新たな日々2
狂騒のカジノ船のざわめきは、分厚い夜の闇と波音の彼方へととうに消え去っていた。
イゾラ近海へと舳先を向けた中型艇のキャビン。
オート操舵に切り替えられた薄暗い船内には、床板から這い上がってくるディーゼルエンジンの規則的な低い振動と、波が船腹を打つ音だけが単調に響いている。
空間には、息を吸い込むことすら躊躇われるほどの、濃厚で気まずい沈黙がドロドロと淀んでいた。
ジャッ、ジャッ。
キャビンの壁際にあるソファに身を縮こまらせたニコは、オイルライターのフリントを親指で何度も弾いていた。
火花は散る。だが、一向に火が点かない。革ジャケットの袖口から覗く彼女の指先が、微かに、しかし制御不能なほど小刻みに震えているからだ。
さらによく見れば、彼女が口に咥えているタバコは、火を点けるはずの葉の側ではなく、フィルター側が外に向いている「逆向き」だった。
(……っの、クソ。点けよ、早く……っ)
平静を装おうとすればするほど、指先の震えは酷くなる。
ニコの脳内では、先ほどのVIPバーでのやり取りが、耳鳴りのようにガンガンとリフレインし続けていた。
『一度生涯の伴侶と決めた女以外を抱かない』
『もう限界が近い』
カルメンの甘ったるい香水とアルコールの匂いが充満する中、すぐ隣で響いたロレンツォの低く熱を帯びた声が、鼓膜にべったりとこびりついて離れない。
ヴィンセントたちが面白半分に囃し立てていた時、ニコは表面上こそ毒づいてみせたが、テーブルの下ではブーツの爪先が丸まるほど全身を強張らせていたのだ。
(私のすぐ隣で……私をどうやってベッドに組み伏せるかって話を、平然とするんじゃないよ……っ!)
顔から火が出るほどの羞恥心と、内臓が裏返りそうなほどの動揺。ニコはたまらずライターを放り出し、両手で頭を抱え込んで膝に突っ伏した。
二年前。海底要塞『天使の錨』を崩壊させたあの日、彼から奪われた情熱的なキス。ニコはあれを「極限状態の吊り橋効果だ」と無理やり自分に言い聞かせ、逃げ続けてきた。
彼が力ずくで一線を越えてこなかったのは、「最強の相棒」としての関係を壊したくないからだと思い込んでいた。
だが、違った。
彼は極上の女からの誘惑すらすべて冷たく撥ね退け、この二年間、「ニコが自分から心を開くまで待つ」という狂気じみた貴族の矜持と忍耐だけで、限界まで耐え続けていたのだ。
ニコは、傷だらけの自身の二の腕を、服の上からギュッと強く掴んだ。
あいつは二十歳だ。一番血の気があって、望めばどんな女だって思いのままにできる極上の男に仕上がっている。
……なのに、なんで私なんだ。私はもう二十八だぞ。色気もクソもない、ただの血生臭いババアじゃないか……!
