新たな日々6
薔薇と麝香の濃厚な香水が充満するVIPルーム。
分厚いベルベットのショールで首から背中にかけてぐるぐる巻きにされたニコは、「暑い」「重い」と文句を垂れながらも、ドレスの裾を苛立たしげに持ち上げた。
「……こんなヒラヒラした布切れじゃあ、まともに走りやしないよ。せめて『保険』くらいは掛けさせてもらうからね」
悪態をつきながら、ニコは漆黒のシルクドレスに深く入ったスリットから、すらりと伸びた白い太腿を無造作に露わにした。
そして、傍らのテーブルに置いてあった革製のガーターホルスターを取り上げると、無防備な白い肌に直接巻きつけ、愛用の黒ずんだ実戦用ナイフをガチリと固定した。
「…………っ」
そのエロティックで、あまりにも危険な動作を目の前で見せつけられ、ロレンツォの喉の奥がヒュッと鳴った。
白磁のように滑らかな肌と、使い込まれた血生臭い凶器のコントラスト。
彼の脳髄を、今まで経験したことのない強烈な刺激が駆け抜け、理性の堤防が悲鳴を上げてメシミシと軋み始める。
(……くそっ。結社の追手が迫っていなければ、今すぐこのまま彼女を攫って、誰の目にも触れない安全な部屋の奥深くに隠してしまいたい……っ!)
ロレンツォは、腹の底で煮え滾るドス黒い独占欲と情動をねじ伏せるように、奥歯が砕けるほどの勢いでギリッと噛み締めた。
そして、何食わぬ顔で自身のスーツの内ポケットへ、ガルドから授かった実戦用短剣を音もなく忍ばせる。
「ふふっ、番犬くん、息止まってるわよ」
グラスを傾けていたカルメンが、艶やかな唇をほころばせてウインクを投げた。
「さあ、行ってきなさい。極上の夜会の始まりよ」
* * *
重厚なマホガニーの扉が、黒服のボーイによって恭しく開かれる。
その瞬間、むせ返るような高級香水と極上の葉巻、そしてどれほど着飾っても隠しきれない『血と欲望の匂い』が混ざり合った空気が、二人の鼻腔を打ち据えた。
会場は、豪華客船『パラディソ号』の中央吹き抜けホール。
天井からは巨大なクリスタルシャンデリアが眩い光を降り注ぎ、磨き上げられた大理石の床には、生演奏の優雅なワルツが流れている。 しかし、そこに集っているのは表の世界の真っ当な紳士淑女ではない。
新興商会に魂を売った没落貴族、死の商人を気取る武器ブローカー、そして冷酷な目をした裏社会のドンたちだ。 彼らはシャンパングラスを片手にひそやかな談笑を交わしながらも、常に周囲を値踏みし、隙あらば他者の喉笛を食い破ろうとする、ハイエナのような油断のならない空気を漂わせていた。
「……ミスター・ロレンツォ・バルディ。および、同伴者様」
ボーイがその名を告げた瞬間、優雅なワルツの調べすら掻き消すような、張り詰めた沈黙がホールに落ちた。 『バルディ』——数年前に結社の手によって海の藻屑と消えたはずの、誇り高き旧貴族の名。 世界中の悪党たちのギラついた視線が、一斉にエントランスへと突き刺さる。
そこに立っていたのは、完璧に仕立てられた黒いスーツを着こなし、近寄りがたいほど冷徹で傲慢なオーラを纏った長身の青年だった。 そして彼にエスコートされ、腕を組んで歩くのは、漆黒の夜会巻きに豪奢なドレスを纏った小柄な令嬢。
分厚いベルベットのショールで肌を隠し、黒い扇で口元を覆う彼女の瞳は、貴族の令嬢らしからぬ、どこか苛立ったようなミステリアスな気迫を放っている。
「見ない顔だ。あれが、バルディ家の当主だと……?」
「隣の女は誰だ? ただの娼婦や愛人には見えない。あの瞳……本物の修羅場を潜り抜けたような……」
ヒソヒソと交わされる下世話な憶測。そして、ニコの小柄な体躯から滲み出る気迫に、男たちの品定めの視線が舐め回すように向けられる
