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足手まといの没落貴族を拾ったら、数年後、相棒へと成長した彼から逃げられません  作者: *しおり*


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1

紺碧の海を、白い航跡が乱暴に引き裂いていく。

 高く跳ね上がった潮飛沫を革ジャケット越しに浴びながら、ニコは小型艇の操舵輪を荒々しく切った。咆哮するエンジンの重低音が、波が岩肌に砕けるざざっという音をねじ伏せる。


 照りつける太陽の下、イゾラ近海の切り立った岩礁に乗り上げているのは、中型の密輸船だった。装甲板はひしゃげ、黒こげた大穴から燻るような煙を吐き出している。  小型艇を接舷させると、ニコはコンバットブーツの底でゴツゴツとした岩を踏みしめ、残骸へと跳び移った。


眩しいほどの陽光から一転、船内は仄暗く、息が詰まるほどの熱気が淀んでいた。  ニコは鼻を覆いたくなる衝動を、短く吐き出した息で誤魔化した。焼き付いた機械油と、硝煙、そして生々しい焦げた肉の匂いが、狭い空間にねっとりと張り付いている。


(最近、軍や新興商会の船の動きが妙に慌ただしく、海がきな臭い)


 空賊崩れの先客たちとの「交渉」は、つい一時間ほど前に物理的に終わらせたばかりだ。

 ニコは油で黒く汚れた手の甲で額の汗を拭うと、背中に背負っていた古い機関銃を足元にドンと置いた。亡き幼馴染、アルドが遺した無骨な鉄の塊。銃身はまだ熱を持ち、硝煙の匂いをくすぶらせている。ニコは腰からナイフを抜き、刃にこびりついた血糊を、手元のウエスで無造作に拭い落とした。


最新式の軽量な自動小銃が裏市場にいくらでも出回っているこの時代に、ニコはあえて取り回しの悪い旧式の機関銃を手放そうとはしなかった。使い込まれた鉄の冷たい重みと、誰かの掌の形にすり減ったナイフの柄。こびりついた血と硝煙の匂いを嗅ぐたび、今は亡き幼馴染の顔が脳裏を掠める。それらは彼女にとって、単なる仕事道具以上の、手放してはならない重い「錨」だった。


チッ、と舌打ちをして、ナイフをバールに持ち替える。


「……最近はどいつもこいつも、新興商会の息がかかった連中ばっかりだね。海が荒れてしょうがない」


 ひん曲がったハッチの隙間にバールをねじ込み、体重をかけて強引にこじ開ける。ギギギ、と金属が悲鳴を上げ、留め具が弾け飛んだ。

 露出した計器盤から、まだ使えそうな真鍮の歯車や部品を乱暴にもぎ取り、麻袋へと放り込んでいく。ガラン、ガランと、重く虚しい金属音が船内に反響する。


「こんなジャンク品の山じゃ、昨日撃ち尽くした機関銃の弾薬代にもなりゃしない。明日のパン代も怪しいもんだ」  


ボヤキながら、ニコはポケットから湿気たタバコを取り出し、咥えた。  ライターの火を点け、紫煙を船内の淀んだ空気に吐き出す。


「……さっさとこいつらを換金して、次の街に行くか」  


呟きは、誰に聞かせるためのものでもない。  海を渡り、各地を転々とする掃除屋稼業。長居は無用だ。特に、このイゾラの街には。  ——あの静かな酒場に満ちる、古い木材と柑橘の香りを思い出す前に。  ニコはタバコのフィルターを軽く噛み潰し、麻袋を肩に担ぎ上げた。


小型艇の甲板に麻袋をドサリと投げ落とし、キーを回す。けたたましいエキゾーストノートを轟かせ、白波を蹴立てて岩礁を後にした。


 イゾラの港に艇を接舷させると、今度は波止場に停めてあった大型バイクに跨る。  額に跳ね上げたゴーグルは潮風と油で薄汚れ、無造作に束ねられた髪を乱雑に押さえつけている。身長は百五十センチ台半ばと、女性の平均にすら満たない小柄な体躯だ。


しかし、煤けた革ジャケットを羽織り、背に無骨な機関銃を背負ってアクセルを吹かすその姿から、彼女を侮る者はこの街にはいない。漂う火薬の匂いと射抜くような鋭い視線が、彼女の歩んできた修羅場を無言で物語っているからだ。


