新たな日々3
イゾラの強い陽射しが、白い石畳に突き刺さるように反射する。
酒場の重いオーク材のドアが背後で閉まり、ひんやりとした柑橘の香りが、潮のベタつく熱風に塗り替えられていく。
隣を歩くニコの横顔を、ロレンツォは目深に被ったフードの影から盗み見た。
彼女の小さな手の中には、ジュリオから投げ渡された麻袋が握られている。中に入っている黄色い果実の重みを感じているのか、ニコの歩みは少しだけ遅かった。
だが、その横顔からは、これまで彼女の背中に重くのしかかっていた「痛切な自己犠牲」の棘や、過去の幻影への囚われが、嘘のように消え去っていた。
凭れかかるような暗い翳りはなく、夏の空の下にさらされたようにスッキリと晴れ渡っている。
「……で」
ロレンツォは、少しだけ歩幅を狭めて彼女の横に並び、あえて低い声で口を開いた。
「そのレモン。本当に僕に蜂蜜漬けでも作ってくれる気があるのか?」
ニコの肩が、ビクッと跳ねた。彼女は歩きながら顔を真っ赤に染め、乱暴に麻袋を隠すように背中に回した。
「う、うるさいね! 誰がアンタなんかのために手間暇かけてやるもんか。アンタみたいな胃酸過多のバカには、そのまま皮ごと丸かじりさせてやるよ!」
「丸かじりは遠慮しておく。せめて薄切りにしてくれ」
ロレンツォは不機嫌そうに眉を寄せ、わざとため息をついてみせた。
だが、胸の奥では、これまでにないほど温かく、薄暗い喜びが広がっていた。
彼女がジュリオという過去の幽霊から完全に解放され、その手にある『レモン』が過去の因縁の象徴から、ただの果実へと変わったのだ。
彼女の隣に並び立つ「今」を生きる男として、これ以上の喜びはない。
* * *
イゾラの表通りの喧騒から外れ、二人が向かったのは、人気のない港の倉庫跡だった。
剥がれ落ちたトタン屋根の隙間から、斑な光が埃の舞うコンクリートの床に落ちている。
鼻を突くのは、古いロープの匂いと、生乾きの潮の香りだ。
薄暗い倉庫の奥で、木箱に腰掛けていた大柄な人影が立ち上がった。
「よぉ、ロレンツォ! 相変わらずニコの尻に敷かれてんな!」
ニシシ、と白い歯を見せて笑ったのは、十九歳になったルカだった。
かつてヴェネトの裏路地でスリを働いていた小柄な少年の面影は薄れ、今や分厚い胸板と逞しい腕を持つ、大人の情報屋兼運び屋の顔つきになっている。
「ルカ……」
ロレンツォが目を丸くしていると、ルカはツカツカと歩み寄り、ロレンツォの肩をバンバンと遠慮なく叩いた。
「昔、俺に後ろから木切れで頭引っ叩かれて『気配の消し方』教わってたあの『どんくさいお坊ちゃん』が、よく極上の殺し屋なんて気取れるよな! スーツなんか着崩しちゃってよ!」
「ルカ……! 貴様、今の僕なら一秒でその首を落とせるんだぞ」
ロレンツォは顔にカッと血を上らせ、低い声で威嚇するように睨みつけた。
「うわ、出たよ貴族様の脅し!」
ルカは全く怯えることなく、大袈裟に肩をすくめた。
「でもなー、お前が初めて自分で値切ってクズ野菜のスープ作った時、ニコに褒められたくて尻尾振ってる子犬みたいだったの、俺はしっかり覚えてるぜ!」
「なっ……! し、尻尾など振っていない!」
「ぶっ、あはははっ!」
ロレンツォが耳まで真っ赤にして怒鳴る横で、ニコがこらえきれずに吹き出し、腹を抱えて笑い始めた。
「……違いないね。あの頃のお前は、無駄にプライドが高いだけのポンコツだったよ」
「ニコまで……!」
埃っぽい倉庫の中に、かつてヴェネトの泥水の中で分け合った、対等な悪ガキ同士の泥臭い絆が、鮮やかに蘇っていた。ひとしきり笑い合った後、ロレンツォは少しだけ表情を和らげ、埃まみれの木箱に腰を下ろした。
「……それで、マリアとピエトロは元気か?」
その名前を出した瞬間、ルカの精悍な顔がパッと明るく崩れた。
