真実8
イゾラ近海。暗く冷たい波がうねる海面下。
特殊な潜水服のゴムの匂いと、レギュレーターから吐き出される泡の低い音が、海中の重い静寂に溶けていく。
ロレンツォとニコは、海底の岩肌にへばりつくようにして、眼下の光景を見下ろしていた。
網膜を焼くような青白い光の網が、海底の砂を巻き上げながら脈打っている。
すでに結社の手によって起動準備が進められていた、古代の巨大移動要塞『天使の錨』だ。海溝を埋め尽くすほどの規格外の質量が、周囲の海水を沸騰させ、凄まじい地鳴りと共に浮上を始めていた。
(……行くぞ)
ロレンツォのハンドサインに、ニコが短く頷く。
二人が海面へと浮上し、波間に顔を出した瞬間——視界を覆い尽くしたのは、空へ向かって屹立する黒鋼の要塞と、それを護衛するように陣取る結社の巨大旗艦『リヴァイアサン級』だった。
「チッ……相変わらず、趣味の悪いデカさだね」
甲板に這い上がり、濡れた髪をかきあげたニコが、忌々しげにタバコを取り出して火を点ける。
「だが、的がデカい分、外しはしないさ。……なぁ、鑑定士様」
ニコが足元に視線を落とす。そこには、重厚な金属のケースに収められた、鈍く光る特殊弾頭のベルトリンクがあった。
『対艦徹甲弾』。
それは、ステラ・ガルドを立つ前、ロレンツォが白い布でぐるぐる巻きにして封印していた「バルディ家の装飾剣」——ルビーがあしらわれたかつての虚栄の象徴を、裏市場のブローカーに売り払って手に入れた「力」だった。
家柄もプライドも完全に捨て去り、泥水の中で愛する者を守り抜くための、実体のある暴力。
「……僕の誇りは、もうその鉄の塊の中にある」
ロレンツォは、迷いなくその重いベルトリンクを持ち上げ、アルドの機関銃の給弾口へとガシャンと乱暴に噛み合わせた。
「一発たりとも無駄にするなよ、野蛮人」
「フッ、誰に言ってんだ」
ニコが引き金を引く。
アルドの形見である無骨な銃身が、かつてないほどの凶暴な咆哮を上げた。放たれた対艦徹甲弾は、夜明け前の薄闇を切り裂くオレンジ色の閃光となり、旗艦の分厚い装甲を紙のようにぶち抜いていく。
連続する金属の破断音と、内部から噴き出す炎。
かつては重くて抜くことすらできなかった装飾剣が、相棒の銃弾に形を変え、立ち塞がる理不尽な悪を物理的に粉砕していく。ロレンツォの胸の奥で、熱いカタルシスが血液を沸騰させていた。
要塞の防衛システムが、侵入者を排除すべく狂ったように作動を始める。
周囲の海流が異常な渦を巻き、人工的な暴風雨が叩きつけられる。迎撃砲の砲塔が、一斉に二人の中型艇へと旋回した。
「……ッ、海洋算術、展開……!」
ロレンツォの視界が青白く染まり、脳髄が焼け焦げるような熱を発する。
凡人なら一秒で狂死するほどの膨大な情報量。波のうねりのベクトル、風圧の減衰率、無数の砲弾の軌道が、冷徹な数式となって彼の脳内を駆け巡る。
「右舷へ全速! ニコ、三十度上方に射線を確保した!」
「了解だ!」
ロレンツォの完璧な操舵と計算により、死の雨の隙間を縫うように艇が進む。
——だが。
「な……っ」
要塞の崩落した外壁の一部、数トンに及ぶ巨大な岩塊が、計算の範疇を超えて不規則に弾け、ニコの頭上へと降り注いだ。回避は間に合わない。
「ニコ!!」