 照りつける太陽が、海沿いの白い石畳を容赦なく白茶けさせている。港の喧騒、水夫たちの怒声、バザールから漂うスパイスと焼き魚の匂いが入り混じる路地を、ニコはエンジンの重低音で切り裂くように走り抜けた。  暴力的なまでの陽射しと熱気に肌を焼かれながら、彼女は無意識のうちに、あのひんやりとした静寂を目指してバイクを走らせていた。





カラン、とドアベルが鳴り、ニコは酒場の中へと足を踏み入れた。


 外の暴力的なまでの陽射しが嘘のように、店内はひんやりとした薄暗さに包まれている。磨き上げられたオーク材の床、微かに漂うシガーと柑橘系の香り。  店の隅に置かれた古い蓄音機からは、オーボエの哀愁を帯びた、どこか壮大な旋律が静かに流れていた。


「お疲れだな、ニコ」

 カウンターの奥で、ジュリオが静かに顔を上げた。ランプの仄暗い灯りが、彼の整った高い鼻梁と、夜の海のように深い黒髪の輪郭を浮かび上がらせる。その静かな黒い瞳の奥には、裏社会の硝煙や喧騒とは無縁の、大人特有の波一つ立たない静謐さが湛えられていた。

 彼は手にしていたナイフでレモンを薄くスライスすると、それを氷の入ったグラスに落とし、透明な炭酸水を注いでニコの前に滑らせた。


 ニコはカウンターの端にある定位置のスツールにどっかりと腰を下ろすと、手に持っていた油まみれのウエスを放り投げた。


「泥水って言っただろ」

「あいにく、切らしている。今日は東の岩場で大立ち回りだったそうじゃないか」


ニコは呼吸の仕方を忘れたように一瞬息を詰め、慌ててグラスを煽った。冷たい炭酸が喉の奥で弾け、無理やり視線を自分の手元のグラスへと落とす。


 炭酸の痛いような刺激と一緒に、泥のような苦いものを胃の腑へと流し込む。グラスを握る自分の指先には、いくら石鹸で擦っても落ちない機械油が黒く染み付いていた。店内を漂う柑橘の香りは、かつてこの場所で日向のように笑っていた、非の打ち所のない完璧な女性の面影を連れてくる。


 どれだけ裏路地で泥と血を被り、命懸けで彼らの日常を守り抜こうとも、自分のような薄汚れたガサツな女が、彼の隣の特等席に座る日など永遠に来ない。その決定的な事実が、心臓を鷲掴みにされたように胸の奥をきつく締め付けた。


「……ただのゴミ拾いだよ。空賊崩れが勝手に自滅してただけだ。で、ツケはいくらだ?」


ニコはそっぽを向いたが、ジュリオの静かな視線はごまかせなかった。


「ジャケットの袖が裂けているし、血と硝煙の匂いも酷い。ただのゴミ拾いには見えないがね」


ジュリオが新しいグラスを布で磨きはじめる。その規則的な動きに合わせて、彼の左手がランプの光を反射した。かつてそこにあったはずの指輪はとうの昔に外されているが、指の付け根には、未だに日焼けの跡が白く残っている。


ジュリオはふとグラスを置き、カウンター越しに静かに手を伸ばした。

清潔な白いハンカチが、ニコの頬にこびりついた赤黒い血糊と油をそっと拭おうと近づく。


ビクッ、と。ニコの肩が強張った。 あのレモンの香りがすぐ鼻先まで近づいた瞬間、彼女は弾かれたように顔を背け、その優しい手を避けた。


「……触るな。アンタの綺麗な服が汚れる」

「ニコ」

「私は裏社会の泥水がお似合いなんだ。放っておいてくれ」


わざと乱暴に吐き捨てたニコの言葉に、ジュリオはそれ以上踏み込もうとはしなかった。ただ少しだけ悲しげに目を伏せ、静かにハンカチをポケットへとしまい込む。 彼は大人すぎた。彼女の棘のある態度の裏にある痛切な感情に気づかないふりをして、あくまで「心配焼きの兄貴分」という安全な立場に留まることを選んでいるのだ。


  ニコは呼吸の仕方を忘れたように一瞬息を詰め、慌ててグラスを煽った。冷たい炭酸が喉の奥で弾け、無理やり視線を自分の手元のグラスへと落とす。


「……密輸船を漁ろうとしたら、空賊崩れの先客が三、四人いてね。ちょっと『退き取って』もらっただけさ。アルドが遺したこいつが火を噴きたがってたし、少し挨拶したら勝手に自滅した。で、私のツケはいくらだ?」

