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足手まといの没落貴族を拾ったら、数年後、相棒へと成長した彼から逃げられません  作者: *しおり*


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3/11

3 

潮の香りに混じって、生乾きの鉄錆と腐った海水の匂いが鼻腔を突いた。

 イゾラを出てから半日。灰色の雲が垂れ込める空の下、小型艇のエンジン音が不規則に咳き込みながら、波を切り裂いている。


甲板の隅にうずくまったまま、ロレンツォは両腕で膝をきつく抱え込んでいた。

 視線の先には、操舵輪の横で胡座をかいているニコの背中がある。革ジャケットの肩口には、先ほどの路地裏で浴びた赤黒い血の染みが、べっとりとこびりついたままだ。

 ロレンツォは奥歯がガチガチと鳴るのを必死に噛み殺した。


 人を撃ち、首を掻き切り、血の雨を浴びたというのに、あの野蛮人は表情一つ変えなかった。それどころか、今は石のように硬い黒パンを無造作に引きちぎって口に放り込み、水筒の水を煽ると、美味そうにタバコに火を点けている。


 ——正気じゃない。


 あれは女などではない。人間の形をした、理解不能な化け物だ。逆らえば、躊躇なく冷たい海へ沈められる。ロレンツォの本能が、警鐘をけたたましく鳴らし続けていた。


「……おい」

「ひぃっ!」

 不意にタバコを咥えたまま振り返ったニコと目が合い、ロレンツォは肩を跳ね上げて悲鳴を漏らした。壁際まで後ずさり、ガタガタと震える。

「……着いたよ。降りる準備をしな」

 ニコは怯えきった少年には一切の関心を払わず、顎の先で前方をしゃくった。


ロレンツォがおそるおそる視線を向けると、そこには地獄のような光景が広がっていた。

 見渡す限り、座礁した巨大な軍艦や、朽ち果てた無数の廃船が、太い鎖と腐りかけた板で無秩序に繋ぎ合わされている。波がうねるたびに、金属同士が軋み合い、鼓膜を引っ掻くような悲鳴を上げていた。

 空にまで届きそうな錆びた鉄の山からは、安い酒のすえた匂いと、正体不明の悪臭が漂ってくる。そこかしこに点る薄暗いランタンの光の下には、海賊崩れや賞金稼ぎとおぼしき荒くれ者たちがたむろし、こちらへ向けて獲物を値踏みするようなギラついた視線を送っていた。


「な、なんだ、ここは……っ」


「『鉄屑の街』。行き場のないゴミ共の吹き溜まりさ」


艇を船と船の間の狭い水路に滑り込ませながら、ニコは短く吐き捨てた。

強烈な悪臭に耐えきれず、ロレンツォが泥だらけの袖で口元を覆ってえずく。だが、ニコの反応は全く逆だった。 彼女は操舵輪を握ったまま、どこか肩の荷を下ろしたように、深く安堵の息を吐き出したのだ。


(ああ……落ち着く)


ジュリオのいるあの静かな酒場に満ちる、磨き上げられたオーク材と爽やかな柑橘の香り。

完璧な女性の面影が残るあの光の射す場所では、自分の内側にある泥臭さが浮き彫りになるようで、いつも息が詰まった。

だが、この腐った海水と生乾きの鉄錆の匂い、そして血と油にまみれた人間の悪臭は違う。どれだけ泥と血を被っても、この地獄のような吹き溜まりならば誰にも咎められない。薄汚れてガサツな自分には、この空気が一番お似合いなのだと、彼女は自嘲気味に肺の奥深くへと息を吸い込んだ。


接舷の衝撃で艇が揺れる。

周囲の廃船から、薄汚れた男たちがニヤニヤと笑いながらこちらを見下ろしてきた。


 ロレンツォは頭から血の気が引くのを感じ、思わず重い装飾剣を引きずりながら、這うようにしてニコの背後へと隠れた。ニコの革ジャケットの裾を、白くなるほど強く握りしめる。


「邪魔だ。離れな」

 ニコは無造作にロレンツォの手を振り払うと、艇の甲板に積んあった麻袋を蹴り飛ばした。

イゾラのバザールで買い叩かれ、さらにロレンツォの豪遊のせいで中身のほとんどを失った、なけなしの金と部品が入った袋だ。


「弾薬も食料も底を突いた。買い出しに行く」


そう言って、残りの路銀を確認しようとニコが腰の革ポーチを開けた時のことだ。 コロン、と。 ポーチの中から、場違いなほど鮮やかな『黄色いレモン』が一つ、錆びた甲板に転がり落ちた。