ロレンツォは操舵輪から手を離し、弾かれたように甲板を蹴った。
『君の右の死角には、もう僕がいる』
その誓い通り。彼はニコの小さな身体に覆い被さり、自らの広く分厚い背中を盾にした。
メキッ、という鈍い衝撃音。
「ぐぅぅっ……!」
ロレンツォの喉から、押し殺した呻きが漏れる。岩塊の破片が背中を打ち据え、上質な黒いスーツが裂けて血が噴き出した。
「ロレンツォ……っ! あんた、バカか!」
ニコが目を見開き、腕の中で血を流す大きな身体を見上げる。
十四歳の頃は、自分の背中にすがりついて震えていたはずの少年。いつの間にか、自分を完全に包み込めるほどの大人の男——「雄」の骨格を持った相棒が、むせ返るような血と汗の匂いを纏って、彼女を庇っていた。
「……かすり傷だ。前を見ろ」
ロレンツォは苦痛を奥歯で噛み殺し、精悍な顔つきで不敵に笑う。
「僕の護衛対象を、こんな鉄屑なんかに潰させるわけにはいかないからな」
その痛々しくも頼もしい背中を見て、ニコの漆黒の瞳が微かに揺れ、そして——狂暴なまでの信頼を帯びて細められた。
「……生意気な相棒だ」
要塞の最奥部。
蒸気と火花が散る巨大な制御室で、二人の前に立ち塞がったのは、漆黒の軍服を纏った結社の首領だった。最新式のパワードスーツと無数のスマート火器に身を包んだ、歩く殺戮兵器。
「バルディの小僧……。貴様の父親と同じく、海の底で腐るがいい!」
首領の圧倒的な火力が、室内を蹂躙する。
(最新の兵器がなんだ。……そんな軽い殺意じゃ、僕らの『泥』には届かない!)
ロレンツォが短剣の柄を逆手に握り直した瞬間、ニコが前に出た。
「邪魔だ、鉄ダルマ!」
ニコの機関銃が咆哮を上げ、首領の視界とセンサーを執拗な弾幕で完全に前方に釘付けにする。
そのコンマ数秒——完璧な「一秒の死角」。
ロレンツォは気配を完全に殺し、ルカに叩き込まれたストリートの足運びで、音もなく首領の懐深くへと潜り込んだ。
「なに……っ!?」
首領が気づいた時には、ロレンツォはすでに下半身のバネと体重のすべてを乗せた姿勢に入っていた。
ガルドから授かった実戦用短剣が、パワードスーツの装甲の隙間、首の動脈へと深々と突き立てられる。
ズブッ。
血の飛沫が舞い、巨大な暴力の象徴が、重々しい音を立てて崩れ落ちた。
血に塗れた泥臭い「一秒の連携」が、最新のシステムを完全に凌駕した瞬間だった。
だが、安堵の暇はない。
首領が倒れても、要塞の起動シーケンスは止まらなかった。制御室の巨大なクリスタルが不吉な赤色に染まり、床が地震のように激しく揺れ始める。
「マズいね……システムが暴走してる。このままじゃ、世界中が海に沈むよ!」
ニコが忌々しげに舌打ちをする中、ロレンツォは真っ直ぐに制御パネルへと歩み寄った。
彼は懐から、父エンツォが遺した『黒いシリンダー』を取り出す。
(『結社を潰す劇薬』……そうか。これは情報をばら撒く鍵じゃない。この要塞の中枢に物理的にアクセスし、完全に破壊するための『真の鍵』だったんだ)
18歳になるまで封印されていた理由。それは、世界の命運を預かるこの重責を背負うための、父からの猶予だったのだ。
「……負の遺産は、僕の代で終わらせる」
ロレンツォは、血と泥に塗れた分厚い手で、シリンダーを制御パネルの窪みへと力強く突き立てた。
ガシャンッ!
