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夜の帳が下り始めたイゾラの港は、昼間の陽気な喧騒が嘘のように、湿り気を帯びた薄暗闇に包まれていた。 波止場に打ち寄せ、砕ける波の音が、まるで背後から忍び寄る足音のように不気味に響く。
「……いつまで歩かせるつもりだ。足が痛い。この靴は石畳を延々と歩くためのものではないと言っているだろう。おい、聞いているのか野蛮人!」
数歩前を歩くニコは、背後でキャンキャンと響く甲高い声を完全に無視していた。肩に担いだ重い麻袋が、歩くたびにガラン、ガランと真鍮の部品同士が擦れ合う鈍い音を立てる。 ニコは無造作に建物の影を曲がり、細い路地を抜けて、さらに人目のつかない入り江の桟橋へと足を進めた。
「ニコだ。」
ニコは短く返事をすると自分のペースでさっさと歩き出した。
「待て! 私を置いていくな! ……くっ、この街はなぜこれほど油臭いのだ。鼻が曲がりそうだぞ」
不満を垂れ流しながらも、ロレンツォはニコの影から離れまいと、必死に短い足を動かしてついてくる。角を曲がるたびに、彼は周囲の暗がりに怯えたように視線を走らせ、上等な絹の袖で鼻と口を覆った。
ようやく辿り着いたのは、潮風に晒されて塗装が剥げ落ち、無惨な錆が浮き出たオンボロの小型艇だった。甲板には所狭しと機械の部品や工具箱が散らかり、生活感というよりは「海に浮かぶ工具箱」といった風情だ。
「……ここだ。乗りな」
「ここ……? まさか、これが貴様の言う『屋敷』か?」
「屋敷なんて一言も言ってないよ。ここは私の仕事場で、寝床だ」
ニコがひょいと甲板に飛び移ると、艇がギィ……と嫌な音を立てて揺れた。ロレンツォは絶望したように顔を歪め、震える足取りで桟橋から船へと這い上がる。
「信じられん! こんな油臭い豚小屋で寝られるか! 見ろ、この毛布はなんだ。いつ洗った? きっとダニやノミがうじゃうじゃいるに違いない。私は由緒あるバルディ家の——」
「うるさいねぇ。嫌なら海に飛び込んで魚と添い寝しな。明日の朝には黒砂結社の連中が、綺麗なエサとして釣り上げてくれるだろうよ」
ニコは冷たく言い放つと、甲板の隅にある重い防水布をめくり、アルドの形見である機関銃を丁寧にその下へ滑り込ませた。火薬と機械油の匂いが、夜の潮風に混ざって鼻を突く。
彼女は慣れた手つきでランタンの芯に火を灯すと、狭い操舵室の床に古いラグを敷き、その上にどっかりと腰を下ろした。
「おい、そこをどけ。せめてそこが私の寝床……」
「床に寝な。お坊ちゃん仕様のふかふかベッドなんて、この船のどこを探してもありゃしないよ」
ニコはタバコを一口吸い、紫煙を吐き出すと、そのままラグの上にごろりと横になった。
やがて、イゾラの街の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。船底を叩く波の音と、桟橋が擦れるギィギィという音が、暗闇の中でやけに大きく聞こえ始めた。 ランタンの灯りが小さく揺れ、操舵室の壁に巨大な影を作る。
……ガサッ。 遠くで何かが崩れるような音が響いた瞬間、ロレンツォの身体がびくりと跳ねた。
彼の脳裏に、家の豪奢な扉を蹴破って入ってきた黒砂結社の男たちの姿がフラッシュバックする。 絨毯を赤く染め上げた両親の血の匂い。庇いに入った老執事の首が飛んだ時の、鈍い音。燃え盛る屋敷の熱と、泣き叫ぶ暇さえ与えられなかった圧倒的な暴力の記憶が、暗闇の中で波の音と混ざり合い、津波のように押し寄せてくる。
「……あっ、ぁ……」
少年は奥歯をガチガチと鳴らし、喉の奥からひきつけを起こしたような音を漏らした。 闇に溶け込んだマフィアの影が、今にも波間から這い上がってきて、自分の首を掻き切るのではないか。そう思うと息ができなくなり、視界が涙で滲んだ。
(怖い。誰か、誰か助けて……!)