「また危ないことをしているのか? ニコ」


ジュリオの静かな、けれどたしかな気遣いを含んだ声に、ニコはグラスの縁をなぞる指を止めた。


「そろそろ落ち着いたらどうだ。……ジーナも、アルドも君がずっと命を危険に晒すようなところにいるんじゃ浮かばれない」


『ジーナ』。


その名前が出た瞬間、ニコの心臓がチクリと嫌な音を立てた。


脳裏にフラッシュバックするのは、スラムの吹き溜まりで身を寄せ合って生きていた、四人の幼馴染たちの記憶だ。


 アルドがどこからかくすねてきた硬いパンを四等分し、分け合って笑い合った埃っぽい路地裏。孤児だった彼らにとって、互いだけがこの過酷な世界で唯一の『家族』だった。


 やがてアルドは共和国の傭兵として前線で散り、残された莫大な借金からジュリオたちを守るため、ニコはアルドの銃を握って自ら裏社会の泥水へと沈んだ。


それでもよかった。


 ニコの初恋の人であるジュリオと、誰よりも優しかったジーナが、この日向の世界で二人で幸せになってくれるのなら、自分は喜んで日陰のバケモノになろうと誓っていたのだ。


 だが、あの夜。ジーナが幼い頃に逃げ出したという裏社会の過去の因縁が、この静かな酒場を理不尽な暴力で蹂躙した。


『ニコ……ごめんね……ジュリオを、お願い……』


 店の床に広がる赤黒い血溜まりの中で、急速に冷たくなっていくジーナの細い手。そして、血まみれの彼女に取りすがり、声にならない絶望の叫びを上げて泣き崩れるジュリオの姿。


 あの凄惨な光景を目にした瞬間、ニコの中で何かが決定的に壊れ、同時に冷酷な誓いが刻み込まれたのだ。


 ——これ以上、誰にも彼の日常を奪わせはしない。そのためなら、自分は女としての幸せも、日向を歩く権利もすべて捨て、一生血と硝煙にまみれた「掃除屋」として生き抜いてやると。


 完璧で、優しくて、ジュリオが心から愛した亡き妻。自分がどれだけ血と硝煙にまみれて戦っても、絶対に敵わなかった人。彼女の幸せを守るために裏社会へ身を投じたのに、ジュリオは今でも自分を「危なっかしい幼馴染の悪ガキ」としてしか見ていないのだ。


(それを、アンタが言うのかよ)


胸の奥で渦巻く泥のような感情を奥歯で噛み殺し、ニコはわざとらしく鼻で笑った。


「……生憎だけど、ボランティアは受け付けてないよ。こっちも弾薬代と明日のパン代に困って……」



「おい! いつまで私をこんな埃っぽい場所に座らせておくつもりだ!」


唐突に、店の奥の暗がりから、変声期前の甲高い声が飛んできた。



ニコが胡乱な目を向けると、積み上げられた酒樽の横の木箱に、小柄な人影が座っていた。


 上等な絹のシャツは泥と煤で汚れ、破れた袖口からは折れそうなほど細い腕が覗いている。だが、泥にまみれてなお、その容貌は異彩を放っていた。長い睫毛に縁取られた瞳、ランプの光を弾く透き通るような白い肌。まるで古い教会のフレスコ画から抜け出してきた天使のような、浮世離れした美少年だ。


 しかし、百五十センチほどの小柄な彼が必死に抱え込んでいるのは、自身の背丈とほぼ変わらない長さの、柄にルビーがあしらわれた豪奢な大剣だった。重さに耐えかねて先端は床を引きずり、およそ実戦の役には立たない「貴族の虚栄心」そのもののような代物。機能性だけを追求した薄汚れた格好のニコとは、並ぶと何もかもが決定的にちぐはぐだった。


「……なんだい、そのキャンキャン吠えるガキは」


「バルディ家のロレンツォだ。事情があって、家が潰れた」


 ジュリオがため息交じりに言うと、少年——ロレンツォは顔を真っ赤にして立ち上がった。


「僕のことをガキと呼ぶな! 由緒正しきバルディ家は潰れてなどいない! 新興の商会どもが卑劣な罠を張っただけで……っ、大体、その下品な女はなんだ。こんなのが、私の護衛だとでも言うのか!」