その瞬間だった。
ニコの腰にそっと手を添えて歩くロレンツォから、周囲の空気を完全に凍結させるような、圧倒的な殺気が放たれた。
『一秒でも彼女を見つめたら、その眼球を抉り抜く』
大人の男としての独占欲と、修羅場で培われた本物のプレッシャー。それに当てられ、裏社会の大物たちでさえ、迂闊に彼らへ近づくことができず、潮が引くように自然と道が空けられていった。
「……チッ、見世物じゃないんだよ。悪趣味な連中だ」
ニコが扇の裏で忌々しげに呟く。
「僕の歩幅に合わせろ。……ターゲットはあの奥だ」
ロレンツォの視線の先。 会場の最奥、厳重なガラスのショーケースの中に、目的の『マスターコード(古代の星図データ)』が展示されていた。
だが、二人の足がショーケースの数メートル手前でピタリと止まった。
「……おい、ロレンツォ。なんだいあの女は」
ニコが扇の裏で口元を隠し、胡乱な目を細める。
「こんな血生臭い裏オークションに、あんな温室育ちの世間知らずが迷い込んだってのかい」
ニコの視線の先。ショーケースの真ん前に、一人のどう見ても場違いな先客が陣取っていた。 ふんわりとしたプラチナブロンドの髪と、フリルがあしらわれたペールブルーのドレスを着こなす、二十二歳ほどの令嬢だ。周囲には裏社会の大物やマフィアの殺気が渦巻いているというのに、彼女には護衛が一人もついておらず、一切の警戒心を持たずに無防備にガラスケースを覗き込んでいる。
ロレンツォは即座に脳内で情報を処理し、眉間を潜めた。
「……おかしいな。あのドレスの肩口に施された刺繍……あれは、学術の不可侵領域である『中立都市』を治める名門貴族の紋章だ。なぜあんな大物の令嬢が、こんな裏社会の夜会に単独でいる?」
「家出でもしてきたバカ娘じゃないのかい。ほら、よく見なよ。あんな上等なドレスの裾が、煤と泥で汚れてる。髪だってぴょんと跳ねたままだ。とても貴族の夜会に出てくる身なりじゃない」
ニコの言う通り、彼女の足元はどこかの遺跡か埃っぽい書庫でも這いずり回ってきたかのように薄汚れていた。
「……どうやら、世間知らずの『遺跡マニア』が、家を抜け出して面白半分で潜り込んできたらしいな」
ロレンツォは氷のような目で令嬢を値踏みし、即座に「関わる価値なし」と切り捨てた。
「厄介ごとに巻き込まれる前に、ターゲットだけ確認してすぐに離れるぞ」
ロレンツォがニコの腰に手を添え、警戒しながら令嬢の背後を通り過ぎようとした、その時だった。
「ふわぁあ……つまんない」
令嬢——ベアトリーチェが、小さな欠伸と共に不満げな声を漏らした。
「中立都市の書庫を抜け出して、わざわざこんな怪しい船まで潜り込んでみたのに。ただの古い石板じゃないの」
(やっぱり家出娘か)
とニコが呆れて舌打ちをしようとした、次の瞬間。
ベアトリーチェが、星図の羅列された古代文字を好奇心で輝くエメラルドの瞳で追いながら、直感のままに呟いた。
「ねえ、これ。ただの海図じゃなくて、『恋人に会いに行く星の軌道』じゃない?」
ピタリ、と。ロレンツォの足が止まった。
「……なんだと?」
「だって、この星の配置。引力で引かれ合って、一年に一度だけ交差する連星の軌道方程式にそっくりだもの。もしこれが座標の暗号だとしたら、すごくロマンチックよねぇ」
ドクン、と。ロレンツォの脳内で、停止していた『海洋算術』の歯車が爆発的な速度で回転を始めた。
(……星の引力軌道。そうか、そういうことか! 古代帝国の天文学と海洋算術を組み合わせ、その仮説で摩擦係数を調整すれば……完璧に座標が特定できる……!)