ふと、すぐ目の前にある背中を見た。 薄汚れた革ジャケットを着た、野蛮で下品な女の背中。バルディ家の当主である自分が、こんな素性の知れない女にすがりつくなど本来なら絶対にあり得ない。 だが、等間隔に上下するその背中からは、先ほどまで彼を震え上がらせていた血の匂いはしない。
代わりに漂ってくるのは、強い火薬と機械油の匂い——どんな悪党でもねじ伏せる、圧倒的な強さと暴力の匂いだった。 今は、その匂いだけが、彼を暗闇の恐怖から繋ぎ止める唯一の命綱だった。
「……う、くっ」
ニコは背中に、モゾモゾとした気配を感じた。 やがて、小さな、震える身体が、彼女の革ジャケットの背中に恐る恐る押し付けられてくる。
ロレンツォは丸まり、ニコの背中というこの船で唯一、死の匂いがしない安全な場所、にすがりつくようにして、その服の端を白くなるほど強く握りしめていた。
「おい。豚小屋じゃなかったのかい」
ニコが呆れたように声をかけたが、返事はない。ただ、背中越しに伝わってくる鼓動が、早鐘のように激しく打っているのがわかった。 しばらくすると、震えが少しずつ収まり、少年の規則的な、けれどどこか心細げな寝息が聞こえ始めた。
チッ、とニコは小さく舌打ちをした。 狭い、油臭い船室。 自分よりも小さな、天使のような顔をした「厄介ごと」の温もりを感じながら、ニコは目をつむった。
「……ま、いいさ。せいぜい精一杯、湯たんぽ代わりにでもなってくれな、お坊ちゃん」
ニコはそう吐き捨てると、乱暴に腕を組み、不器用な優しさを夜の闇に隠して、眠りに落ちた。
*
目覚めは最悪だった。
ロレンツォは、自分の顔が何やら硬く、冷たい革の感触に押し付けられていることに気づいた。鼻腔を満たすのは、昨日から散々嗅がされている、あの忌々しい火薬と機械油の匂い。
ゆっくりと目を開けると、視界のすぐ先に、無造作に束ねられた短い黒髪が見えた。
……女の、背中。
「……っ!」
自分がこの野蛮な「掃除屋」の背中にぴったりとすがりつき、あまつさえそのジャケットの裾を力いっぱい握りしめて眠っていたという事実に気づき、ロレンツォは弾かれたように跳び起きた。
「な、ななな……っ!」 顔を真っ赤にして後ずさり、船室の壁に背中を打ち付ける。 その物音で、丸くなっていたニコがゆっくりと寝返りを打ち、面倒くさそうに片目を開けた。
「……朝からうるさいねぇ。ガキはこれだから嫌なんだよ」
「だ、誰が小型犬だ! 貴様、私になんという無礼な真似を……っ! 決して私が貴様の背中にすがりついたわけではないからな! 寝ている間に船が揺れて、偶然……そう、偶然だ!」
キャンキャンと甲高い声で喚き散らすロレンツォを完全に無視して、ニコは大きくあくびをした。
彼女はのろのろと起き上がると、近くの木箱から麻袋を引き寄せ、中から石のように硬い黒パンと、水筒を無造作に取り出し、ロレンツォの足元に放り投げた。
「朝飯だ。食ったら、静かにしてな」
ニコは自分用のパンを囓りながら、ブーツの紐を締め直す。
「私はこれから仕事だ。お坊ちゃんは、結社の連中に見つからないよう、その毛布でも被ってガタガタ震えて待ってな」
「し、仕事だと……?」
ロレンツォの顔から、さっと血の気が引いた。 昨夜の恐怖が、再び脳裏をよぎる。闇に溶け込んだマフィアの影。この油臭い、鍵すらまともにかからないようなオンボロ船に、自分一人で取り残される? ニコが立ち上がり、甲板へと向かおうとした瞬間、ロレンツォは慌てて自分の身の丈ほどもある装飾剣を抱え込み、転がるようにして彼女の後を追った。
「待て! 僕を置いていく気か!」
「あ? 足手まといの子守りをする義理はないよ」
「ち、違う! 貴様は私の護衛だろうが! 主人をこんな無防備な場所に放置するなど、言語道断だ! 護衛たるもの、常に私の視界に入る場所に控えておくのが義務というものだ!」