彼は照れくさそうに、しかし隠しきれない誇らしさを顔いっぱいに浮かべて、鼻の下を指でこする。
「おう! 実はさ……マリアの腹に、俺の子がいるんだ。もうすぐ産まれるんだぜ!」
「……! そうか……!」
ロレンツォの目が大きく見開かれた。
「ステラ・ガルドで君が言った『一生守る』という誓いを、立派に果たしているんだな。本当におめでとう、ルカ」
「へえ、あのクソガキが親父になるのかい」
ニコがタバコに火を点けながら、呆れたように、けれど心底嬉しそうに目を細めた。
「マリアみたいな出来た嫁をもらって、アンタは幸せ者だよ」
「だろ? だからよ、生まれてくる子どものミルク代と、安全な家を買うために、俺も死に物狂いで稼がなきゃなんねえのさ」
ルカは胸を張り、ニカッと笑った。
その太陽のように眩しい笑顔を見つめながら、ニコは紫煙を細く吐き出し、胸の奥でほんの一瞬だけ、甘く残酷な幻を思い描いた。
(……もしも自分が、あんな風に愛する男の子どもをこの身に宿し、彼と穏やかな日向の中で笑い合う未来があったとしたら)
だが、その淡い夢は、自身の服に染み付いた硝煙と、こびりついて離れない血の匂いによって、即座に無惨に打ち砕かれた。
(……馬鹿言え。私みたいな血に塗れた薄汚い身体じゃ、あいつに温かい家庭なんて作ってやれやしない)
ニコは自嘲するように小さく息を吐き、隣でルカの報告を嬉しそうに聞いているロレンツォの、精悍で美しい横顔を盗み見た。
ルカとマリアが泥水の中から掴み取った『真っ当な幸せ』。
光の象徴のようなその尊い命の知らせを聞き、ニコは密かに、そして切実に祈った。
(ロレンツォ。あんたにもいつか、ああやって光の世界で、真っ当な普通の女の子と温かい家庭を築いてほしい。……私の分まで、うんと幸せに生きてほしいんだ)
自分は決してその隣には立てないけれど、彼の輝かしい未来だけは絶対に守り抜く。その母性にも似た祈りが、彼女の胸の奥で静かに、けれど決して揺るがない決意として根を下ろした瞬間だった。
「ピエトロの奴ももう十四歳になってよ、ストリートのガキ共を束ねて俺の情報網を手伝ってくれてる。すっげぇ頼もしくなったぜ」
ルカたちが、法が守ってくれない裏社会の泥水の中で、確かな真っ当な幸せを築いている。その事実に、ロレンツォは深く安堵の息を吐いた。
——だが。
(……ルカの奴、もう親父になるのか。……それに比べて僕は)
ロレンツォは無意識に、隣で紫煙を吐き出すニコの小さな背中へと視線を移した。
十八歳になり、彼女の死角を守る『相棒』としての地位は確立した。
だが、まだ彼女に触れることも、完全に自分のものにすることもできていない。
かつての自分より年下だったルカが、すでに男として愛する女と家族を築いているという事実に、強烈な焦燥感と情けなさが胃の腑をギリリと締め上げた。
ロレンツォは、痛む胃のあたりをローブの上からそっと押さえ、誰にも気づかれないように奥歯を強く噛み締めた。
「……で、ただの自慢話をしにここまで足を運んだわけじゃないだろ」
ニコが短くなったタバコをコンクリートの床で揉み消し、鋭い視線をルカに向けた。
その言葉に、ルカの顔から人の良い父親の笑みがスッと消え、プロの情報屋の冷徹な顔つきへと引き締まった。
「ああ。ミルク代稼ぐためにも、お前らの厄介な仕事、きっちりサポートさせてもらうぜ」
ルカは足元の埃をブーツで払いながら、声を潜めた。
「……だが、今回の掃除は骨が折れる。敵のサルベージ施設の周辺海域は、新興商会の最新鋭艦隊が何重にも『網』を張ってて、海からは絶対に近づけねえ」
「海がダメ、か」
ロレンツォが眉間に深い皺を寄せる。海洋算術を駆使しても、物理的に船が入り込む隙間がないほどの物量で封鎖されているとなれば、突破は不可能に近い。重い沈黙が落ちた倉庫跡で、ルカはニシシと不敵な笑みを浮かべた。