腐敗した海水と鉄錆の匂いが充満するこの街には到底似つかわしくない、目が覚めるような爽やかな柑橘の香り。それは、あのひんやりとした静かな酒場を思わせる匂いだった。


それを見た瞬間、先ほどまで冷徹な『掃除屋』の顔をしていたニコの表情が、不自然に固まった。 どこか迷子のような、泣き出しそうな痛切な瞳でその小さな黄色い果実を見つめ——ハッと我に返ると、他人に触れられるのを恐れるように慌ててレモンを拾い上げ、ポーチの奥底へと押し込んだ。


ロレンツォは、不思議そうにその様子を見ていた。


(なんだ、今の香りは……。なぜこの油臭い野蛮な女が、あんなに良い香りのするものを大事に隠し持っているんだ?)


そして、あの一瞬だけ彼女が見せた、ひどく惨めで不器用な表情の理由が分からず、ロレンツォの胸の奥に小さな違和感の種が落ちた。


ニコは己の動揺を誤魔化すように背中の機関銃を外し、乱暴な手つきで銃身を拭きながら、冷ややかな目をロレンツォに向けた。


「お前も働け。その麻袋を担いでついてこい。あと、艇を離れる前に甲板の錆落としをやっておきな」


「は……? ぼ、僕に、労働をしろと言うのか……?!」

 ロレンツォの甲高い声が裏返った。恐怖で縮み上がっていたはずの貴族のプライドが、条件反射で頭をもたげる。

「由緒正しきバルディ家の当主に、そのような下賤な真似が……」

 カチャッ、と。

 乾いた金属音が響いた。ニコが機関銃の手入れの手を止め、抜き身のナイフを取り出していた。刃こぼれ一つない冷たい刃先を、ウエスでゆっくりと拭っている。


「……やらないなら、海に放り込むよ。それとも、あの薄汚れた連中に身ぐるみ剥がされたいか?」

 ニコの漆黒の瞳が、ロレンツォを射抜いた。そこには一切の感情がない。ただの事実として、そうすると告げているだけだ。

 周囲の廃船から聞こえる下品な笑い声と、ニコのナイフの冷たい輝き。

 ロレンツォの喉の奥で、ひゅう、と情けない音が鳴った。

「や、やる……やります……っ」

 涙目で首を縦に振り、彼は泥だらけの絹のシャツの袖をまくった。


数時間後。

 薄暗い船室の床に、ロレンツォは力なくへたり込んでいた。

 美しい金髪は油と潮風でベタベタに固まり、顔も手も赤錆と泥で真っ黒に汚れている。生まれて初めての労働。重い麻袋を引きずり、板切れで必死に甲板の錆を削り落とした代償は、彼の細い腕の筋肉を悲鳴を上げさせていた。


ゴトッ、と。

 目の前に、凹んだブリキの器が置かれた。中には、濁った水と、石のように硬い黒パンの切れ端が転がっている。

「食いな。自分の手で稼いだ飯代だ」


 壁に背を預けたニコが、タバコの煙を吐き出しながら言った。

 ロレンツォは震える手でその黒パンを拾い上げた。イゾラのバザールで「豚の餌」と吐き捨てたものよりも、さらに劣悪なシロモノだ。


 パンをかじろうとしたが、硬すぎて歯が立たない。無理やり噛みちぎろうとすると、歯茎に痛みが走った。


「うぅ……っ、くそ……っ」


ロレンツォが歯茎から血を滲ませてパンと格闘している横で、ニコの食事の作法は全く異なっていた。 彼女は決してそのまま噛みちぎろうとはしない。腰から抜いたナイフの重い柄で、硬いパンを床の鉄板に押し付けてガンガンと叩き割り、細かく砕いたそれを水筒の濁った水に浸した。そして、柔らかくお粥状にふやけたそれを、無表情で効率よく胃に流し込んでいく。


「食事を楽しむ」のではなく、ただ「死なないために効率よくエネルギーを摂取する」という、底辺の生きる知恵。そのあまりにも合理的で無骨な作法を見せつけられ、ロレンツォは己の温室育ちっぷりを痛感した。


(この女から『生きる術』を学ばなければ、自分はここで死ぬんだ……っ)