必死に胸を張り、精一杯の虚勢を張って怒鳴りつけるが、ニコのジャケットの裾をきつく握りしめている細い指先が、彼の恐怖を雄弁に物語っていた。
「……はあ」
ニコは大きく、心底嫌そうなため息を吐いた。 実際、このお荷物を船に置いていくわけにもいかない。彼が握っている『海図』を狙う連中は、イゾラ中に腐るほどいるのだ。
帰ってきたら黒砂結社に攫われていた、では、ジュリオからの前金がパーになる。
「チッ……。足手まといが」
ニコは乱暴に頭を掻き毟ると、桟橋に停めてある大型バイクの方へと顎をしゃくった。
「乗るなら、さっさと乗りな。置いていくよ」
「なっ、あんな鉄の塊に、私が乗ると……っ」
「乗らないなら、そこで震えてな」
有無を言わさぬニコの態度に、ロレンツォは泣きそうな顔になりながらも、重い剣を引きずり、必死にバイクの後部座席へとよじ登った。
ブルルンッ! ニコがセルを回し、エンジンを荒々しく吹かす。
「ひっ……!」
「しっかり捕まってな。海に振り落とされても、拾ってやらないよ」
ニコの脅し文句に、ロレンツォは悲鳴を上げ、不本意そうに彼女の細い腰に腕を回した。革ジャケット越しに伝わってくる、火薬と機械油の匂い。昨夜、恐怖の中で彼を繋ぎ止めた、あの匂いだ。
バイクが発進し、イゾラの港町を風のように駆け抜けていく。
「おい、どこへ行くんだ!」
風圧に負けじと声を張り上げるロレンツォに、ニコは前を向いたまま答えた。
「仕事だよ。しばらく、この街を離れる」
「な、なんだと……っ!」
「追手がウロウロしてるこの街に、いつまでも長居できると思うなよ。お坊ちゃんのお守りをしながら、明日のパン代を稼ぐんだ。……文句があるなら、歩いて帰りな」
ニコの言葉は、冷たく、そしてどこか突き放すような響きを持っていた。 それは、厄介ごとから逃れるためでもあり、同時に、あの静かな酒場にある「美しすぎる過去」から、自分自身を遠ざけるための、彼女なりの防衛本能でもあった。
(……これでいい)
ニコはゴーグルの奥で、冷たい風に目を細めた。 自分がこの「一番の標的」である少年を連れて海へ出れば、血眼になった追手たちの目はすべて自分たちに向く。
ジュリオの酒場に火の粉が降りかかることは、もう絶対にない。 二度とあのレモンの香る店には戻れないかもしれない。
それでも、彼が愛した「ジーナとの思い出が詰まった日常」を完璧に守り切れたのだから、安いものだ。 ニコは胸の奥に広がる空洞を埋めるように、エンジンのスロットルをさらに力強く捻り込んだ。
ロレンツォは、ニコの背中に顔を押し付けながら、遠ざかっていくイゾラの街並みを、ただ黙って見つめるしかなかった。
*
頭上から降り注ぐ暴力的なまでの陽射しが、白茶けた石畳に乱反射して網膜を焼く。 イゾラのバザールは、むせ返るような熱気と喧騒に包まれていた。潮風に混じって、鼻を突く香辛料の匂いや、串焼き肉の脂が焦げる煙が入り組んだ路地を満たしている。
日除けの天幕が濃い影を落とす、薄暗いジャンク屋の店先。 ニコはカウンターにドサリと重い麻袋を投げ出し、中から真鍮の歯車や計器盤の部品を無造作に並べていた。
「……で、これでいくらになる」
「なんだいニコ、今日はシケてるね。まあ、銀貨三枚ってとこか」
油まみれの親指で部品を弾く店主に、ニコは短く息を吐いて口を開きかけた——その時だ。
「待て! そんなはした金で売り払う気か!」
ガリッ、ガリッ。 石畳を不快な音で擦りながら、ロレンツォが重い装飾剣を引きずって前に出た。泥に汚れてはいるが、天幕から漏れる光に照らされたその美貌は、嫌でも人目を惹きつける。