「海がダメなら、空から行くしかねえだろ?」
「空……?」
「おう。お前らの『ミルク代のスポンサー』への恩返しに、俺のツテで最高の『空の運び屋』を紹介してやるよ」
ルカは親指で倉庫の奥の暗がりをしゃくり、面白がるように肩を揺らした。
「……ちょっと、変わり者だけどな」
*
イゾラ外れ。切り立った荒涼たる崖の狭間を、強烈な海風が吹き抜けていた。
ルカの先導で細い岩肌の獣道を下った先、天然の洞窟を利用した隠しポートに、その武骨な双発の飛行艇は停泊していた。
装甲はあちこちがひしゃげ、異なる規格の金属板がツギハギだらけに溶接されている。機首の横には、油まみれのツナギを着て、額にゴーグルを引っ掛けた無精髭の男——空の運び屋、レオンが工具箱に腰掛けてスパナを弄っていた。
「よぉレオン! 厄介な客を連れてきたぜ」
ルカが手を挙げると、レオンは面倒くさそうに顔を上げ、手元のスパナで肩を叩いた。
「……おいおいルカ。イゾラ沖の暗礁地帯にある新興商会の洋上プラントまでひとっ飛び? あそこは今、商会の最新鋭艦隊がウヨウヨしてる空域だぜ? 海賊でも寄り付かねえのに……ん?」
レオンの視線が、誰もが三度見するであろうロレンツォの圧倒的な美貌を完全に素通りし、その後ろに立つ小柄なニコの背中——そこにある、使い込まれた無骨な鉄塊にピタリと釘付けになった。
「おっ!?」
レオンは工具箱から弾かれたように立ち上がり、目を輝かせてニコに歩み寄る。
「姉ちゃんが背負ってるそれ、旧共和国の初期モデルか!? すっげぇ手入れ行き届いてるな!」
「あ……?」
ニコは怪訝そうに眉をひそめたが、すぐに興味深そうに目を細めた。
「お、アンタわかるのかい? こいつは特別製でね、砂を噛んで弾詰まりしないように、私がシリンダーの遊びをコンマ数ミリ削ってあるんだ」
「マジか! 初期型のシリンダーに手ェ入れるなんて、よっぽど腕のいいガンスミスか、イカれた実戦狂しかいねえぞ! ちょっと見せてみろよ!」
自分の「ガサツな武器」を純粋に褒められ、ニコはまんざらでもない様子で背中の機関銃を前に回した。
レオンは身を乗り出し、シリンダーの隙間の匂いを嗅ぐように鼻を鳴らす。
「いやぁ、最高のアンティークだ! ……それに姉ちゃん、すっげぇいい匂いさせてるな」
「……アタシからするのは、機械油と硝煙の臭い匂いだけだよ」
ニコは呆れたように鼻を鳴らしたが、レオンはニカッと白い歯を見せて笑った。
「それがいいんじゃねえか! 俺、香水プンプンさせてる女より、こういう火薬と油の匂いさせてる女の方が、最高にそそるぜ!」
自分の最大のコンプレックス——女らしさの欠片もない血と油の匂いを、下心なくナチュラルに全肯定され、ニコは目を丸くした。
「……あっそ。変わり者だね、アンタ」
ニコは照れ隠しのように顔を微かに赤らめ、ポケットのタバコを探すふりをして視線を逸らす。
レオンが、アメリカンのようなノリで、「よろしくな、相棒!」とニコの華奢な肩をガシッと抱き寄せた。
その瞬間だった。
隠しポートの空気が、急激に氷点下まで冷え込んだ。
「……気安く触るな、空賊崩れ」
低く、絶対的な死を孕んだ声が、海風の音を切り裂いた。
ロレンツォが、氷のような殺気を放ちながら一歩踏み出し、ニコの肩を抱いていたレオンの腕を、万力のような力で掴み上げた。
メリッ、と。骨が嫌な音を立てて軋む。
「痛っ!? 痛ぇぇっ! な、なんだよ兄ちゃん、目がマジだぞ……っ!」
レオンが顔を歪めて悲鳴を上げる。
「その女は、僕の相棒だ」
ロレンツォはレオンの腕を乱暴に振り払い、ニコの腕を掴んで強引に自分の背後へと引き剥がした。
「気安く肩を組むな。それに、彼女の匂いを嗅ぐな。二度と彼女の半径一メートル以内に近づいたら、お前をその飛行艇ごとアルラド海溝の底に沈めるぞ」
