新たな日々5
濃厚な薔薇と麝香の香水が充満する、アンバーの温かい光に包まれたVIPルーム。
部屋の片隅の豪奢なベルベットのソファに背を向けて座り、ロレンツォは無言で懐中時計の蓋を開け閉めしていた。カチッ、カチッという規則的な金属音が、彼の隠しきれない焦燥感を代弁している。
「まずは、その頑固な油汚れを落とすところからね」
背後から、カルメンの楽しげな声が響く。
ドレッサーの前に無理やり座らされたニコの顔に、上質なクレンジングオイルがたっぷりと馴染ませられた。ひんやりとしたオイルが、ニコの肌に深くこびりついていた煤や機械油、火薬の匂いを溶かし、温かい蒸しタオルがそれらを一気に拭い去っていく。
「……あいたっ、ちょっと、優しく擦りなよ!」
「動かないの。……ふふっ、やっぱりね」
カルメンはタオルの向こうから現れた素顔を見て、満足げに赤い唇をほころばせた。
「少し日焼けしてるけど、鼻筋も通ってるし、睫毛も長くて素材はまあまあじゃない。今まで泥で隠してたなんてもったいないわ」
カルメンの細い指先が、魔法のようにリズミカルに動く。
冷たいスポンジが肌を叩くパタパタという音が響き、明るめのリキッドファンデーションが、ニコの肌から一切のくすみを消し去っていく。目元には淡いスモーキーなシャドウが乗せられ、常に敵を威嚇していたニコの鋭い目つきが、ふわりと輪郭をぼかされて憂いを帯びた令嬢のように柔らかく変貌していく。
「さあ、次は背中よ。……凄い傷の数ね。でも大丈夫」
キャミソールを下げられ、カルメンはニコの背中や腕に無数に走る凄惨な傷跡へ、カバー力の高いボディ用ファンデーションをこれでもかと塗り重ねていった。太い針の痕も、銃弾が掠めた跡も、カルメンの魔法の前に次々と姿を消し、やがて完全な「傷一つない白磁の肌」へと偽装されていく。
「……髪はどうするんだい。アタシ、邪魔だから自分でナイフで切っちまったから、ボサボサだよ」 ニコが鏡を見ないように俯きながらぼやくと、カルメンは背後のクローゼットから黒い箱を取り出した。 「心配いらないわ。私のコレクションを貸してあげる」
カルメンが箱から取り出したのは、ニコの元の素材を活かした、艶やかな『漆黒の夜会巻きウィッグ』だった。
「さあ、動かないでね」
カルメンがその豪奢な偽りの髪を、ニコの頭へと被せ、ピンで固定しようとした——その瞬間。
ビクッ、と。 ニコの華奢な肩が、弾かれたように大きく跳ねた。
「……っ!」
ニコの漆黒の瞳の孔が極限まで収縮し、呼吸が浅く、不規則に乱れ始める。
彼女の脳裏に、凄惨な記憶がフラッシュバックしていた。燃え盛る炎の中、かつての因縁の男たちに長い髪を掴み上げられ、腹を何度もナイフで抉られていた愛するジーナの姿。
二度と同じように殺されないため。そして、彼女を救えなかった自分への罰として 、ニコが強迫観念のように、自らの手で無造作に削ぎ落とし、封印し続けてきた「女性らしい長い髪」。
それが今、疑似的とはいえ自身の頭に纏わされたことで、抑え込んでいた恐怖が彼女の喉を締め上げたのだ。
「……や、めろ」
喉の奥でヒュッとひきつけを起こしたような音が鳴り、ニコは震える両手で、頭のウィッグをむしり取ろうと指を立てた。
「えっ、ちょっとニコ……?」
突然のパニックにカルメンが目を丸くした、その時だった。
「——大丈夫だ」
ずっと背を向けて待機していたはずのロレンツォが、音もなく振り返り、ニコの震える両手を、自らの大きく分厚い掌で上からすっぽりと包み込んだ。
「ロレ、ンツォ……っ」
「落ち着け、ニコ。息をしろ」
ロレンツォは、ニコが髪を伸ばさない本当の理由を知っている。 だからこそ彼は、気の利いた慰めなど一切口にしなかった。
ただ、剣ダコに覆われた大人の男の掌で彼女の冷たい手を力強く握り込み、熱を帯びた瞳で、真っ直ぐに彼女の怯えを射抜いた。
「君の背後は、僕が完全に塞いでいる。……もう誰にも、君の髪は掴ませない」
それは、ただの慰めではなく、この数年間彼女の隣で泥水を啜り、あらゆる敵の喉笛を掻き切ってきた「極上の殺し屋」としての絶対的な事実の提示だった。
彼の手から伝わる、火薬とオーデコロンの混じった匂いと、揺るぎない男の体温。 それに触れ、ニコを金縛りにしていた過去の恐怖が、少しずつ熱を帯びて溶けていく。 乱れていた呼吸が徐々に深くなり、ウィッグをむしり取ろうとしていた指先から、スッと余分な力が抜けた。
「……っの、過保護なバカ犬が。アタシは別に、怯えてなんかないよ」
ニコは震えを奥歯で噛み殺し、耳の端を微かに赤く染めて、強がるように小さく悪態をついた。 ロレンツォはそんな彼女の強がりを愛おしそうにフッと鼻で笑うと、包み込んでいた手をゆっくりと離し、再び静かに背を向けた。
二人の間だけで交わされた、痛切な過去の共有と、言葉を超えた重い絆。
深い事情を知らないカルメンだったが、二人の間に流れる「誰にも立ち入れない絶対的な空気」を察し、優しく微笑んで扇で口元を隠した。
「……本当に、立派な番犬を飼い慣らしたものね。さあ、仕上げにいくわよ」