ロレンツォは思わずニコの腰から手を離し、ベアトリーチェの隣へと歩み寄った。
「……君の直感は侮れないな。その方程式の解なら、プラントの防衛網の隙間を縫う『数秒』を割り出せる」
「あら、あなたも古代算術が読めるの?」
ベアトリーチェは目を輝かせ、無邪気にハイタッチを求めて両手を掲げた。 ニコ以外の他人に触れることを極端に嫌うロレンツォは、当然のようにその手を冷たくスルーした。
だが代わりに、彼は空中に指先で素早く幾何学的な数式を描いてみせる。
ベアトリーチェはスルーされたことなど全く気にせず、「なるほどね!」と即座にその意図を理解し、続きの数式を空中で完成させた。
「……そっちの計算も完璧ね!」
物理的な接触こそないものの、二人はまるで長年の研究仲間のようにお互いの顔を見合わせ、高度な教養の言語だけで完全に共鳴し合っていた。
その光景を、一歩後ろに取り残されたニコは、ただ立ち尽くして見つめていた。
プラチナブロンドの、美しくて知的な、本物のお姫様。 自分には一生理解できない数式と、光の世界の言葉で笑い合う、美しい二人。
ニコは、自分のドレスの下に隠した血生臭いナイフの重みが、急に耐えきれないほど惨めなものに感じられた。
(……やっぱり。私がどんなに綺麗な服を着飾ったって、中身はただの薄汚いババアだ。彼の隣に相応しいのは、ああいう光の世界の女なんだよ……っ)
強烈な劣等感と、ドロドロとした嫉妬が胃を握り潰す。
ニコはたまらず、ロレンツォに背を向け、夜風の吹き込むバルコニーへと一人で逃げ出した。
* * *
ガシャァァァァンッ!!
ニコがバルコニーへ出た直後、ホールの巨大な天窓のガラスが凄まじい音を立てて粉々に砕け散った。
「な、なんだ!?」
「襲撃だ! 星図データを守れ!」
ロープを伝って降下してきたのは、完全武装した新興商会の私兵部隊だった。オークションの出品物を強奪しにきたのだ。
優雅なワルツの音色は一瞬にして止み、会場は鼓膜を劈く悲鳴と銃声が交差する、阿鼻叫喚のパニックへと陥った。
「チッ……! どいつもこいつも、空気の読めないバカ犬どもめ!」
バルコニーで襲撃に巻き込まれたニコは、ドレスの裾を踏みつけそうになった瞬間、一切の躊躇なく、肩を覆っていた重いショールを夜風の中へ脱ぎ捨てた。
白磁のように滑らかで、エロティックなまでに無防備な背中が月光に晒される。
彼女はドレスの深いスリットから覗く太腿のホルスターへ手を伸ばし、使い込まれた実戦用ナイフを抜き放った。
バルコニーへ躍り出てきた武装兵の銃口が火を吹くより早く。
ニコは床を滑るようにして低い姿勢で潜り込み、漆黒の夜会巻きと艶やかなドレスを翻しながら、敵の喉笛を的確に掻き切った。
鮮血が舞い、白く塗られた肌に赤い飛沫が斑点のように散る。
着飾った深窓の令嬢と、極上の殺し屋。その目眩がするほどのギャップが、月明かりの下で最高にスタイリッシュで、残酷なほど美しかった。
だが、多勢に無勢。三人の敵が同時にニコの死角——右斜め後ろからアサルトライフルを構えた。
(……っ!)
ニコが舌打ちをし、体勢を立て直そうとした、その時。
ドゴォッ!
ホールの内側から、分厚いガラス扉を蹴り破って、一人の男がバルコニーへと飛び出してきた。
ロレンツォだ。
彼は、目の前にあった星図データにも、ベアトリーチェにも一切目もくれず、ニコの元へ一直線に駆けつけていたのだ。
「遅いッ!」
ロレンツォのスーツの下から抜かれた短剣が、ニコの右の死角から迫っていた敵の首筋に深々と突き刺さる。血飛沫を浴びながら、彼は残る敵の顎を革靴の踵で正確に打ち砕いた。
「ロレンツォ……あんた、星図は!?」
「一人で突っ走るな!」
ロレンツォは血に塗れた短剣を振り払い、怒声と共にニコの華奢な肩をガシッと掴んだ。
「僕が守ると誓ったのは、あのガラクタでも他の誰でもない。……君の右隣だけだと言っただろう!」
彼の氷のように冷たく、けれど火傷しそうなほど熱い瞳が、ニコを真っ向から射抜く。
どんな甘い言葉よりも雄弁な、『僕はお前しか見ていない』という絶対的な行動での証明。
ニコの心臓が、大きく、痛いほどに跳ねた。
だが、そのストレートすぎる愛情を叩きつけられた瞬間、先ほどホールの内側で抱え込んでいた強烈な劣等感と、行き場のないドロドロとした感情が、ついに限界を超えて決壊してしまった。
