新たな日々1
鼻を突くのは、焼き付いた機械油と、海風に混じる生々しい血の匂い。
イゾラ近海を航行していた新興商会の密輸船の甲板は、わずか数分のうちに、沈黙する死体の山へと変わっていた。
「……右弦後方。コンマ五秒遅い」
冷ややかな声と共に、黒スーツを着崩した長身の青年が、甲板の影から滑るように姿を現す。
彼が逆手に構えた実戦用短剣の切っ先から、血の雫がポタリと錆びた鉄板に落ちた。流れるようなストリートの足運びと、一切の無駄を削ぎ落とした最短距離の殺意。
バルディ家に伝わる狂気の演算技術『海洋算術』を対人戦闘にまで昇華させた、弱冠二十歳の極上の殺し屋——ロレンツォだ。
「チッ、うるさいねぇ。風向きが変わって、一瞬視界がブレただけだ」
ロレンツォの指摘に悪態をつきながら、マストの影から小柄な女が姿を現す。
使い古された革ジャケットと、無骨な旧式機関銃。ニコは咥えていたタバコをブーツで踏み消すと、倒れた敵兵の懐から無造作に帳簿と路銀の入った革袋を引き抜いた。
「これだけの大立ち回りをやって、収穫はこれっぽっちかい。……最近の新興商会は、裏の私兵にまでケチな賃金しか払ってないらしいね」
「機械に頼り切った、魂のない連中だからな。……怪我はないか、ニコ」
ロレンツォは短剣の血を払い、鞘に収めながら彼女の横顔を盗み見た。
『天使の錨』を崩壊させ、あの痛烈で泥臭いキスを交わしてから、早くも二年が経過していた。
18歳だったロレンツォは20歳になり、骨格はさらに分厚く、精悍さを増している。裏社会で彼らの名を知らぬ者はもはやおらず、二人で組んだ「相棒としての連携」は、誰も手がつけられない完璧な領域に達していた。
戦闘での阿吽の呼吸。互いの死角を完全にカバーし合う絶対的な信頼。
……そう、そこまでは完璧なのだ。そこまでは。
* * *
血生臭い密輸船から自分たちの中型艇へと戻り、オート操舵に切り替えたキャビンでのことだ。
ディーゼルエンジンの低い振動が響く中、ニコは「あー、汗かいた」と首の骨をポキリと鳴らすなり、二十歳の大人の男の目の前で、何のためらいもなく革ジャケットとシャツを脱ぎ捨てようとした。
「……ッ!!」
ロレンツォの額に、ピキリと青筋が浮かんだ。
彼は凄まじい反射速度でベッドの上の毛布を掴み取ると、シャツに手をかけたニコの背後からバサリと被せ、そのまま蓑虫のようにぐるぐる巻きにして拘束した。
「な、何すんだよ! 暑いだろうが、このバカ犬!」
「僕が、いつまでも理性を保っていられると思うなよ……っ。少しは警戒心というものを身につけろ!」
「はあ? 何言ってんだい。お前みたいに自分の背丈ほどもある剣を引きずって泣いてたヒヨッ子の前で、今更恥じらうような肌なんてこれっぽっちもないよ」
毛布から顔だけを出したニコが、心底呆れたように鼻を鳴らした。
「それに、まだあの『刷り込み』の錯覚を引きずってんのかい。いい加減、目を覚ましな」
「……錯覚じゃないと言っているだろうが」
「あのねぇ。十四歳の時、すべてを失って極限の恐怖の中にいたお坊ちゃんが、たまたま一番近くにいた私の火薬と油の匂いにすがりついて命を繋いだってだけだろ。あれは卵からかえった雛鳥が、最初に見たものを親だと思い込む『刷り込み』と同じだ。……お前が勘違いしてるだけさ」
出た。ニコの伝家の宝刀、『刷り込み説』だ。
彼女は、あの日交わした熱烈なキスすらも「極限状態の吊り橋効果」と「14歳の時に命を救ったことによる刷り込み」だと結論づけ、二年経った今でも「ただの相棒」という鉄壁のシールドに逃げ込み続けているのだ。
「いつか真っ当な世界で、教養のある美しい貴族の娘と出会えば、必ず目が覚めるはずだ。私みたいな、女らしさの欠片もない血生臭いババアが、お前の未来を縛っちゃいけない」というのが、彼女の変わらぬ言い分だった。
(……ふざけるな)
ロレンツォは、ぐるぐる巻きのニコをソファに押し込んだまま、深く、重い息を吐き出して胃の辺りを押さえた。