「僕の目から見ても、その歯車の細工は悪くない。由緒正しきバルディ家の当主であるこの僕が『価値がある』と言っているのだ、平民の分際で出し抜こうとするな!」
ふんぞり返って言い放つロレンツォに、店主の顔からスッと愛想が消えた。
「……なんだい、この世間知らずのクソガキは。銀貨二枚だ。嫌なら他所へ行きな」
「なっ、貴様……!」
ニコは無言でロレンツォの首根っこを掴んで後ろへ放り投げると、銀貨二枚を乱暴に引ったくり、店を後にした。
バザールの人混みを掻き分けながら、ニコはライターの火を点け、タバコを深く吸い込んだ。
「おのれ、あの無礼な店主め。バルディ家の名を……」
「お坊ちゃんのありがたい鑑定のおかげで、明日のパン代が減ったよ」
「僕のせいにするな! 貴様の交渉が下手なだけだろう!」
キャンキャン吠えながら、ロレンツォの足がふいにとある屋台の前で止まった。香ばしく焼けた厚切り肉と、甘い果実酒の匂いが漂う店だ。
ロレンツォは重い剣を床にドスンと置き、勝手に店先の木椅子に腰を下ろした。
「おい、店主! 一番上等な肉と菓子を出せ! 支払いはそこにいる僕の『護衛』がする!」
「は……?」
ニコが振り返った時には、すでに手遅れだった。店主が愛想よく分厚い肉の皿と冷えた果実酒をロレンツォの前に並べる。
ニコの口から、ポトリとタバコが落ちた。
「おい、ふざけ……」
「なんだ、不満か? 貴様がよこしたあの石のような黒パンなど、豚の餌だ。バルディの厨房では犬ですらもっとマシなものを食う」
ニコはこめかみに青筋を立て、奥歯をギリッと噛み鳴らしながら、革のポーチから先ほど手に入れたばかりの銀貨を取り出し、叩きつけるように店主に渡した。
ジュリオには「前金で金貨十枚」とふっかけたものの、結局その金はすべてこれまでの自分のツケの精算としてカウンターに置いてきてしまった。
今、彼女のポーチに入っている当座の路銀は、今日自分で稼いだこの銀貨だけだったのだ。 ロレンツォは肉を一口かじり、すぐに眉間に皺を寄せた。
ロレンツォは肉を一口かじり、すぐに眉間に皺を寄せた。
「……味が濃すぎる。香辛料で肉の臭みを誤魔化しているだけだ。やはり、我が家の専属料理人には遠く及ばん」
変声期前の、甲高く尊大な声は、周囲の喧騒の中でもやけによく響いた。 隣のテーブルで安いエールを飲んでいた荒くれ者たちが、ピタリと会話を止め、こちらを睨みつける。
「おい、そこのガキ。さっきから聞いてりゃ、どこの貴族様だか知らねえが、ずいぶん偉そうな口を叩くじゃねえか」
立ち上がった大柄な男の影が、ロレンツォをすっぽりと覆い隠す。 普通なら怯える場面だ。しかし、行き場のない恐怖を虚勢でしか覆い隠せない彼は、椅子から立ち上がると、細い腕で必死に装飾剣の柄を握りしめた。
「無礼者! 僕を誰だと心得ている! この剣にあしらわれたルビーの価値すらわからんのか!」
眩しい陽光の下、柄に埋め込まれた宝石がギラギラと赤い光を放つ。
「バルディ家の当主に向かって、その汚い口を……っ」
——バルディ家。 その言葉が響いた瞬間、バザールの空気が、スッと温度を下げた。
ニコの喉の奥で、ひゅう、と細い音が鳴る。 周囲の喧騒が遠のき、耳が痛いほどの静寂が路地に落ちた。照りつける太陽は変わらないのに、まるで足元から濃い影が這い上がってくるような錯覚。 荒くれ者たちの背後、バザールの人混みの向こうから、明らかに堅気ではない空気を纏った数人の男たちが、無言でこちらへ歩み寄ってくる。外套の下で、鈍い金属光沢が覗いていた。黒砂結社か、軍の手先か。
「……おやおや。探す手間が省けたぜ。バルディ家の『お坊ちゃん』」
低く、地の底から響くような声。 ロレンツォの威勢のいい声が、喉の奥で引き攣ったように止まった。剣の柄を握る指先から、さぁっと血の気が引いていくのがわかる。特権階級の誇りも、ルビーの剣も、ここでは何の意味も持たないという現実。