濁った水で無理やりパンの欠片を胃の腑に流し込む。血と油の味がした。


こんなものを食わなければ生きられないのか。あの壮麗なバルディの屋敷は、ふかふかのベッドは、温かいスープは、もう二度と戻ってこないのか。


 悔しさと絶望が入り混じり、ロレンツォの大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。泥で汚れた頬に、透明な筋が何本も引かれていく。


ニコは無言のまま、泣きじゃくる少年から視線を外し、手元のナイフの柄を親指でそっとなぞり続けた。



鉄屑の街の夜は、波と金属が擦れ合う不快な雑音に満ちていた。

 薄暗い船室のランプが、油と潮の染み付いた壁に揺れる影を落としている。ロレンツォは硬い床の上に膝を抱え、初めての労働による全身の筋肉痛と、粗末な黒パンで擦り切れた胃の不快感にじっと耐えていた。


そこへ、買い出しから戻ったニコが、重い足音を立てて船室に降りてきた。

 彼女は片手に酒瓶と包帯のような布の束をぶら下げており、もう片方の手で咥えタバコの位置を直す。そのまま無造作に、血と泥に汚れた革ジャケットを脱ぎ捨てた。


「っ……な!?」

 ロレンツォは息を呑み、慌てて壁際に身をすくませた。

 ジャケットの下に着ていたよれよれのシャツのボタンを、ニコが面倒くさそうに外し始めたからだ。彼女は躊躇いもなくそれを脱ぎ去り、薄いキャミソール一枚の姿になる。


「ひっ……!? き、貴様、男の前で突然服を……っ!? なんて破廉恥な……っ!」

ロレンツォは顔を真っ赤にして両手で目を覆い、壁際でガタガタと震えながらパニックに陥る。バルディ家の屋敷で、淑女が人前で肌を晒すことなどあり得ない。その常識を粉々に打ち砕くニコの行動に、少年の頭はパニックを起こしていた。


だが、背後からは嘲笑も反論も返ってこない。

 ただ、酒瓶のコルクを歯で抜くポンッという音と、タバコの煙を深く吐き出すくぐもった音が聞こえただけだ。


「……おい。そこの工具箱に入ってる、裁縫セットを取れ」

「は……? さ、裁縫だと?」


おずおずと振り返ったロレンツォは、そこで言葉を失った。


ランプの薄明かりに照らし出されたニコの華奢な背中と腕には、無数の古い傷跡が刻み込まれていた。刃物で斬られたような一文字の傷、銃弾が抉ったような丸い痕、引き攣れた火傷の痕。とても二十二の女性の肌とは思えない、凄惨な修羅場の記録だった。

 そして、彼女の左の二の腕には、昼間のバザールでの逃走劇で負ったらしい、ぱっくりと開いた新しい切り傷があった。赤黒い血が、キャミソールの縁を汚している。


ニコはロレンツォが呆然と差し出した裁縫セットから、太い針と黒い糸を抜き出した。

 そして、買ってきたばかりの強い蒸留酒を、傷口に直接ドバドバと振りかけた。

「ぐ……っ」

 短い呻き声が漏れたが、ニコの表情は動かない。ツンとしたアルコールの匂いと、生臭い血の匂いが混ざり合って船室に充満する。


「お、おい……医者に、診せなくていいのか……?」

 ロレンツォの声は、震えていた。

「こんなカスリ傷で、いちいちヤブ医者に銅貨を払えるかよ」


ニコは咥えタバコから細く煙を吐き出すと、火であぶって消毒した針を、躊躇なく自身の傷口に突き立てた。

 ぷつり、と肉を刺す生々しい音が響く。

 ロレンツォの喉の奥が、ヒュッと鳴った。


麻酔もない。消毒は安い酒だけ。

 それなのに、ニコは顔色一つ変えず、自らの肉を縫い合わせている。針を引き抜き、糸を引くたびに、傷口から新しい血が滲み出る。しかし、彼女の手つきには一糸の乱れもなく、時折タバコの灰を床に落としながら、淡々と「作業」を続けていた。


——痛くないのか?