この二年間、彼の私生活は、まさに『終わりの見えない理性の耐久テスト』と化していた。
由緒正しきバルディ家は、金で特権を買う新興の成金商会とは違う。歴史と教養を重んじ、弱きを守り、そして何より「一度誓った伴侶を、生涯ただ一人愛し抜く」という気高くも古臭い美学が、骨の髄まで染み込んでいる。
(……だが、笑える話だ。この六年間で、僕の手は血と泥に完全に染まった。敵の喉笛を躊躇なく掻き切り、効率よく命を奪う術を身につけたというのに。僕の恋愛観だけは、温室にいた頃の『気高き貴族のお坊ちゃん』から一歩も成長していないのだから)
他の女で欲を解消するなど、バルディの男の誇りが許さない。カルメンのような大人の女からどれだけ誘惑されようと、彼がこの手で抱きしめ、生涯を懸けて守り抜くと決めたのは、目の前で色気もなく機械油の匂いをさせている、この不器用で野蛮な女だけなのだ。
「……ニコ。僕がこの二年間、どれだけ狂いそうな頭を冷やしてきたと思ってるんだ」
ロレンツォは、ソファに押し倒したニコの顔のすぐ横に手をつき、退廃的な熱を帯びた瞳で彼女を至近距離から見下ろした。
「ひっ……」
大人の『雄』の気迫と、逃げ場を塞ぐような広い肩幅。
ニコは毛布の中でビクッと肩を跳ねさせ、顔を真っ赤にして視線を泳がせた。彼女の心臓が、微かに、しかし確かに早鐘を打っているのが、至近距離にいるロレンツォには痛いほど伝わってくる。
(……なんだ、意識してるんじゃないか)
彼女のその「女」としての無防備な反応を見るたび、ロレンツォの腹の底で、ドロドロとした暗い炎が燃え上がる。
力ずくで組み伏せ、その強がりな口を塞いで、自分以外の男——過去の幻影すら思い出す隙を与えないほど、徹底的にわからせてやりたい。
だが、彼は奥歯が砕けるほど強く噛み締め、ギリギリのところでその衝動をねじ伏せた。
無理やり関係を持ったところで、彼女の自己卑下と「刷り込み説」のシールドを完全に破壊できなければ、彼女は永遠に自分の隣を『特等席』だと認めることはないからだ。
「……今日は、風が冷たい。湯を沸かしてくる」
ロレンツォは深々とため息をつき、ニコからパッと身を離すと、キャビンの奥へと歩き出した。
残されたニコは、毛布の中で真っ赤になった顔を隠し、「……っの、バカ犬が」と、誰にも聞こえない声で小さく悪態をついた。
二年の月日が流れても、二人の『泥臭い純情』のすれ違いは、まだ当分終わりそうにない。
*
むせ返るような紫煙と、アルコール度数の高い蒸留酒が放つ刺すような匂い。
海に浮かぶ不夜城、豪華カジノ船の最奥に隠されたVIP専用バーは、重厚なベルベットのカーテンに外の狂騒を遮断され、底なし沼のような退廃的な熱気を孕んでいた。
フロアの暗がりから、幾つもの視線が一箇所に縫い付けられている。
カウンターの定位置。上質な黒スーツを着崩した青年の姿に、居合わせた裏社会の住人たちは、男女を問わず息を潜めて魅入っていた。
二十歳を迎えたロレンツォの輪郭からは、かつての温室育ちの少年のあどけなさは完全に削ぎ落とされている。伏せられた長い睫毛の奥には、幾つもの死線を越えてきた者特有の氷のように冷たい凄みが沈み、グラスを傾ける分厚い手には、無数の剣ダコが刻まれていた。
だが、完成された大人の色気を撒き散らす彼自身は、隣に座る小柄な女の横顔から、ただの一度も視線を外そうとはしなかった。
「……本当に、とびきりいい男になったわねぇ、ロレンツォ」
濃厚な薔薇と麝香の香りが、火薬と機械油の匂いを強引に上書きするように割り込んできた。
真紅のドレスを纏ったカルメンが、しなやかな足取りで二人の間に滑り込む。彼女は扇を閉じ、ロレンツォの引き締まった顎のラインをうっとりと見つめた。
「でも……その余裕のない尖った目つき。あなた、まだあの『おあずけ』を食らってるの?」
濃厚な薔薇と麝香の香りが、火薬と機械油の匂いを強引に上書きするように割り込んできた。