(……っのクソガキ、本気で勘弁してくれよ)
ニコは足元のタバコをブーツの踵で乱暴に揉み消すと、背中に負った機関銃のスリングを、無言で強く握り直した。
低く嗄れた声に、ロレンツォの肩がびくりと跳ねた。
「き、貴様ら……っ、僕に近づくな! 斬り捨てるぞ!」
声が情けなく裏返る。ロレンツォは震える両手で必死に剣を抜こうと力んだ。だが、貴族の虚栄心がこれでもかと詰め込まれた分厚い刀身は、彼の細い腕では半分も鞘から出ない。
ズルリ、と無様な音を立てて、ルビーの柄が石畳に落ちた。
「あ……っ」 男の一人が、無造作に足を振り上げた。
鳩尾に軽い蹴りを入れられただけで、ロレンツォの小柄な身体はボールのように吹き飛び、背後のレンガ壁に激突した。肺から空気が搾り出され、声にならない呻きが漏れる。 薄汚れたブーツに胸を踏みつけられ、首筋に氷のように冷たい刃が押し当てられた。 ——死ぬ。
教養として習った美しい剣術も、誇り高きバルディの家柄も、この薄暗い路地裏では何一つ自分を守ってはくれない。喉の奥がひゅうひゅうと鳴り、全身の血が凍りつくような絶望が、彼を金縛りにした。
その時。 鼓膜を破るような轟音が、ロレンツォの頭上わずか数センチを掠めた。
「ひっ……!」
ロレンツォを押さえつけていた男の頭部が、弾け飛んだ。 どさりと崩れ落ちる重い質量。生温かい血飛沫がロレンツォの白い頬をべっとりと濡らす。
――その瞬間、ロレンツォの脳裏に凄惨な記憶がフラッシュバックした。 屋敷の豪奢な扉を蹴破り、両親や老執事を惨殺した『黒砂結社』の男たちの冷酷な笑み。絨毯を染めた血の匂い。理不尽に命を奪い去っていく、抗いようのない圧倒的な暴力。
震える視線を上げると、そこには自分を救ったはずの女が立っていた。
「チッ……。だから言っただろうが。ガキはキャンキャンうるさくて面倒だって」
人の命を奪い、その返り血を浴びたというのに、ニコは表情一つ変えることなく、平然と紫煙を吐き出しながら前に進み出た。 血に濡れたその無表情な横顔が、ロレンツォの目には、家族を惨殺した結社の男たちの姿と完全に重なって見えた。
(違う。こいつは……僕を助けたんじゃない。僕の家族を殺した連中と同じ、あちら側の『化け物』だ……っ!)
命を救われた安堵よりも先に、生存本能がけたたましく警鐘を鳴らす。 その手には、使い込まれた旧式の機関銃。最新式のスマートな銃器が飛び交う裏社会で、彼女があえて手放さない無骨な鉄の塊だ。
銃口からは、チリチリと陽炎のような熱と硝煙が立ち昇っている。 残る男たちが一斉に懐から武器を抜くが、ニコの動きのほうが圧倒的に速かった。
彼女はためらいもなく引き金を引き、路地の壁や屋台の木箱ごと敵を蜂の巣にしていく。悲鳴を上げて逃げ惑う一般客を意に介する様子もない。 その混乱に乗じ、死に物狂いで突っ込んできた男の一人が、へたり込むロレンツォへと凶刃を振り下ろした。
「チッ……!」
ニコは舌打ちと共にロレンツォの前に滑り込み、左の二の腕でその刃をあえて受け流す。革ジャケットが裂け、鮮血が宙を舞ったが、彼女は痛みに顔色一つ変えることはなかった。 弾切れを察知するや否や、ニコは機関銃を背に回し、そのままコンバットブーツで男の膝関節を容赦なく砕いた。
崩れ落ちた敵の首元へ、誰かの掌の形にすり減った愛用のナイフが滑り込む。鮮血が石畳を黒く染めた。
その一連の動きを、恐怖に凍りつきながらも、ロレンツォの目はしっかりと捉えていた。 彼の知る「教養としての剣術」とは全く違う、型破りな動き。
だが、一見力任せでガサツに見えるその戦闘には、恐ろしいほどの洗練があった。体重移動に一切の無駄がなく、常に相手の急所だけを最短距離で的確に狙い抜いている。