「ちょっとロレンツォ! 仕事の交渉相手に喧嘩売ってどうすんだい、このバカ犬!」
背後でニコが怒鳴り、ロレンツォの背中をバンと叩く。
「君も君だ!!」
ロレンツォは血走った目で振り返り、ニコに向かって声を荒げた。
「初対面の男に鼻の下を伸ばして、軽々しく肩なんか抱かれるな!」
「はあ!? アタシはただ銃の話をしてただけで……大体、アタシが誰と肩組もうがアンタには関係ないだろうが!」
「関係ある!! 君の右隣は僕のものだと言っただろう!」
さっきまで酒場でジュリオ相手に冷徹で、極上な大人の男のオーラを放っていた姿はどこへやら。
完全に「キャンキャン吠える過保護な番犬」に戻ってしまったロレンツォを見て、少し離れた場所にいたルカは、「……相変わらず、ニコが絡むと一瞬で余裕なくなるな、こいつ」と呆れたように額を押さえた。
* * *
すったもんだの末、双発の飛行艇はけたたましい轟音を上げて隠しポートの短い滑走路を飛び立った。
機内には、風切り音と、古めかしいエンジンの駆動音が容赦なく響き渡っている。灰色の厚い雲海の上を、武骨な機体がイゾラ沖の洋上プラントを目指して飛んでいく。
操縦席に座るレオンと、そのすぐ横の助手席に陣取ったニコは、先ほどの諍いなどすっかり忘れたように、騒音に負けじと大声で笑い合っていた。
「……だからよ、その時の左エンジンの吸気弁がイカれちまって、俺、レンチ一本で叩いて直したんだぜ!」
「あははっ! アンタ馬鹿じゃないの!」
ニコが腹を抱えて笑う。
「そこのバルブは共和国製の規格なんだから、無理に叩いたら燃料パイプに引火して吹き飛ぶに決まってるだろ!」
「いや、それが奇跡的に噛み合ったんだよ! 姉ちゃんならこのロマン、わかってくれるだろ!?」
泥臭いジャンクの知識と、底辺のストリートで生き抜いてきた「機械オタク」同士の、マニアックで楽しげな会話。
一方のロレンツォは、後部座席の硬いベンチに腕を組んで深く座り込み、これ以上ないほど不機嫌に眉間へ深い皺を刻んでいた。
(……何がロマンだ。バルブの規格が違うなら、圧力係数を計算してバイパスを噛ませればいいだけじゃないか。レンチで叩くなど、野蛮で非効率すぎる……っ!)
由緒正しきバルディ家の当主として、高度な『海洋算術』や流体力学の完璧な計算式を脳内に持っている彼だが、レオンとニコが盛り上がっているような「勘と経験とガムテープで直すような泥臭いジャンク知識」には、どうしても会話に入っていくことができない。
「……で、その時の親父の顔がさぁ!」
「ぎゃはは! 姉ちゃん最高だな! なあ、あんな面倒くさそうなお坊ちゃんのお守りなんかやめて、俺の船に乗らねえか? 腕のいいガンスミスなら大歓迎だぜ!」
「……悪くない提案だね」
ニコが窓の外の雲海を見下ろしながら、ニヤリと笑う。
「最近、胃酸過多のバカ犬の世話で肩が凝っててさ」
楽しそうに冗談を言い合う二人の背中を睨みつけながら、ロレンツォはギリィッ、と奥歯を噛み鳴らした。
自分以外の男と、自分の知らない世界で、あんなに楽しそうに無防備に笑っている。カジノ船でカルメンに「ミルクの匂いが抜けていない」とからかわれた時以上に、強烈な疎外感と嫉妬が彼の腹の底で黒く煮え滾る。
(……やはり、一刻も早くこの厄介な遺産の掃除を終わらせるしかない)
ロレンツォは、分厚く硬い掌で、腰の実戦用短剣の柄をギリッと力強く握りしめた。
(この任務が終わったら、絶対に……力ずくで退路を断って、君のその軽口を塞いでやる。覚悟しろよ、ニコ……)
雲海を抜けた先、眼下の暗黒の海に、結社の艦隊に守られた巨大な洋上プラントの不気味なシルエットが浮かび上がる。
ロレンツォの燃え盛るような嫉妬と執着を乗せ、飛行艇は決戦の地へと急降下を開始した。




