真実6
カラン、と。
イゾラの裏路地にひっそりと佇む酒場のドアベルが、不規則な音を立てて鳴った。
薄暗い店内には、相変わらず磨き上げられたオーク材と、爽やかな柑橘の香りが漂っている。カウンターの奥でグラスを磨いていたジュリオは、ドアの前に立つ影を見て、その手をピタリと止めた。
「……ニコ」
そこに立っていたのは、ボロボロに引き裂かれた革ジャケットを羽織り、全身を赤黒い血と煤に染めたニコだった。焦点の定まらない虚ろな瞳で、彼女はふらふらと一歩、店内へ足を踏み入れる。
「ジュリオ……っ、私……」
育ての親を失い、完全に心が折れた彼女が、最後にすがりつこうとした安全な日向の場所。限界まで張り詰めていた糸が切れ、ニコの目からポロポロと涙がこぼれ落ちそうになった、その時だ。
「……出て行け」
静かな店内に、氷のように冷たく、低い声が響いた。 ニコの足が、凍りついたように止まる。 ジュリオはグラスを置き、微塵の感情も読み取れない冷徹な目で彼女を見据えていた。
「……ここは、光の射す表の世界だ。こんな血まみれで店に来るな。私の大切な日常を、お前の纏う血生臭い因縁で汚さないでくれ」
それは、彼女をこれ以上裏社会の泥水で死なせないため、そして彼女を完全に突き放すために、ジュリオが意図して選んだ最も残酷な犠牲を伴った拒絶だった。
だが、今のニコにその真意を推し量る余裕などあるはずがない。
「あ……」
ニコの喉から、ひゅう、と息の漏れる音がした。
最後の拠り所だったはずの過去の扉が、目の前で無惨に閉ざされた。
絶望で全身の力が抜け、ニコは力なくその場にへたり込んだ。その拍子に、彼女の腰のポーチの留め具が外れ、中から『あるもの』が床に転がり落ちた。
——グチャリ。
石の床に落ちて鈍い音を立てたのは、ドス黒く変色し、異臭を放つ腐り果てたレモンだった。
ニコはこれまで、街に立ち寄るたびに新しいレモンを手に入れ、ジュリオの匂いの代わりとしてポーチの中に密かに忍ばせ続けてきた。
だが、ガルドを失う過酷な逃避行の中で、それを新しく買う余裕などあるはずもなかった。
かつては爽やかな香りを放っていた彼女の精神安定剤は、限界を迎えた彼女の心と同じように、とうに無惨に腐り果てていたのだ。過去の幻想が完全に朽ち果てたことを示す残酷な象徴を前に、ニコは潰れた黒い果肉を見つめ、声にならない絶望の嗚咽を漏らした。
「……安全な場所から見下ろすだけのあんたに、彼女をこれ以上傷つける権利はない」
不意に、開け放たれたドアの向こうから、地鳴りのような怒りを孕んだ低い声が響いた。 ジュリオがハッと視線を上げる。 泣き崩れるニコの背後、逆光の中に立っていたのは、黒スーツを着崩した長身の青年だった。 分厚い剣ダコのある掌。精悍な輪郭に落ちる翳りと、氷のように冷たく、それでいて火傷しそうなほど苛烈な殺気を放つ大人の男の眼差し。
「……お前は」
ジュリオは息を呑んだ。
四年前、この店で身の丈に合わない装飾剣を引きずり、「僕を誰だと思っている!」とキャンキャン吠えていた、あの白くひ弱だったバルディ家のお坊ちゃん。
だが、目の前に立つ青年の広い肩幅と、背後に広がる血と修羅場の気配はどうだ。美しいだけの無力な少年は、過酷な泥水の中で幾つもの死線を越え、どんな悪党をも圧倒する本物の気迫を纏う男へと変貌を遂げていた。
あまりの存在感の違いに、ジュリオの波一つ立たなかった静謐な黒い瞳が、驚愕に見開かれる。
(あの時の少年が、これほどまでに……っ)
「彼女を守るのは、過去の幻影に逃げ込んでいるあんたじゃない。僕だ」
ロレンツォはジュリオの驚愕を一瞥だにせず、床にへたり込むニコの腕を力強く掴み、強引に引き起こした。
ロレンツォはジュリオの驚愕を一瞥だにせず、腹の底で煮え滾っていた暗い怒りと、若さゆえの残酷な独占欲を真正面から叩きつけた。
「あんたがこの安全な日向の店で、綺麗なグラスを磨いている間……彼女がどれだけ傷つき、血を流してきたか知っているのか!」
地鳴りのようなその怒声に、ニコの肩がビクンと跳ねる。だがロレンツォは止まらなかった。
「傷ついた彼女を突き放し、疫病神だと言うなら……僕がその呪いごと、彼女の隣を歩いてやる! 今、彼女を守り、一緒に泥水を歩いているのはあんたじゃない。僕だ!」
それは、安全な場所から見ているだけの大人に対する、泥水の中で共に這いつくばってきた者としての絶対的な自負であり、彼なりの不器用で暴力的な愛の証明であった。
ジュリオは、カウンター越しに叩きつけられたその激しいマウントを、ただ無言で受け止めていた。
『私が彼女を冷たく突き放すのは、これ以上彼女を裏社会の因縁に巻き込んで死なせたくないからだ』 そう反論することは簡単だった。
だが、ジュリオはあえてその弁明を固く飲み込んだ。
自分がこのまま「冷酷で薄情な過去の男」という悪者を演じきれば、ニコは完全に過去への未練を断ち切り、自分を憎んででも、この前を向く青年の手を取ることができるからだ。
それに何より、目の前で圧倒的な気迫を放つこの青年は、自分が安全な場所へ引き上げてやるまでもなく、過去ごと彼女を愛し抜くという狂気じみた覚悟をすでに持っている。
ジュリオは、大人すぎる自己犠牲の仮面を被ったまま、微塵も感情を波立たせることなく静かに目を伏せた。
(……ああ。彼女にはもう、あんなにも立派な相棒がついていたのか)
ロレンツォは、反論すらしないジュリオのその沈黙を無関心だと受け取り、さらにドス黒い苛立ちを募らせた。
「行くぞ、ニコ」
彼は床にへたり込むニコの腕を力強く掴み、強引に引き起こす。
「……ロレンツォ……でも、私……っ」
「泣くな。君にこの綺麗な店は似合わない。君が帰るべき場所は、僕の隣だ」
ロレンツォは、床で腐り果てたレモンの残骸を革ブーツで容赦なく踏み砕くと、ニコの小さな背中を庇うようにして、自らの腕の中へと引き寄せた。
ジュリオは、その光景を無言で見つめていた。
ニコの震えが、ロレンツォの広く分厚い胸板の中で少しずつ収まっていくのがわかる。
彼が発する強烈な男の熱と泥臭い覚悟が、完全にニコを過去の幻影から引き剥がしていた。
ーージュリオは、圧倒的な成長を遂げた青年の姿に、安堵と少しの寂しさを滲ませて密かに目を伏せた。
「……行け。二度とこの店には来るな」
最後に兄として放ったその突き放す言葉は、先ほどとは違う、静かな『託し』の響きを帯びていた。
ロレンツォは一度だけジュリオを鋭く睨み返すと、ニコの肩を抱き、血と硝煙の匂いと共に、イゾラの薄暗い路地へと消えていった。