要塞全体を駆け巡っていた赤い光が、一瞬にして青白い閃光へと反転し、そして——完全に消失した。
駆動音が止み、要塞が自らの重さに耐えきれず、轟音と共に崩壊を始める。
「ニコ、飛ぶぞ!」
ロレンツォはニコの腰を抱き寄せ、崩れ落ちる要塞の窓から、待機させていた中型艇へと向かって虚空へと身を躍らせた。
* * *
朝の光が、穏やかな海面を黄金色に染め上げていた。
崩壊した『天使の錨』が立てた巨大な波もとうに収まり、ボロボロになった中型艇の甲板には、心地よい潮風だけが吹き抜けている。
ロレンツォは船べりに腰掛け、包帯を巻いた腕で痛む肩を押さえながら、昇る朝日を眩しそうに見つめていた。
その隣へ、ニコがゆっくりと歩み寄ってくる。彼女もまた、頬にガーゼを当て、革ジャケットは破れて悲惨な有様だ。
ニコは無言のまま隣に腰を下ろすと、ポケットを探った。
いつものようにタバコを取り出すのかと思いきや、彼女の指先が摘み出したのは、古びた革のポーチから転がり出た『黄色いレモン』だった。
ジュリオたちのいる、あの清潔な酒場の匂い。彼女が二十六年間、泥水の中で大事に抱え込んできた過去の因縁と、叶わぬ恋の象徴。
ニコは、その黄色い果実をじっと見つめた。
かつての自分なら、この甘酸っぱい香りに縋り付き、「自分には特等席に座る資格はない」と再び泥水の中へ一人で沈んでいっただろう。だが今、彼女の隣には、自分の右の死角に飛び込み、自らの命を削ってまで自分を泥水から引き上げようとしてくれた、大柄で分厚い背中がある。
鼻先を掠めるのは、過去の幻影の香りではない。今、目の前で静かに呼吸をしている青年の、上質なオーデコロンと血、そして生々しい硝煙の入り混じった『生』の匂いだった。
ニコはフッと自嘲するように笑うと、思い切り海へと放り投げた。
ポチャン、と。レモンは波間に落ち、あっという間に遠ざかっていく。
「……いいのか」 ロレンツォが、少し驚いたように横顔を見る。
「埃臭い船には、似合わない匂いだからね」
ニコは乱暴に髪を掻き毟り、新しくタバコを咥えて火を点けた。紫煙が、朝の清々しい空気に溶けていく。
「それに……」
ニコは視線を外し、咥えタバコのまま、自分の右側に座るロレンツォの——分厚く、剣ダコと血に塗れた大きな手を、自らの小さな手でギュッと握りしめた。
「私の隣にはもう、うるさくて生意気な大型犬がいるからね。……過去の幽霊と添い寝してる暇は、なくなったみたいだ」
耳の裏を真っ赤に染めながら、決して目を合わせようとしない彼女の、最高に不器用な告白。
その言葉を聞いた瞬間、ロレンツォの胸の奥で、四年間燻り続けていた焦燥感と、行き場のない独占欲が、ついに限界を突破した。
「……大型犬は余計だ」
ロレンツォは低く笑い、彼女の小さな手を、自らの大きな掌でしっかりと、決して離さないように握り返した。
そして、そのまま強い力で彼女の腕を引き寄せ、バランスを崩したニコの身体を、自らの広く分厚い胸板の中にすっぽりと閉じ込めた。
「なっ……! ロレンツォ……っ」
「四年間……僕がどれだけ君を他の男に渡すまいと、必死に理性を抑え込んでいたか。君には分からないだろうな」
退廃的な色気を孕んだ男の低い声が、ニコの耳元に落ちる。
ロレンツォは、ニコの咥えていたタバコを指先でそっと抜き取り、そのまま海へと放り捨てた。そして、有無を言わさぬ雄の力で、真っ赤になった彼女の頬を両手で包み込む。
「右隣は、一生僕が塞いでおく。……君のすべては、僕のものだ。覚悟しろよ、ニコ」
「っ、生意気な……相棒だ……」
ニコはもう反発することも逃げることもせず、ただ不器用に彼の背中に腕を回した。 かつてはすれ違ってばかりだった二人の唇が、重なり合う。
それは、甘ったるいおとぎ話のような口づけではない。血と油と泥の味がする、そして火薬の匂いがどこまでも鼻を突く、二人らしい最高に泥臭くて情熱的なキスだった。
二人の間にはもう、過去の幻影が入り込む隙間はない。あるのは、互いの体温と、硝煙と機械油の、どこまでも泥臭く、愛おしい日常の匂いだけだ。
中型艇のエンジンが、新しい航海を告げるように低い産声を上げる。
二人は甘ったるい光の世界ではなく、彼らに最も似合いの泥臭さの広がる海へと、真の相棒として、そして男と女として、眩しい朝日の中へ船を出した。