 ロレンツォは、目を見開いたまま呼吸を忘れていた。

 自分なら、想像しただけで泣き叫び、気絶しているだろう。それを、この小柄な女は、まるで破れた服を繕うかのような手つきで平然と行っている。


油と血の匂いが染み付いた、豚小屋のような船室。

 石のように硬いパンを無造作に食い、銃をぶっ放し、ナイフで人の首を掻き切り、返り血を浴びてもタバコを吹かしている。

 そして今、自らの肉を針で縫いながら、微塵も痛痒を感じていないかのようなその姿。


縫合を終え、乱暴に糸を噛み切ったニコは、血の滲む自身の腕にはもう一切の関心を払わなかった。


ふと、彼女は傷口の血を拭ったのと同じ、あのすり減ったナイフを手に取った。そして、鏡も見ずに、煩わしそうに伸びていた自分の黒い前髪とサイドの髪を、ジョリッ、と無造作に削ぎ落とした。


刃に付いた血と切り落とされた髪の毛が、汚れた床にパラパラと落ちる。 まるで自分自身の「女性らしさ」という不要なゴミを、自らの手で切り捨てているかのような、あまりにも乱暴な儀式。


なぜこの女は、ここまで自分自身を損なうような生き方をしているのか。ロレンツォの胸に、底知れぬ恐怖と同時に、微かな疑問がよぎる。


髪を切り終えたニコが代わりに引き寄せたのは、傍らに置かれていたアルドが遺した古い機関銃だった。


ニコは専用の柔らかい布と油を取り出すと、自らの肉体を縫い合わせた時の雑な手つきとは打って変わって、まるで壊れやすい赤子でも撫でるかのように、優しく、愛おしそうに無骨な鉄の塊を磨き始めた。


自らの体は安い酒と太い針で「ただの道具」や「ゴミ」のように雑に扱うくせに、旧式の古い銃には自身の命以上に執着し、慈しむ。そのあまりにも極端で狂気じみた命の天秤を目の当たりにして、ロレンツォは戦慄した。


(こいつは……人間じゃない)


ロレンツォの背筋を、氷のような悪寒が駆け上がった。

 女らしさなど微塵もない。貴族の矜持も、常識も、この生き物には一切通用しない。

 こいつは、この泥臭く過酷な世界を生き抜くために最適化された、理解不能なバケモノだ。

 少しでも逆らえば、あの冷たいナイフで自分の首もあっさりと掻き切られ、この暗い海に沈められるに違いない。


「……なんだい。そんな顔色を悪くして」

 縫合を終え、乱暴に糸を噛み切ったニコが、怪訝そうにこちらを振り返った。黒い瞳が、ランタンの光を反射して底光りしている。

「ひっ……! な、なんでもない……!」

「なら、そこのウエスで床にこぼれた血を拭いときな。錆びる」

「は、はい……っ!」


さきほどまでの「バルディ家の当主」としてのキャンキャンとした吠え声は、もはや欠片も残っていなかった。


 ロレンツォは震える手でウエスを掴み、四つん這いになって、ニコの足元の血を必死に拭き取り始めた。


その背中には、もう二度とこのバケモノには逆らうまいという、本能的な絶対服従の刻印が深く打ち込まれていた。


拭き掃除を終え、ようやく解放されたロレンツォは、悪臭のする硬い床の上で丸くなった。初めての過酷な肉体労働と精神的な極度の緊張で全身が悲鳴を上げており、彼は泥のように深い眠りに落ちた。


しかし、夜中にふと寒さで目を覚ました彼は、暗がりの中で異様な光景を目にした。 ニコは横になっていなかった。冷たい鉄の壁に背を預け、手元にあるナイフの柄に指をかけたまま、目を半分開けたような浅い眠りについていたのだ。


(……あいつ、こんな所で寝ているのか……?)


安全な屋敷のふかふかなベッドでしか寝たことのなかった彼は戦慄した。裏社会では、無防備に熟睡することすら死に直結する。常に張り詰めた糸の上で命を削って生きている彼女の姿が、暗闇の中でひどく小さく、痛々しく見えた。





足を踏み出すたびに、継ぎ接ぎだらけの鉄板がギシギシと不快な悲鳴を上げた。

 海上に浮かぶ『鉄屑の街』の朝は、淀んだ灰色の雲に覆われ、ちっとも夜明けの清々しさを感じさせない。むせ返るような赤錆の匂いに、腐敗した魚と安い酒の悪臭が混ざり合い、呼吸をするだけで肺の奥が重く沈んでいくようだった。


ニコは無造作に革ジャケットを羽織り、咥えタバコのまま、迷路のように入り組んだ廃船の甲板を歩いていく。  その後ろを、ロレンツォが両手で巨大な装飾剣を抱え込むようにして、必死に短い足を動かしてついてきていた。