(美しいだけの僕の剣術より、彼女の動きのほうが、遥かに理にかなっている……)
優雅さなど微塵もない。ただ「生き残る」ためだけに研ぎ澄まされた、泥臭く、圧倒的な暴力。
へたり込んだままのロレンツォは、血と硝煙の匂いを纏って立ち尽くすニコの背中から、目を離すことができなかった。これが、本物の「強さ」なのだと、頭の芯が痺れるほどに理解させられて。
「立て。置いていくぞ」
ニコは腰を抜かしているロレンツォの胸ぐらを片手で掴み、乱暴に引きずり起こした。 そのまま路地を抜け、波止場近くに停めてあった大型バイクへと走る。
「乗れ」
「あ、あ、ああ……っ」
顎をガチガチと鳴らして後部座席によじ登ったロレンツォを確認するや否や、ニコは背中から外した機関銃を、「落とすなよ」と乱暴に彼に押し付けた。
「ひっ……! あ、熱っ……!」
受け取った瞬間、ロレンツォは思わず声を上げた。分厚い鉄の銃身は、先ほどまで火を吹き続けていた熱を帯び、火傷しそうなほど生々しく熱かった。
彼が今まで大事に抱きしめていた、家宝の美しいルビーの装飾剣は、どんなに強く握りしめても常にひんやりと冷たいままだった。
(これが、人を殺す道具の熱……本物の暴力の重さ……っ)
「冷たくて美しいだけの剣」では誰も守れないという現実を、彼は理屈ではなく、掌を焼くその熱さで痛烈に理解させられた。
ニコはロレンツォが銃を抱えたのを確認すると、アクセルを力いっぱい吹かした。
——ドゥルルルルンッ!!
腹の底に響く重低音が、イゾラの街の喧騒を切り裂く。
バイクは白い石畳を蹴り上げ、照りつける太陽の下を猛スピードで疾走した。逃げ惑う水夫たちや、ひっくり返る果実の屋台。怒号が飛び交う中を、ニコは曲芸のようなハンドル捌きで駆け抜けていく。
ロレンツォは振り落とされまいと、ニコの革ジャケットに必死にしがみついた。彼の鼻腔を、強烈な火薬と機械油、そして彼女の甘い汗の匂いが容赦なく満たしていく。もはや、文句を言う余裕すら一言もなかった。
バイクが向かったのは、街の喧騒から外れた、人目のつかない入り江の桟橋だ。 今朝出発したそこには、彼女の「寝床」であるオンボロの小型艇が停泊している。 ニコはバイクを強引に艇の甲板へと乗り入れ、急ブレーキをかけた。タイヤが焦げる匂いが立ち込める中、ロレンツォはたまらず甲板へと転げ落ちた。
「弾薬代がパーになった上に、追加の追手まで連れてきやがって……っのクソガキ」
ニコは悪態をつきながら、艇のエンジンキーを回す。 けたたましいエキゾーストノートが轟き、小型艇は白波を荒々しく蹴立てて、入り江から外海へと飛び出していった。 イゾラの美しい白い街並みが、みるみるうちに小さくなっていく。
ニコは操舵輪を握りながら、口にくわえていた、すっかり折れ曲がったタバコを海へとペッと吐き捨てた。
「……さっさと次の街に行くか」
それは、ジュリオのいるこの街にはもう長居できないという、決定的な別れの言葉でもあった。
*
同じ頃、イゾラの街。 暴力的なまでの昼の陽射しが傾き、薄暗くなった酒場の中には、ひんやりとした静寂だけが残されていた。 ジュリオは一人、カウンターの奥で黙々とグラスを磨いている。
ふと、彼の規則的な動きが止まり、グラスを持つ左手に視線を落とした。ランプの仄暗い灯りに照らされた指の付け根には、かつて指輪があった場所の、白い日焼けの跡が残っている。
「……行ってしまったよ、ジーナ。アルド」
誰もいない店内に、ジュリオの低い声がポツリと落ちた。 スラムの吹き溜まりで身を寄せ合い、共に生き抜いてきた四人の幼馴染たち。 共和国の傭兵として前線で散った、親友のアルド。 そして亡き妻、ジーナ。