カルメンの細い指先が再び魔法のように動き出し、やがて鏡の中には、ミステリアスな色気を纏った完璧な『影の貴婦人』が完成するのだった。
「……チッ、首周りがスースーして落ち着かないよ」
ニコが首元を掻こうとした、その時だ。
ずっと背を向けて座っていたロレンツォから、氷のように冷たく、厳しい指導の声が飛んだ。
「いいか、ニコ。見た目だけ取り繕っても、口を開けばすぐにボロが出る。一人称は『私』、語尾は『〜ですわ』『〜かしら』だ。やってみろ」
「わ、わたくしは……ニコ、ですわ。……チッ、舌を噛みそうだよ!」
「舌打ちをするな!」
ロレンツォが背中越しのまま、ピシャリと叱り飛ばす。
「それから、相手の目を見据えて睨む癖をやめろ。殺気が出る。視線は常に相手の喉元あたりに伏せ、上目遣いで憂いを帯びるんだ。笑う時も『あはは』と声を出すな。その扇で口元を隠して『ふふっ』と息だけで微笑め。わかったか?」
「う、うるさいねこの小姑! アタシだって、やればできるんだよ!」
ニコは乱暴に黒い扇を開くと、ロレンツォの背中を睨みつけながら、無理やり声のトーンを高くした。
「……そ、そうですわね、ロレンツォ様? うふふっ」
「くすっ、あははっ!」
カルメンがこらえきれずに吹き出し、ドレスの背中の編み上げを締めながら楽しそうに肩を揺らす。
「あら、意外と筋がいいじゃない。少しぎこちないけれど、それがかえって『深窓の令嬢で、世間知らずで初々しい』って、男の庇護欲をそそるのよ」
「……よし、完成よ。振り向いてごらんなさい、番犬くん」
カルメンの合図に、ロレンツォは懐中時計の蓋をパチンと閉め、ゆっくりと立ち上がって振り返った。
——そして、息を呑んだまま、完全に硬直した。
アンバーの光の下。そこには、艶やかな黒髪を輝かせ、白磁のような肌に繊細なメイクを施された令嬢が、借り物の扇で恥ずかしそうに口元を半分隠して立っていた。
普段の、機械油と返り血に塗れた「ババア」の面影はどこにもない。だが、その扇の奥で不貞腐れたように泳ぐ漆黒の瞳は、間違いなく彼が泥水の中で背中を預け合い、愛してやまない「あのニコ」のものだった。
普段の血生臭さとの、目眩がするほどのギャップ。
そして何より、小柄で華奢な骨格がドレスに包まれることで強調された、胸が締め付けられるほどの圧倒的な「可憐さ」。
「…………っ」
ロレンツォの喉の奥が、ヒュッと鳴った。
大人の男の余裕も、冷徹な計算式も一瞬で吹き飛び、彼の顔は耳の裏まで一気に真っ赤に沸騰した。何か言おうと唇を開くが、声にならない空気が漏れるだけだ。
「な、なんだい。やっぱり似合わないだろ。笑いたきゃ笑えよ、ヒヨッ子」
沈黙に耐えきれなくなったニコが、耳まで赤くして不貞腐れたようにそっぽを向く。
その声でハッと我に返ったロレンツォの視線が、ニコが顔を逸らしたことで露わになった『大きく開いたドレスの背中と肩』へと吸い寄せられた。
凄惨な傷跡はファンデーションで完璧に隠蔽されている。ただただ滑らかで、エロティックなまでに無防備な、女の白い素肌。
ドクン、と。
ロレンツォの腹の底で、ドス黒く、重い独占欲が爆発した。
こんな無防備な姿を、あの獣どもがうごめくオークション会場に晒すだと? 他の男どもが、この白い肌を舐め回すように見るというのか?
「……カルメン」
ロレンツォの声が、地を這うような、強烈な凄みを帯びた低音へと一変した。
「そのドレスは、背中が開きすぎだ。そんな無防備な格好で、会場の男どもの視線に晒せるわけがないだろう!」
「はあ?」
カルメンが呆れたように腰に手を当てる。
「これが最新の流行なのよ! この肌の抜け感があるからこそ、ミステリアスな色気が出るんじゃない。ドレスの価値もわからないなんて野暮ね!」
「黙れ! 君の肌を見るのは僕だけでいい!」
ロレンツォはカルメンの反論を怒声で叩き斬ると、大股で部屋の隅へ歩み寄り、ソファに掛けられていた分厚く重いベルベットのショールを乱暴に引っ張り出した。
そしてニコの背後へ回るなり、せっかくカルメンが美しく仕上げてくれた彼女の肩から背中、さらには胸元にかけて、その重い布地を幾重にもぐるぐる巻きに縛り上げてしまったのだ。
肌という肌が、1ミリたりとも見えないように、徹底的に。
「ちょっと、暑いし重いだろうが! アタシは荷物かい!」
分厚いベルベットの布山の中で、ニコがジタバタと抗議の声を上げる。
「我慢しろ。……少しでも肌を晒したら、僕がこの手で会場の男どもの目玉をすべて抉り抜くことになってもいいのか」
ロレンツォはニコの抗議を完全に無視し、ショールの結び目をこれでもかと固く締め上げた。
その異様なまでの執着と、なりふり構わぬ独占欲を見せつけられ、カルメンは大きくため息をつき、扇で顔を扇いだ。
「……本当、相も変わらず過保護で、余裕のない坊やね」
ロレンツォはカルメンの呆れ声にも微塵も揺るがず、ぐるぐる巻きになったニコの細い腰をガシッと力強く抱き寄せた。
「行くぞ。……絶対に、僕の側から離れるなよ」