 ズズッ、ガリッ。  時折、重さに耐えきれなくなった鞘の先が錆びた鉄板を擦り、耳障りな音を立てる。その度に、周囲の暗がりから——廃船の陰や積み上げられた木箱の裏から——ギラついた視線が彼に突き刺さった。


「……っ」  ロレンツォは奥歯を強く噛み締め、絹のシャツの下で冷たい汗が背筋を滑り落ちるのを感じた。  昨夜、ニコが自らの肉を縫い合わせるという狂気を見せつけられてから、彼はこの小柄な女に逆らうことを本能的に恐れていた。だが、それと同時に、この吹き溜まりの街に蠢く「名もなきゴミ共」にだけは、決して舐められてはならないという貴族の意地が、彼を辛うじて立たせていた。


 バルディ家の当主たる自分が、こんな下賤な輩に怯えてなるものか。  そう自分に言い聞かせるように、ルビーがあしらわれた剣の柄を、指の関節が白くなるほど強く握りしめる。


だが、その不自然な力みと、隠しきれない上等な身なり——そして何より、柄で赤く輝く宝石は、スラムの住人たちにとって、格好の「餌」でしかなかった。


「おや、ずいぶんと可愛らしいお坊ちゃんが迷い込んだもんだな」

不意に、前方の狭い通路を塞ぐように、三つの影が立ち塞がった。  擦り切れた外套を羽織った、大柄な男たちだ。隙っ歯を剥き出しにして下品に笑う彼らの口からは、ツンとする強い酒の匂いが漂ってくる。  ロレンツォの足が、ピタリと止まった。


「見ろよ、あの剣。ありゃあ本物のルビーだぜ。こんな薄汚い街には似合わねえ代物だ」

「おい坊主、そのオモチャ、俺たちに見せてみろよ。ちょっとばかし『鑑定』してやるからよ」


男たちが、にじり、と間合いを詰めてくる。  ロレンツォの心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく跳ねた。喉の奥がカラカラに乾き、細いひゅうという音が鳴る。


「き、気安く話しかけるな、下賤な輩が!」


 震える声を必死に張り上げ、ロレンツォは一歩後ずさった。


「僕を誰だと心得ている! この剣は、由緒正しきバルディ家に伝わる……っ、無礼を働けば、ただでは済まさんぞ!」


言いながら、彼は両足を踏ん張り、必死の形相で装飾剣の柄を引いた。

——だが、抜けない。


彼自身の背丈と変わらない長剣は、そもそも大人の騎士が両手で振るうために作られたものだ。さらに今の彼には、昨日強いられた「初めての労働」の代償が容赦なくのしかかっていた。


昨日、泣きながら板切れで甲板の錆を削り落とした代償。一度も労働を知らなかった白く柔らかい手のひらには、無数の水ぶくれができている。装飾剣の柄を強く握りしめ、渾身の力を込めた瞬間——そのマメが、無惨に破裂した。


「ぐっ……あぁっ!」 掌を走る、焼け付くような生々しい痛み。

反射的にロレンツォの腕から力が抜け、重い刀身は鞘の途中でガチリと引っかかって、びくともしなくなった。 震える手元に視線を落とすと、バルディ家の誇りであるはずの美しいルビーの柄が、潰れたマメから滲み出た自身の血と泥で、薄汚く汚れている。


(違う。僕の剣が、手が……っ)


顔を真っ赤にして再び引き抜こうとするが、痛む手のひらでは力がまともに入らない。無情な剣の重みに引っ張られ、ロレンツォは身体ごと前傾して、あわや無様に転びそうになる


「ぎゃはは! なんだそりゃ! 抜くこともできねえのかよ!」 「宝の持ち腐れってやつだな。よし、おじさんたちが代わりに使ってやるよ!」


男の一人が、太い腕を伸ばしてロレンツォの襟首を掴もうとした。

 ——終わる。

 ロレンツォがギュッと目を瞑り、絶望に身をすくませた、その瞬間。


シュッ、と。  空気を切る鋭い音が鳴り、男の顔のすぐ横の錆びた鉄壁に、火の点いたタバコが激突して火花を散らした。


「あ……?」  男が間抜けな声を上げた時には、すでにニコが、ロレンツォと男たちの間に滑り込んでいた。  彼女の動きに、予備動作は一切なかった。ただ歩幅を合わせるように前へ出たかと思うと、次の瞬間には、男の伸ばした腕の関節を逆方向に極め上げ、もう片方の手で、使い込まれて黒ずんだナイフの切っ先を、男の顎下——頸動脈の真上にピタリと押し当てていた。