相も変わらず真紅のドレスを纏ったカルメンが、しなやかな足取りで二人の間に滑り込み、閉じた扇の先でロレンツォの広い肩をツンと小突く。
「あなた、二年経ってもまだニコに『おあずけ』を食らってるのね」
ロレンツォはピクリとも表情を変えず、うるさい、とばかりに不機嫌に眉間へ深い皺を寄せ、ただ無言を貫いた。
しかし、カルメンは妖艶な唇をほころばせ、肩を震わせてクスリと笑った。
「ふふっ、本当に笑っちゃうわ。二年前は私の腰を強引に抱き寄せて、『僕が違う遊びを教えてあげようか?』なんて妖艶に囁いて、この私を赤面させたっていうのに」
ピクッ、と。
隣の席でタバコを咥えようとしていたニコの指先が、不自然に止まった。
彼女の漆黒の瞳が、横目でジロリとロレンツォの横顔を睨みつける。
「あれ、私に昔子ども扱いされた仕返しをするために、必死で大人の男の猫被ってたのね? 実は経験もないくせに、よくやるわ」
カルメンの情赦ない暴露に、バーの空気が微かに揺れた。
「……他の女の前じゃ完璧な極上の男を演じられるのに、本命のニコの前だと、途端に余裕のないお子様に戻っちゃうんだから。本当に可愛いわねぇ」
「……カルメン、黙れ」
痛いところ——経験ゼロのハッタリだったこと、そしてニコの前では余裕がないこと——を連続で抉られ、ロレンツォは耳の裏を朱に染めながら、獣のように低く唸った。
一方、隣に座るニコの胸の奥では、得体の知れない黒い炭酸の泡が弾けていた。
(……あのヒヨッ子が、他の女の腰を抱き寄せて、そんな口説き文句を吐いたっていうのか)
不快なざわつき。だが、彼女に染み付いた強烈な自己卑下の鎧が、即座にその名前のつけられない感情を力ずくでねじ伏せ、分厚い鉄の蓋をしてしまう。
カラン、と。
ニコはグラスの氷を乱暴に鳴らし、忌々しげにタバコに火を点けた。
「……ほら見な。やっぱりこいつのは、十四歳の時に命を拾われた『刷り込み』の錯覚を引きずってるだけだ」
紫煙を斜め上へ吐き出しながら、ニコはひどく投げやりに吐き捨てた。
「他の女を口説く余裕があるなら、さっさとアンタみたいな極上の女の味を知りな。そうすりゃ、私みたいな機械油臭いババアの匂いなんて、すぐに目が覚めるさ」
それを聞いた瞬間。
ロレンツォの周囲の空気が、急激に氷点下まで冷え込んだ。
彼は胸元を這っていたカルメンの手首を無言で掴み、冷たく、しかし強引に払い落とす。
「……僕の感情を、勝手にただの錯覚だと片付けるな、ニコ」
ドンッ、と。ロレンツォが琥珀色のグラスを大理石のカウンターに叩きつけるように置いた。
低い振動が、ニコの肘を通して伝わる。
「……なんだい。図星を突かれて怒ったのか」
「バルディの男は、一度生涯の伴侶と決めた女以外を抱くような、下劣な真似はしない」
ロレンツォの低い声が、バーの静寂を直接震わせた。彼はカルメンを一瞥だにせず、真っ直ぐにニコの逃げ道を塞ぐように身体の向きを変える。
「……カルメン、あんたの香水は相変わらず甘すぎて胸焼けがする。僕を繋ぎ止めるのは、この野蛮な女の火薬の匂いだけだ」
その身も蓋もない宣言に、カルメンは一瞬目を丸くした後、肩を震わせてクスクスと笑い出した。
「……まあ。一途で古臭い貴族様。最高の褒め言葉として受け取っておくわ」
カルメンの後ろで、白スーツを着たヴィンセントが、呆れたようにシガーの煙を長く吐き出した。
「立派なご立派な純愛だ。だがね、ロレンツォ。相手がそうやって『相棒』の盾に隠れて逃げ続けてるなら、お前のその腕力で、強引にベッドにねじ伏せちまえばいいじゃないか。飼い殺しで胃を痛めるのはご免だろ?」
ヴィンセントの悪びれない言葉に、ニコの肩がビクッと大きく跳ねた。
彼女はタバコを持つ手をピタリと止め、横目でロレンツォの分厚い胸板と広い肩幅を警戒するように窺う。
「……力ずくで手に入れるだけなら、二年前の夜にとっくにやっている」
ロレンツォは、警戒して身を強張らせるニコへさらに一歩顔を近づけ、退廃的な色気を帯びた低い声で、耳元へ直接落とし込んだ。