彼が自分のために二年間も本能を殺し、苦しんでいたという事実。その重すぎる執着と純情に、ニコは胸の骨が内側から押し潰されそうになるほどのいたたまれなさを感じていた。
一方。
キャビンの中央のテーブルでは、ロレンツォが海図を広げ、冷徹に今後の航路を計算している……ように見えた。
だが、彼の氷のように冷たい瞳は、図面の上の数字など一ミリも追っていない。前髪の隙間から覗く暗く熱を帯びた視線は、ソファの隅で不自然なほど身を縮こまらせているニコの姿を、穴が開くほどじっと観察し続けていた。
(……やっと、僕を「雄」として意識しやがったな)
長すぎる生殺し状態に耐え、彼女の逃げ道を塞いできた彼にとって、今のニコの余裕のなさ、その激しい動揺は、薄暗い征服欲を極限まで甘く満たしてくれるものだった。
ニコは、彼の突き刺さるような視線と沈黙に耐えきれなくなり、気を紛らわせるように、逆向きのタバコを咥えたまま日課である機関銃の手入れを強引に始めた。
専用の油を染み込ませたウエスで、複雑な機構の隙間を拭い上げる。だが、動揺した心では手元がおぼつかない。
「……ふぅ」
ニコは小さく息を吐き出し、膝の上に置いた無骨な旧式機関銃の重みを感じながら、ポツリと独り言をこぼした。
「……最近、こいつがやけに重く感じるようになったね」
アルドが遺したこの時代遅れの鉄の塊。彼が死んでから今日まで、ニコはこの銃を、自分を裏社会に繋ぎ止める絶対的な『錨』として背負い続けてきた。
「何か言ったか、ニコ」
不意に、ロレンツォが海図から顔を上げ、退廃的な熱を帯びた瞳で振り返った。
「……なんでもないよ。このガラクタが、少し重く感じただけだ」
ニコが慌てて誤魔化すようにウエスを動かすと、ロレンツォは静かに立ち上がり、彼女の元へ歩み寄ってきた。
「なら、買い替えるか。最新式の軽量モデルなら、いくらでもヴィンセントのルートで手配させるが」
「バカ言うな。アタシの手には、この旧式の重さが一番馴染んでるんだ。最新のオモチャなんかに、自分の背中を預けられるかい」
ニコはいつものように憎まれ口を叩き、機関銃を抱え込むようにして顔を背けた。
ロレンツォはそれ以上踏み込まず、「……そうか」とだけ短く応じた。
そして、彼女の頭を分厚い大きな手で無造作に撫でてから、再びテーブルへと戻っていった。
撫でられた短い髪の隙間から、大人の男の不器用な優しさと体温がじわりと染み込んでくる。
(……アタシは、いつまでこいつ(機関銃)を背負い続けるつもりなんだろうね)
ニコは、自分の掌にある冷たい鉄の感触と、頭に残る温かい男の掌の感触を比べた。自分が過去の十字架にすがらなくても、もう、彼は一人で立派に戦える。それどころか、私という重荷ごと抱え込もうとするほどの強さと熱を持っているのだ。
『……もう、この重い錨を手放してもいいのかもしれない』
そんな無防備な予感が、ニコの心の奥底で芽生え始めていた。
——だが。
過去への執着を手放す覚悟と同時に、彼を「雄」として意識する熱が、いよいよニコの許容量を超えようとしていた。
頭を撫でられた余韻が、耳の裏をカッと熱くさせる。これ以上、この密室で彼と二人きりでいれば、本当に心臓が破裂してしまう。
「……ア、アタシは甲板の風に当たってくる。見張りを代わるよ」
耐えきれなくなったニコが、弾かれたように立ち上がった。逃げるようにキャビンのドアへ向かおうとした、その瞬間。
ロレンツォが、一切の衣擦れの音すら立てずにスッと立ち上がった。そして、流れるようなストリートの足運びで、狭い通路を行くニコの真正面へと立ち塞がる。
「外は冷える。見張りは僕がやるから、君は休んでいろ」