「——ゴミは、大人しくゴミ箱に引っ込んでな」


低く、ひえびえとした声が、周囲の空気を一気に凍らせた。


へたり込んだままのロレンツォの視線は、不意にニコの「手元」に吸い寄せられた。 男の太い首に押し当てられた、無骨で黒ずんだナイフ。その柄は、明らかに大柄な男の掌の形に合わせてすり減っており、どう見てもニコの手のサイズには合っていない。 あんなに大きくおぞましい凶器を、淀みなく完璧に握り込んでいるのは、白くて、華奢で、とても小さな『女の手』だった。


(合っていない……。あいつは、自分の手よりずっと大きなものを、無理やり握らされているみたいだ)


女らしさなど欠片もない、野蛮な生き物だと思っていた。だが、その視覚的なアンバランスさに気づいた瞬間、ロレンツォの胸の奥が妙にざわついた。 もしかしてこの小柄な女は、好きで血に塗れたバケモノになったわけではなく、誰かの遺した重すぎる意志を、その小さな背中で必死に背負って立っているだけなのではないか――と。


ニコの瞳には、怒りも、殺意すらも浮かんでいない。ただ「次の瞬間には喉笛を裂く」という事務的な事実だけが、冷酷な光となって底のほうに沈んでいる。

 アルコールで麻痺していたはずの男たちの脳髄に、本能的な死の恐怖が叩き込まれた。


「ひっ……! や、掃除屋のニコ……っ!」

「おい、やめとけ! こいつはヤバい!」


ナイフを当てられた男が顔面を蒼白にして後ずさると、残りの二人も蜘蛛の子を散らすように、逃げるようにして路地の奥へと消えていった。


ニコは逃げ遅れた男の首根っこを掴んで引き倒すと、その懐から薄汚れた革袋を無造作に引き抜いた。チャリン、と硬い金属音が鳴る。中身の重さを手の中で軽く弾いて確かめると、男の尻を容赦なく蹴り飛ばして路地の奥へと追いやった。


「チッ、大した額じゃないが、少しは弾薬代の足しになりそうだ」


静寂が戻った鉄の通路で、ニコはチッ、と短く舌打ちをした。  ナイフの刃を革ジャケットの袖で無造作に拭い、再び腰の鞘へ収める。それから、ポケットを探って新しいタバコを取り出し、火を点けた。


「……あ、あの」


 ロレンツォが、へたり込みそうになる膝を必死に堪えながら、震える声で口を開いた。


「た、助け……」

「目障りなんだよ」


ニコは振り返りもしない。紫煙を細く吐き出しながら、足元に落ちていた何かをブーツの先で小突くようにしながら言った。


「そんな見掛け倒しの鉄屑を抱えてる暇があったら、走り方を覚えな」


「な……っ」


「誇りだか家柄だか知らないがね、そんなもんはこの街じゃ、てめえの喉元に刃物を突き立ててくれって宣伝して歩いてるようなもんだ。ここでは飾りのルビーより、私のこのすり減ったナイフ一本の方がよっぽど命を繋ぐんだよ」


淡々と、事実だけを述べるその声には、嘲りすら含まれていなかった。  それが、ロレンツォには何よりも痛烈に突き刺さった。



ロレンツォは、自分の手の中にある重い装飾剣を見下ろした。  バルディ家の象徴。自分が何者であるかを証明する、唯一の誇り。

 しかし、いざ命の危機に瀕した時、この美しい剣は鞘から抜けることすら拒み、ただ自分の身体を重力で縛り付けるだけの「鉄屑」に過ぎなかった。  彼が信じて疑わなかった『高貴なる者の価値』は、この油と錆にまみれた世界では、一欠片の意味も持たない。身を守るのは、家柄ではなく、血に濡れることを厭わない暴力と、実戦で研ぎ澄まされた薄汚い刃だけなのだと。


——悔しい。


 ロレンツォは、強く唇を噛み締めた。鉄の味が口の中に広がる。  瞳の奥に熱いものが込み上げてきたが、彼はそれを必死に飲み込み、剣の柄を抱きかかえるようにして立ち上がった。


ニコはもう、彼のことなど見ていなかった。  何事もなかったかのように、手に入れたばかりのジャンク部品の入った麻袋を担ぎ直し、ギシギシと鳴る鉄板の上を歩き出している。  その背中は、圧倒的なまでに小さく、そして、絶望的なまでに強かった。



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