「……ッ、嘘をつくな!!」
ニコはロレンツォの腕を乱暴に振り払い、涙で視界を滲ませながら絶叫した。
「アタシなんかより、あのお姫様と光の言語で笑い合ってる方がずっとお似合いだったじゃないか! アタシにはあんたたちの数式なんて一生理解できない! どんなに綺麗なドレスを着飾ったって……この手についた他人の血も、染み付いた機械油の匂いも、絶対に消えやしないんだよ!」
それは、六年間ずっと胸の奥に閉じ込めてきた、年上の女としての惨めな自己卑下と、どうしようもない嫉妬の爆発だった。
「あんたは光の世界へ帰るべき人間だ。私みたいな血生臭いババアが、あんたのその眩しい未来を縛っちゃいけないんだ……っ! だから、お願いだから……これ以上、私を……」
『愛さないでくれ』。
その最後の言葉は、ロレンツォの力強い腕によって、強引に塞がれた。
「……っ!」
ロレンツォは、泣き叫ぶニコの身体を、自らの広く分厚い胸板の中へと力任せに引き寄せ、骨が軋むほど強く抱きしめたのだ。 彼のスーツから漂う、上質なオーデコロンと、硝煙の匂い。 ニコが必死に抵抗して胸を叩いても、大人の男の腕はビクともしない。
「光なんて、どうでもいい」
ロレンツォは、ニコの耳元で、絞り出すような低く熱い声で囁いた。
「僕が愛しているのは、泥まみれになりながら僕の命を守り抜き……自分の心を殺してでも、誰かのために血を流せる君の不器用さだ」
「ロレンツォ……」
「君の血も、その匂いも、すべて僕が一生背負ってやる。……だからもう、僕以外の誰かと光の世界を歩けなんて、二度と言うな」
ロレンツォは彼女の顎を指先でそっとすくい上げ、涙で濡れたその漆黒の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
そこにはもう、彼女を「刷り込み」だの「錯覚」だのと言い訳させて逃がす隙など、一ミリも残されていなかった。
「愛している。……ニコ」
ロレンツォの退廃的な熱を帯びた唇が、ニコの震える唇を深く、そして貪るように塞いだ。
火薬と血の味がする、けれど今までで一番優しく、すべてを溶かしてしまうような圧倒的な熱を持ったキス。 ニコの目から、せき止めていた大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
(……ああ。アタシは本当に、この年下の男を愛してしまったんだ)
六年間張り続けてきた「相棒」という名の楔が、音を立てて解け去っていく。
ニコはもう反発することも逃げることもせず、そっと目を閉じると、彼の広い背中へと不器用に腕を回し、その熱いキスを、真っ向から受け入れた。
月明かりに照らされた血まみれのバルコニーで、二人はようやく、長すぎた純情のすれ違いに終止符を打ったのだ。
「……生意気な奴だね。首輪が千切れそうだよ」
唇を離し、ニコは涙を拭いながら、最高に美しく、幸せそうな笑みを浮かべた。
「増援が来る。このまま飛行艇へ飛ぶぞ!」
完全に心が通じ合った二人が、互いの命を預け合い、バルコニーの縁に足をかけた、その時だった。
「ねえ、待って!!」
背後の割れたガラス扉から、豪奢なペールブルーのドレスの裾をビリビリに破り捨て、足さばきを良くしたベアトリーチェが、目をキラキラと輝かせて飛び出してきた。
その小脇には、ちゃっかりと強奪した『マスターコード』の石板が抱えられている。
「なっ……お前!?」
ロレンツォが目を丸くする。
「あなたたちのその計算と動き、最高に狂ってて面白いわ! こんな退屈なパーティー、もううんざり! 私も連れてって!」
「はあ!? お嬢様のお遊びに付き合ってる暇はないんだよ!」
ニコが怒鳴る。
「断る! 素人は足手まといだ!」
ロレンツォも冷たく拒絶する。
だが、ベアトリーチェは二人の制止など完全に無視し、「いくわよー!」と叫びながら、自らバルコニーの手すりを蹴って、夜の海へとダイブしたのだ。
「「馬鹿野郎!!」」
結局、二人は落ちていく令嬢の腕を慌てて掴み、そのまま三人もろとも、客船の死角となる海面すれすれで待機していたレオンの飛行艇へと、転がるようにして飛び乗る羽目になったのである。