「い、いいよ! アタシが行く!」
ニコは目を逸らしたまま、無理やり彼の脇をすり抜けようと肩をねじ込んだ。
ドン、と。
重い音が、ニコの耳元で鳴った。ロレンツォの分厚い掌が、ニコの顔のすぐ横の壁を叩き、彼女の退路を完全に物理的に遮断したのだ。
「あ……」
ニコの足が、床に縫い付けられたように止まる。
かつて自分が見下ろしていたはずの少年。それが今や、自分の頭頂部が彼の分厚い胸板にしか届かない。彼が覆い被さるように壁に手をついたことで、ニコの視界は彼の上質な黒スーツの胸元で完全に塞がれ、天井のランプの光が遮られて濃い影が落ちた。
逃げ場のない腕の中。
強い火薬と上質なオーデコロンの香り。そして何より、布越しに伝わってくる、むせ返るような「男の体温」が、ニコの鼻腔と理性を容赦なく蹂躙し始める。
「……ニコ。タバコ、逆だぞ」
頭上から降ってきた低い声に、ニコの肩がビクッと跳ねた。
「え……っ?」
ロレンツォの長い指が伸び、ニコが先ほどからずっと口に咥えたままだったタバコを、そっと抜き取った。
火を点けるはずの葉の側が、ニコの唾液で濡れ、歯型がつくほど無惨に噛み潰されている。自分がどれほどパニックに陥り、間抜けな行動をとっていたかを突きつけられ、ニコの顔が一気に沸騰するように赤く染まった。
「そんなに動揺して、どうしたんだ?」
タバコを指に挟んだまま、ロレンツォが顔を近づけてくる。退廃的な熱を帯びた瞳が、逃げ惑うニコの漆黒の瞳を真っ向から射抜いた。
「……昼間は『錯覚だ』『すぐに目が覚める』と、あんなに余裕ぶっていたじゃないか」
「っ……!!」
耳の裏まで真っ赤に染め、息を詰まらせて完全にフリーズするニコ。
その光景をたっぷりと、鼓動の数だけ味わい尽くした後。ロレンツォは彼女の耳元に唇を寄せ、決定的な一言を低く落とした。
「……言っただろう。僕がいつまでも、聞き分けのいい相棒でいられると思うなよ」
ビクン、とニコの背筋に微弱な電流が走り、膝の力が抜けそうになる。
ロレンツォは彼女からゆっくりと身体を離すと、手元から奪ったタバコを自身の口に咥え直した。
「……甲板は冷えるから、毛布を被っていろ」
わざとらしく、大人の余裕を見せつけるような静かな口調で言い残し、彼はそのままキャビンのドアを開けて夜の海へと出て行った。
バタン、とドアが閉まる音が響く。
密室に残されたニコは、もはや立っていることすらできず、その場にズルズルとへたり込んだ。
床に座り込んだまま、火が出るほど熱くなった顔を両手で深く覆い隠す。
「……バカ、あのヒヨッ子……っ、心臓が持たない……っ!」
波の音とエンジンの振動に混じって、誰にも聞かれることのない彼女の悶絶するようなどよめきが、薄暗いキャビンの中に虚しく、そして果てしなく甘く溶けていった。
* * *
翌朝。
カジノ船での狂騒から一夜明け、中型艇はイゾラ近海へと差し掛かっていた。
薄暗いキャビンには、波が船体を打つ低い音だけが響いている。昨夜の「壁ドン」の余韻——濃厚な男の体温と、耳元で囁かれた危険な言葉が、未だにニコの頭の芯をショートさせたままだった。
ニコは壁際のソファに座り、すでに手入れなど必要ないはずの機関銃を磨くふりをしながら、視線だけを宙に泳がせていた。
普段なら、ロレンツォの目など気にも留めず、無頓着にシャツを脱ぎ捨ててキャミソール姿になる彼女が。今朝に限っては、わざわざ狭くて油臭いエンジンルームの影に隠れて、コソコソと着替えを済ませる始末だった。
(……くそっ、なんだってアタシが、初恋の小娘みたいにコソコソしなきゃならないんだよ……っ!)