「……僕が待っているのは、彼女が心から過去の幻影を捨てて、僕を対等な男として選ぶことだ。だが……」
ロレンツォの大きな掌が、ニコの背もたれを囲うように置かれる。完全に逃げ場を失ったニコの鼻腔を、彼の大人の体温が容赦なく満たした。
「……僕がいつまでも、お前の前で『聞き分けのいい相棒』でいられると思うなよ」
「ば、バカ言ってんじゃないよ、ヒヨッ子が……っ!」
完全にロレンツォの雄の気迫に押され、冷徹な掃除屋の仮面を剥ぎ取られてタジタジになるニコ。
その様子を見て、背後のカルメンの隣に立っていたヴィンセントが、呆れたようにシガーの煙を長く吐き出した。
「……おいおい。童貞のくせにハッタリかましてた若造に、真っ赤になって押し負けてるあの凄腕の掃除屋……見てるこっちが恥ずかしくなるぜ」
「本当ね。二人ともポンコツすぎて愛おしいわ」
カルメンがクスクスと笑いながら同調する。
ヴィンセントは首を振り、シガーの灰を落とすと、声のトーンを一段低く沈めた。
完全にロレンツォの雄の気迫に押され、冷徹な掃除屋の仮面を剥ぎ取られてタジタジになるニコを見て、ヴィンセントが面白そうに喉を鳴らして笑った。
「熱いねぇ。だが、その焦れったいごっこ遊びに決着をつける前に、片付けてもらいたい『掃除』がある。……イゾラ近海が、またきな臭くなってるぜ」
ヴィンセントの言葉のトーンが、一段低く沈む。
その瞬間、ロレンツォの瞳から甘く危険な熱がスッと消え失せた。
「……結社の残党か」
「ご名答。『天使の錨』は沈んだが、新興商会が結社の残党を吸収して、海底から親父さんが遺した『海洋算術』の別のデータ――局地兵器の設計図をサルベージしたらしい。親父さんの負の遺産、まだ掃除しきれてないみたいだぜ」
「……イゾラ近海で親父さんの遺産をサルベージしてるのは、ただの残党じゃない。最近、新興商会を一つにまとめ上げた『若き天才』がいるんだ。金と最新兵器で世界を牛耳ろうとしてる、お前と同世代の男さ」
「それに、旧貴族の生き残りどもも焦っててね。新興商会に対抗する神輿として、本物の血筋である『バルディ家の当主』を血眼で探してる。……由緒正しい美しいお姫様をエサにしてでも、お前を光の世界に連れ戻したいらしいぜ」
父の遺産。 新興商会。
その言葉が落ちた途端、ロレンツォの顔は、氷のように冷徹なバルディの『当主』のそれへと完全に切り替わった。
隣のニコもまた、赤みを持っていた頬を即座に引き締め、背中の機関銃の重みを確かめるようにスリングを握り直す。
「……チッ。どいつもこいつも、死人の遺産に群がるハイエナ共め。……行くよ、鑑定士様。弾薬の補充が必要だ」
「ああ」
ロレンツォは短く応じ、席を立った。
重いベルベットの扉へ向かう廊下。足音を吸い込む絨毯の上を歩きながら、ロレンツォは前を歩くニコの細い腕を、不意に強く掴み、己の胸元へと強引に引き寄せた。
「なんだい、痛いな……」
「……ニコ」
ロレンツォは彼女の抗議を意に介さず、有無を言わさぬ真っ直ぐな瞳で彼女を見下ろした。
「この件が終わって、父上の遺産を完全に終わらせたら……もう『相棒』って言葉で逃げるのは許さないからな。いい加減、覚悟を決めろ」
その圧倒的な気迫に、ニコは今度ばかりは視線を逸らしてはぐらかすことができなかった。
彼女は奥歯を噛み締め、腰のすり減ったナイフの柄をギュッと強く握りしめる。そして、ほんのりと赤みを残した顔で、不敵な弧を唇に描いて見せた。
「……せいぜい、私が背中を預けられるだけの男だってことを、証明してみせな」
二人の影が、重い扉の向こうの狂騒へと消えていく。
カウンターに残されたヴィンセントは、シガーの灰を落とし、隣のカルメンと視線を交わした。
「……あれで手を出してないなんて、本当に狂ってるわね」
「最高の見世物だ。さて、どっちが先に理性の糸が切れるか、賭けといくか?」
琥珀色のグラスが、カランと静かな音を立てて合わさった。




