機関銃の銃身を強く握り直した。


「防空網の切り替わりまで、あと五秒! 四、三……今よ!」


ベアトリーチェの叫びと共に、レオンが操縦桿を力任せに手前へ押し込んだ。


急降下による強烈な重力で内臓が浮き上がる。

洋上プラントの鋼鉄の甲板へ、飛行艇の車輪が悲鳴を上げて激突した。火花が散り、ゴムの焦げる悪臭が鼻を突く不時着気味の強襲。


ハッチを蹴り破り、外の冷たい空気の中へ飛び出した瞬間——そこには、冗談の入る余地など一切ない、無慈悲な死の空間が待ち構えていた。


新興商会の重装甲兵が壁のように立ち並び、空には歯車が不気味な駆動音を立てる蒸気駆動の自律型偵察機が、無数の赤い集光レンズの照準器をこちらへ向けている。


ドガガガガッ!


鼓膜を劈く爆音。ニコの旧式機関銃が、容赦のない猛烈な弾幕を前方に展開した。

反動で華奢な肩が大きく揺れ、空薬莢が鋼鉄の甲板に滝のように降り注ぐ。オレンジ色のマズルフラッシュが、闇を断続的に切り裂き、重装甲兵たちの足止めを強いる。


その強烈な弾幕によって生まれた、ほんの一瞬の死角。

ニコの右斜め後ろから、ロレンツォが黒い影となって滑り出た。

ルカ直伝の、足音を完全に殺したストリートのステップ。泥に汚れた革靴が甲板を滑り、彼は敵の懐の最も深い位置へと潜り込む。


腕の力ではなく、下半身のバネと体重を乗せた、ガルドの短剣。

ズブッ、という生々しい音と共に、装甲の隙間である喉笛を次々と、そして的確に掻き切っていく。


生温かい血飛沫が舞い、硝煙の匂いが充満する。

言葉を交わす必要すらない。ニコの重火力が視界を制圧し、ロレンツォの刃が死角からの反撃を完全に断つ。冷酷で完璧な、殺戮の連携がそこにあった。


「ベアトリーチェ、今のうちに中央端末へ!」

ロレンツォが血に濡れた短剣を振り払いながら叫ぶ。

ペールブルーのドレスの裾を破り捨てた令嬢が、プラントの防衛を完全停止させるコマンドを入力すべく、銃弾の雨を縫って奥のメインシステムへと駆け出した。


だが、敵の層はあまりにも厚かった。


「——させないわよ!」


ベアトリーチェが端末に指を滑らせた瞬間、上層のキャットウォークから、算術ライフルを構えた商会の精鋭部隊が増援として姿を現したのだ。

無機質な赤い集光レンズの照準器が、無防備な令嬢の細い背中へ、そしてロレンツォの胸元へと無数に収束していく。


(……しまった!)

ロレンツォが短剣を構え直そうとしたが、距離が遠すぎる。


カチンッ。

その時、ニコの腕の中で、旧式機関銃が乾いた、致命的な音を立てた。

弾切れだ。


「……ッ!」

ニコの漆黒の瞳が、限界まで見開かれた。

右の死角にはロレンツォ。前方には、システム停止のために無防備に背を向けるベアトリーチェ。そして、上空から一斉に放たれようとしている致死の凶弾。


自分の武器は空だ。

ならば、残された手段は一つしかない。


ニコは、一切の躊躇なく、手元の重い機関銃を乱暴に投げ捨てた。

そして、床を蹴り、ベアトリーチェの背中へと一直線に飛び込み——その華奢な身体を、思い切り端末の影へと突き飛ばした。


「きゃあッ!?」

ベアトリーチェが悲鳴を上げて床に転がる。


彼女がいたその空間に、代わりに立ち塞がったのは、血と油に汚れた破れドレスの掃除屋だった。

自分の身を隠す遮蔽物は、何もない。完全に射線の中央へ己の身体を晒し、無数の集光レンズの照準器の赤い光点を、その小さな胸に一身に集める。


(これでいい)

自分が囮となり、あの銃弾の嵐をすべてこの身体で受け止めれば、数秒の猶予が生まれる。その間に、彼と、『彼に相応しい光の女性』は生き延びることができる。

ニコは、死の恐怖に顔を歪めるどころか、憑き物が落ちたようにフッと、ひどく穏やかで自嘲的な笑みを浮かべた。


「——ロレンツォ! お姫様を守りな!」


喉の奥から絞り出した、痛切で、不器用な自己犠牲の叫び。

それが、鋼鉄の戦場に響き渡ると同時に。

無数の算術ライフルの銃口から、一斉に殺意の閃光が放たれた。


「……っ、バカ! なんで自分を盾になんか……っ!」


ベアトリーチェは、自分を庇ってかすり傷を負ったニコの身体を抱き起し、涙目で叫んだ。


「アタシには、あんたみたいな難しい計算式は分からないからね。……身体を張るしか、お姫様を守る方法がないのさ」


ニコが痛みを堪えて自嘲するように笑うと、ベアトリーチェは力強く首を横に振った。


「違うわ! あなた、難しいなんて一つも分からないのに……一瞬で、自分の命を投げ出して誰かを守るという一番正しくて、一番難しい解を迷わず選べるのね。……私の計算なんかより、あなたのその不器用な強さの方が、ずっと綺麗で、素敵だわ……っ!」


光の世界のお姫様からの、嘘偽りのない真っ直ぐな称賛。


その言葉に、ニコの胸の奥深くにへばりついていた劣等感が、スッと溶けて消え去っていくのを感じた。


(……なんだ。光の世界の人間も、案外悪くないじゃないか)


ニコはフッと笑い、ベアトリーチェの背中を力強く叩いた。

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