「お前が行くあてのない路地裏の野良犬だということはわかったよ」


 ニコはロレンツォには一切視線を向けず、咥えタバコのままジュリオに顔を戻した。


「ジュリオ。私は掃除屋であって、子守りじゃないんだが」


「そう言わずに頼む。バルディ家が黒砂結社に襲撃されたのは昨夜のことだが、結社は逃げたこの息子が最重要の『海図』を持っていることに気づき、即座に裏社会のネットワークに莫大な懸賞金をバラ撒いたらしい」


ジュリオはカウンターの下から、今朝届いたばかりだという一枚の手配書を滑らせた。そこには、泥にまみれる前の整った少年の顔が描かれている。


「私の店にも情報屋からこれが回ってきてね。情勢が落ち着くまででいい。彼が握っている『海図』を狙って、今、イゾラ中の軍やら商会やらが血眼になっている。私の店に置いておけば、いずれ奴らが嗅ぎつけるだろう」

「情勢が落ち着くまででいい。彼が握っている『海図』を狙って、今、イゾラ中の軍やら商会やらが血眼になっている。私の店に置いておけば、いずれ奴らが嗅ぎつけるだろう」

「……だから、私に面倒を見ろと?」

「なっ……! 私を無視するな! この私が直々に……っ」

「おい、ガキ」

 ニコはスツールから立ち上がり、ロレンツォの目の前まで歩み寄った。鼻先を掠めた機械油と血の混じった匂いに、少年は露骨に顔をしかめ、絹の袖で鼻と口を覆う。


「ガ、ガキじゃないと言っているだろう! 気安く近づくな、下賤な輩が!」

 百五十センチを少し超える程度の彼の背丈は、小柄なニコよりもさらにわずかに低い。見下ろす形になったニコの冷たい視線を浴びて、ロレンツォは顔を真っ赤にして叫んだ。

「僕を誰だと思っている! 由緒正しきバルディ家の当主に対してその無礼な口の利き方……っ、本来なら万死に値するぞ! その汚らしい首を即座に刎ねてくれる!」


キャンキャンと甲高く吠えながら、ロレンツォは抱え込んでいた巨大な装飾剣の柄に手をかけた。しかし、彼自身の身長とほぼ同じ長さの、ルビーや精緻なモザイク状の金細工がびっしりと埋め込まれたその剣は、美術品であって実戦の武器ではない。

 一度も労働を知らない白く柔らかい指で、必死に鞘から引き抜こうと力むが、重みで刃は半分も出ない。ずるり、と重力に負けた鞘の先が、磨き上げられた床のオーク材を無様に擦り、ガリッという情けない音を立てた。

「くっ……うぅ……っ!」


顔に血を上らせ、細い腕をわなわなと震わせて剣と格闘する少年を、ニコは無言で見下ろしたまま、ポケットからマッチを取り出して擦った。シュッ、と小さな火花が弾け、タバコの先端が赤く燃える。

「……やめときな。そんな重心の狂ったナマクラ、まともに振る前に手首が折れるよ」

 紫煙を細く吐き出しながら淡々と告げると、ロレンツォは「なっ……!」と息を詰まらせた。


ニコの瞳の奥にある、血と硝煙の匂いを纏った本物の「掃除屋」の凄み。それに当てられ、少年の言葉がぴたりと止まる。

 それでも威嚇するように顎を上げ、必死に胸を張って自分を大きく見せようとしているが、装飾剣を握りしめる指先は白く鬱血し、上等な革ブーツに隠れた膝は小刻みに震えている。

「ば、バルディの剣をナマクラと呼ぶか……っ! 平民の分際で、僕を、僕を愚弄するのも大概にしろ……!」


——虚勢で身を鎧い、行き場を失って暗がりで怯える、かつての自分と同じ目。

 チッ、と。ニコは大きく舌打ちをした。

 乱暴に髪を掻き毟り、頭をガシガシと掻く。

「……前金で金貨十枚。それと、そこの手のかかる『元・お坊ちゃん』の服と飯代はそっち持ちだ」

「ニコ……」

「勘違いするなよ。最近、ちょっと厄介な仕事ばかりで弾薬が足りなかったんだ。ちょうどいい弾除けのサンドバッグが手に入っただけさ」


ニコは振り返ることなく言い捨てると、無造作に自分の麻袋を肩に担ぎ上げた。

「ぼ、僕はサンドバッグじゃない! バルディ家のロレンツォだ! おい、待て、私の話を聞け野蛮人!」

 背後で喚き続けるロレンツォの抗議を完全に無視して、ニコは薄暗い酒場の出口へと歩き出した。

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