ニコにとっては非の打ち所のない「完璧な女性」だった彼女だが、その実態は、幼い頃に裏社会の泥水から命からがら逃げ出してきた過去を持つ少女だった。ジュリオはすべてを知った上で彼女を愛し、この酒場という日向の世界へと引き上げた。しかし結局、大人になったジーナは過去の因縁に再び巻き込まれ、理不尽な暴力によってあっけなく命を奪われてしまったのだ。
四人いた家族の中で、生き残ったのはジュリオと、末っ子であるニコの二人だけになってしまった。
ジュリオは手にしていたナイフでレモンを薄くスライスし、氷の入ったグラスに落とした。爽やかな柑橘の香りが、カウンターに広がる。
あの棘のある態度の裏で、ニコが自分に痛切な恋心を抱いていることなど、とうの昔に気づいていた。そして、自分が彼女を「女」として見ていないという事実が、どれほどニコを傷つけているかも。
だが、ジュリオにとってニコは、絶対に失ってはならない『たった一人の大切な妹』なのだ。
(彼女をこの安全な日向に座らせれば……いつか必ず、彼女の纏う血と硝煙の因縁が、ジーナのように彼女自身を殺してしまう)
これ以上、愛する家族を裏社会に奪われることに耐えられない。 その強烈なトラウマと兄としての庇護欲が、ジュリオを「心配焼きの兄貴分」という安全な立場に縛り付けていた。
「……私の方が、よっぽどずるい大人だよ」
ニコは「自分のような薄汚れた女は特等席に座れない」と自嘲し、彼らの日常を守るために自ら裏社会の泥を被り続けている。 だが本当は、彼女を突き放し、あえて冷たい言葉で追い返しているのは、ジュリオ自身の愛するがゆえの自己犠牲だったのだ。
自分を憎んででもいい。見限ってでもいい。ただ裏社会から足を洗い、普通の幸せな女の子として生きてほしい。 ジュリオは、ニコが座っていた空っぽのスツールを見つめ、切なげに目を伏せた。
「……生きて、いつか完全に過去の因縁から解き放たれてくれ、ニコ。私なんかより、ずっと相応しい誰かと一緒に」
氷の入ったグラスに透明な炭酸水が注がれる、微かな音だけが、誰もいない酒場に虚しく響いていた。
*
紺碧の海を白い航跡で引き裂きながら、小型艇は進む。 熱い潮風が吹き抜ける甲板の上で、ロレンツォはへたり込んだまま、ピクリとも動けなかった。 泥だらけになった自分の手と、横たわる重いだけの装飾剣。己の傲慢さが追手を引き寄せ、この小さな掃除屋に命を救われたという事実が、重い鉛のように胃の腑にのしかかっている。
——波の音とエンジンの咆哮だけが響く中、かつて天使のように美しかった少年は、ただひたすらに、痛いほどの沈黙を保ち続けていた。
夕暮れが近づき、海面が血のように赤く染まり始めた頃。
ずっと操舵輪を握っていたニコが、赤く染まる海面をどこか虚ろな瞳で見つめながら、風に溶けるような声でふと独り言をこぼした。
「……裏社会の連中はさ、死体を隠す時、重りをつけてみんな海へ沈めるんだ」
不意の物騒な言葉に、ロレンツォは弾かれたように顔を上げた。ニコは彼の方を見ず、ただ果てしなく広がる暗い海面を見つめ続けている。
「血に塗れた悪党も、無実の人間も、海は文句一つ言わずに全部飲み込んで隠してくれる。……案外、海ってのは優しいのかもね」
ニコは新しいタバコに火を点け、紫煙を潮風に紛れさせた。
「どんなに血や油で汚れた罪人でも、海の底に沈めば……全部綺麗に洗い流して、真っさらにしてくれるんだから」
その横顔には、冷徹な掃除屋としての凄みはなく、ただ己の血塗られた運命を自嘲し、いつか訪れるであろう「罰」と「浄化」を待ち望んでいるような、ひどく痛切で儚い死生観が漂っていた。
ロレンツォは、彼女が抱える闇の深さに触れ、背筋が凍るような感覚を覚えながらも、その言葉を脳裏に深く刻み込んだ。