心の中で毒づくが、指先が微かに震え、ウエスが何度も手から滑り落ちそうになる。
視界の端に、海図を広げて座るロレンツォの姿が映るだけで、昨夜の彼の胸板の硬さや、火薬とオーデコロンの混じった匂いがフラッシュバックし、耳の裏がカッと熱くなるのだ。
そんなニコの挙動不審な様子を、ロレンツォは海図に視線を落としたまま、暗く熱を帯びた瞳でじっと観察していた。
四年間、彼女の無自覚な隙に理性を削られ続けてきた彼にとって、今の彼女のパニックは、胸の奥底で燻る薄暗い征服欲を極限まで満たしてくれるものだった。
「……ニコ」
「ひゃんっ!?」
背後から唐突に声が降ってきて、ニコは変な声を上げて飛び退いた。
いつの間にか、ロレンツォが音もなく彼女の後ろに立ち、覗き込むように身を乗り出していたのだ。
「海図の確認をしたいんだが。イゾラの裏港の潮目は、これで合っているか?」
ロレンツォはわざと顔を近づけ、退廃的な低い声で耳元に囁く。
鼻先を掠める、大人の男の匂い。ニコは顔を真っ赤にして首をすくめ、機関銃を盾にするように抱え込んだ。
「あ、合ってる! 完璧だ! ……だ、だから、そんなに顔を近づけるな、ヒヨッ子!」
「ヒヨッ子、ね」
ロレンツォはフッと、意地悪に口角を上げた。
完全に自分をからかって遊んでいる。その絶対的な余裕と「雄」としての視線に、ニコは奥歯を噛み締めながらも、顔の熱をどうしても引かせることができなかった。
* * *
イゾラの街は、四年前と変わらず、暴力的なまでの陽射しと白い石畳の照り返しに満ちていた。
バザールから漂うスパイスと焼き魚の匂い。飛び交う水夫たちの怒声。
二人は追手の目を欺くため、目深にフードを被り、一般客を装って喧騒の中を歩いていた。
ドンッ、と。
すれ違った大柄な商人に肩をぶつけられ、ニコの身体が小さくよろけた。
その瞬間。
「……はぐれるぞ」
ロレンツォの大きな手が伸び、ニコの小さな手を、極めて自然な動作でギュッと握りしめた。
「あ……っ」
ニコの息が止まる。
四年前、海賊の闇市場では、パニックになる彼を引っ張るために、ニコが彼のフードを乱暴に掴んでいた。だが今は違う。
完全に逆転した体格差。剣ダコに覆われた、分厚く硬い男の掌が、彼女の華奢な指先を完全に包み込み、迷いのない足取りで群衆を掻き分けていく。
(……っ、なんだよ、これ)
振り払わなければ。私はただの護衛だ。
そう頭ではわかっているのに、彼の手から伝わる強烈な安心感と熱が、ニコの指先を麻痺させていた。彼女は顔を真っ赤にしてフードの奥で俯き、ただ黙って、彼に引かれるまま歩幅を合わせることしかできなかった。
* * *
雑踏を抜け、裏通りに入ったところで、不意にニコの足がピタリと止まった。
繋がれた手が引っ張られ、ロレンツォが振り返る。
そこは、ひんやりとした静寂を湛えた、古い酒場の前だった。
換気扇から微かに漏れ出てくる、オーク材と柑橘の香り。
「……ニコ?」
ニコは無言のまま、店の古びたドアノブを見つめていた。
彼女の脳裏に、四年前にこの場所でジュリオに突き放された記憶が、鮮烈に蘇っていたのだ。
『私は裏社会の泥水がお似合いなんだ。放っておいてくれ』
強がりを吐いて店を飛び出し、鉄屑の街で、心の支えだった『黄色いレモン』を海へ投げ捨てた日。
自分はもう、この清潔な日向の場所には二度と戻れない。あの時の絶望と痛切な自己嫌悪が、再び彼女の足に重い鎖を巻きつけた。
ニコの指先が、微かに震える。
その怯えに気づき、ロレンツォは繋いでいた彼女の手を、もう一段強くギュッと握り直した。
「……大丈夫だ」
低く、落ち着いた声が、ニコの鼓膜を静かに打つ。
「君の右の死角は、僕が塞ぐと言っただろう」
ロレンツォは彼女と向き直り、フードの奥の漆黒の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「今の君はもう、過去の幽霊に怯えるだけの存在じゃない。……僕の、最高の相棒だ」
その絶対的な肯定の言葉。
ロレンツォの手から伝わる体温が、彼女を縛り付けていた過去の呪縛を、少しずつ溶かしていく。
ニコはゆっくりと息を吸い込み、柑橘の香りを肺の奥まで満たした。
そして、震えを奥歯で噛み殺し、力強く頷く。
「……行くよ。情報屋に、高いツケを払わせなきゃならないからね」
ニコはロレンツォの手を握り返し、自らの意思で、その重いドアを押し開けた。
カラン、と。
四年前と同じドアベルの音が、静かな酒場に響き渡った。
カラン、と。
四年前と同じドアベルの音が、ひんやりとした静寂を湛えた酒場に響き渡った。
外の暴力的な陽射しとは無縁の、磨き上げられたオーク材と、爽やかな柑橘の香りが漂う空間。
カウンターの奥でグラスを磨いていたジュリオの手が、ピタリと止まる。
ランプの仄暗い灯りに照らされた彼の静かな黒い瞳が、店に足を踏み入れた二人を捉えた。
ジュリオは、即座に悟った。
目深に被ったフードを外したニコの纏う空気が、四年前とは劇的に変化していることに。
かつて彼女を苛んでいた、痛切な自己犠牲の棘や、むせ返るような血の匂いに起因する危うさは、影を潜めている。代わりにそこにあるのは、隣に立つ男への絶対的な信頼と、その視線を避けるように微かに泳ぐ視線——隠しきれない「女としての熱」と照れだった 。ジュリオは、布でグラスを拭きながら、胸の奥で深く、長く安堵の息を吐き出した。
(……ああ。彼女は本当に、私が手放した過去から解き放たれて、自分の居場所を見つけたのだな)
愛する妹分を裏社会の泥水から遠ざけるため、あえて冷たい言葉で突き放した四年前の決断。
自分が彼女に与えた深い傷が、ようやく癒える時が来たのだと、ジュリオは静かに目を伏せた。ニコの半歩後ろを歩いていたロレンツォは、極めて自然で、洗練された大人のエスコートで彼女をカウンターの席へと促した。
彼女の背中や腕に無防備に触れるのではなく、腰にそっと手を添え、優しく、しかし確かな力で自分の方へと引き寄せるように座らせる。
それはジュリオに対して、「彼女は僕の相棒であり、僕の女だ」という無言の、しかし強烈なマウントの主張だった。
四年前は、自身の巨大な装飾剣すら抜けず、ニコの背中に隠れてキャンキャンと吠えていた温室育ちの少年。それが今や、彼女を庇護する立場として、圧倒的な体格と男の気迫を纏って並び立っている。ジュリオもまた、彼がニコの隣に立つにふさわしい「男」になったことを、無言のうちに認めていた 。ジュリオは二人の前に、無言で極上の酒を差し出した。
ニコには、彼女の好む強い蒸留酒を。そしてロレンツォにも、十四歳の頃には勧めることのなかった、琥珀色の大人の酒を。
「……情報提供の代金だ。遠慮なく受け取ってくれ」 かつて「私は泥水がお似合いだ」と、この店で酒を飲むことすら拒絶していたニコだったが 、今回はロレンツォと隣り合って座り、無言でグラスを受け取った。情報屋としてイゾラの最新の潮目や結社の動向を語り合う合間、ジュリオは手元のグラスを磨きながら、わざと意地悪な質問を投げかけた。
「……それにしても、随分と甘やかされているようだな、ニコ」
ジュリオの静かな声が、グラスの氷の音に混じる。
「この若い当主殿は、君を大事にしすぎるあまり、まだ君の寝込みを襲うような野蛮な真似はしていないようだが?」
「ぶふっ!?」 ニコが、口に含んだ強い酒を派手に吹き出した。
昨夜の船内での悶々としたやり取りがピークに達していた彼女の理性に、その言葉はあまりにもクリティカルに突き刺さった。
「な、なんでアンタがそんなこと……っ! 違う、こいつはただの奥手なヒヨッ子で、アタシみたいなババアには手が出せないだけで……!」
顔を火のように赤くして、必死に誤魔化そうと早口で捲し立てるニコ。
その言葉を、ロレンツォが冷たく、しかし自信に満ちた声で遮った。
「……ジュリオ殿」
ロレンツォの退廃的な熱を帯びた瞳が、ジュリオを真っ向から射抜く。
「僕の理性を試すような発言は控えていただきたい。……僕が彼女に手を出していないのは、彼女が『過去の幻影』への言い訳を完全に捨てるのを、待ってやっているだけだ」
ニコが息を呑み、硬直する。
「あんたが彼女に刻んだ傷の深さを思えば、二年のおあずけなど安いものさ」
あえて「過去の幻影」とジュリオの目の前で言い放つことで、彼に対する明確な嫉妬と、それを乗り越えて彼女を完全に自分のものにするという、宣戦布告にも等しい覚悟を突きつけたのだ。
バチバチと火花を散らす、二人の大人の男。
ニコは板挟みになり、完全に顔から火が出そうになってうつむくことしかできなかった。
「……ちょっと、表の空気、吸ってくる」
いたたまれなくなったニコが、逃げるようにして席を立ち、店の奥の化粧室へと向かった 。ニコが姿を消し、静寂が戻ったカウンター。
ロレンツォはグラスに残った琥珀色の液体を静かに見つめ、口を開いた。
「……四年前、あえて悪者を演じて彼女を突き放してくれたこと、感謝している」
低く落ち着いた声が、静かな店内に落ちる。
「あんたのあの残酷な決断がなければ、彼女は永遠に過去の幻影に囚われたままだった」
ジュリオはグラスを磨く手を止めず、伏せ目がちに答えた。
「……買い被りすぎだ。私はただ、自分の平穏な日常を守りたかっただけだよ」
「……そういうことにしておこう」
ロレンツォは少しだけ口角を上げると、グラスの酒を一息に飲み干した。
そして、氷のように冷たく、独占欲に満ちた瞳で、真っ直ぐにジュリオを見据える。
「だが……」
その声には、頭ではジュリオの真意を理解し感謝していても、本能と感情では決して抑えきれない「若くて独占欲の強い雄」としての剥き出しの嫉妬が漏れ出ていた。
「彼女の心に一番長く居座り、一番深く傷をつけた男として……あんたへの嫉妬は、僕が死ぬまで消えないだろうね」
ロレンツォの大きな手が、カウンターの縁をギリッと音を立てて握りしめる。
「これ以上、彼女の心に1ミリでも踏み込もうとするなら、あんたの店ごと海に沈める」
ジュリオは、その強烈な殺気と焦燥感を受け止め、クスリと静かに笑った。
「……手強い番犬だ。だが、そこまで吠えるなら、早くその首輪を外して自分のものにすることだな」
ジュリオの静かな黒い瞳が、的確にロレンツォの痛いところを突く。
「……彼女は、君が思っているほど、もう過去に縛られてはいないと思うがね」
「……っ」
自分がまだニコと肉体関係を結べていないという最大の焦燥感を突かれ、ロレンツォは奥歯を強く噛み締めた 。そこへ、顔の火照りを冷ましたニコが戻ってくる。
ロレンツォは立ち上がると、少し不機嫌そうに、けれど強烈な熱を帯びた目で無言のまま彼女の腕を掴み、自分の側へとグイッと引き寄せた。
「あ、おい……っ」
戸惑うニコの手を引き、彼はジュリオに背を向けた。
「行くぞ。必要な情報はすべて得た」
二人が店を出る間際。
「……ニコ」
ジュリオがカウンター越しに、小さな麻袋を放り投げた。ニコが片手でそれを受け取る。
中に入っていたのは、新鮮で、目が覚めるほど良い香りのする『黄色いレモン』だった。
柑橘の、爽やかな香り。
「……昔、君が落としていったものの代わりだ」
ジュリオの静かな声が、背中に届く。
「今の君なら、もうそれを『お守り』にする必要はないだろうが……蜂蜜漬けにでもして、その若い番犬に食べさせてやるといい。随分と胃を痛めているようだからな」
四年前、絶望と共に鉄屑の街で踏み砕いたレモン。
叶わぬ恋と、過去への執着の象徴だったそれが、今、ジュリオからの「完全な祝福」として返されたのだ。
ニコは、手の中の黄色い果実を見つめ、少しだけ泣きそうな顔をして、微笑んだ。
「……ありがとう、ジュリオ」
彼女は振り返り、今度こそ本当に過去への未練を断ち切った、清々しい笑顔を見せた。
そして、繋がれたロレンツォの手を握り返し、自分から彼を引くようにして、日向の酒場を後にした。




