表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
足手まといの没落貴族を拾ったら、数年後、相棒へと成長した彼から逃げられません  作者: *しおり*
第二部

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/35

真実5

「さて、私たちも行くよ。……大立ち回りのせいで、完全に結社のヘイトを買っちまったからね」

「ああ。追えるものなら、追ってこい」


ロレンツォとニコは満身創痍の艇に飛び乗り、結社の艦隊を引きつけるようにして、次なる目的地——育ての親であるガルドの工房へと全速力で舵を切った。


ステラ・ガルドの湿り気を帯びた潮風から一転、山岳の要塞都市は、肌を刺すような乾燥した熱風と、常に喉の奥をザラつかせる砂埃に支配されていた。


岩肌を乱暴にくり抜いたような、薄暗いガンスミスの工房。

 無愛想で錆びついたドアベルがカランと鳴る。入り口に立つ小さなシルエットを見て、奥の炉の前で鉄を叩いていた初老の男――ガルドが、義足の鈍い音を響かせながら顔を上げた。


「……よう、不良娘。また派手な厄介ごとを引き連れてきやがったな」

「親父。悪いが、今回は船の修理とフル装備の補充だ。……結社のドンを本気で怒らせちまったからね」


ニコが肩から下ろした重い機関銃を、油まみれのカウンターにドンと置く。

 その直後だった。

 ガルドの濁った右目が、ニコの後ろから音もなく工房へ足を踏み入れた「影」を捉え、その動きをピタリと止めた。


入り口の強烈な逆光を背に立つ、上質な黒スーツを着崩した長身の青年。


 ニコの頭頂部がその胸元にしか届かないほどの広い肩幅。だが、ガルドの目を引きつけたのは体格の変化だけではない。


 四年前、この工房に転がり込んできた時は、ニコの背中に隠れてキャンキャン吠えるだけの、怯えた温室育ちのヒヨッ子だった。

 だが今の彼は、ニコの右斜め後ろ――彼女の死角を完全にカバーする位置に呼吸すら殺して立ち、仄暗い工房の奥を、氷のように冷たく鋭い眼光で瞬時に値踏みしている。


「……なんだ、坊主。ずいぶんと縦にデカくなりやがったな」

 ガルドが、炉の熱気よりも低い声で唸った、次の瞬間。


ヒュンッ!

 老傭兵の太い腕が弾け、カウンターにあった重い鋼のレンチが、凄まじい速度でロレンツォの顔面目掛けて投げつけられた。


挨拶代わりの、容赦のない奇襲。

「親父!?」

 ニコが眉を跳ね上げたが、ロレンツォは瞬き一つしなかった。


彼は足幅を一切崩すことなく、手首の微かなスナップだけで腰の短剣を抜き放ち、飛来したレンチの重心を刃の腹で正確に叩いた。

 ガキンッ! と鼓膜を劈く金属音が響き、火花を散らしたレンチが軌道を逸れ、石壁に深く突き刺さる。


流れるようなその動作の後、ロレンツォの手には、四年前のあの日、ガルドが「ニコの死角を守ってやってくれ」と託したルビー装飾の短剣が、逆手でピタリと構えられていた。

 マメが潰れて血だらけだった白く柔らかい掌は、今や分厚い剣ダコと無数の傷跡に覆われている。

 そして何より、手にした刃の手入れは完璧だった。四年間、過酷な血と泥にまみれながらも、決して命を預ける道具の手入れを怠らなかった証拠が、鈍く冷たい光を放つ切っ先に表れている。


張り詰めた静寂の中、ガルドの喉の奥で、低い振動が鳴った。


「……俺の可愛い不良娘の背中を預けるには、まだ少し線が細いが。……合格だ」

 ガルドはカウンターに両手をつき、深く刻まれた顔の皺をさらに深めて、ふっと息を吐き出した。

「あの怯えてたお坊ちゃんが、随分と泥臭いツラになりやがった。……もう、あいつの足手まといじゃねえみたいだな」


ロレンツォは短剣をスッと音もなく鞘に収めると、四年前と同じように、深く頭を下げた。

「……あなたの短剣のおかげで、今日まで彼女の死角を守り抜くことができた。感謝する、ガルド殿」


「ふん。だが、まだまだ生意気なガキのままだよ。さっきだって教会の屋根から……」

 ニコが照れ隠しのように鼻を鳴らして口を挟もうとしたが、ガルドはそれを分厚い手で制し、ロレンツォの目だけを真っ直ぐに見据えた。


「……四年前、俺はお前さんに『いつか、あいつを泥水の中から引き上げてやってくれ』と頼んだな」


ガルドの唐突な言葉に、ニコが怪訝そうに眉間を寄せる。

 ロレンツォは、少しだけ汚れたニコの小さな背中を無言で見つめた。それから、ゆっくりと老傭兵に向き直る。


「ええ。……そのために、僕は四年間、彼女の隣で泥水を啜り続けてきたんです」


ロレンツォの声は、決して張り上げられたものではない。だが、その深く落ち着いた響きは、工房の埃っぽい空気を確かに震わせていた。


その声の奥にある熱に触れ、ガルドは満足そうに顎を引いた。


「……そうか。なら、もう俺が教えることは何もねえ。お前さんは立派な、あいつの『相棒』だ」


ガルドはカウンターの奥へと義足を引きずり、最も頑丈な木の箱を引きずり出してきた。


「さあ、さっさと準備を始めろ! 結社のバカ共が来る前に、最高のフル装備を整えてやる!」


ニコは背中の機関銃を下ろし、ふぅ、と深く息を吐き出して古びた革のソファに腰を下ろした。 四年間。血反吐を吐くような逃避行の中で、数々の死線を越えてきた。彼女にとって、油と鉄の匂いが染みついたこの工房だけが、唯一、張り詰めた糸を緩められる「帰るべき実家」だった。


「……なぁ、親父」


ニコがポケットからタバコを取り出しながら、どこか甘えるような、年相応の素直な娘の顔で言った。


「船の修理が終わったら、またあの塩辛いシチュー、作ってくれよ。四年間、泥水みたいなスープばっかり啜ってたからさ……アタシの舌がバカになったか、確かめてやるよ」


ガルドは重い弾薬箱を開ける手を止めず、ふん、と鼻で笑った。


「相変わらず生意気な娘だ。……いいだろう。今度はたっぷり香辛料と塩を効かせて、お前らの寿命を縮めてやる。坊主も、胃薬の用意をしておくんだな」


ロレンツォは、ガルドの不器用な愛情に思わず吹き出した。


十四歳の時、三人で木皿を囲み、ガルドがニコの昔話を暴露して笑い合ったあの夜。血と硝煙に塗れた世界で、唯一見つけた温かいシェルターの記憶。


(……また、あの時間が戻ってくるんだ)


ロレンツォは腰の短剣の柄を握りしめ、今度こそ自分がこの日常と二人を守り抜くのだと、心の中で静かに誓った。 これから少しの間だけ、あの温かい日常を味わえる。誰もがそう信じて疑わなかった。


――しかし。 そのささやかな「四年前の続き」の約束が果たされることは、二度となかった。


ウゥゥゥゥォォォォン……ッ!!


岩山を揺らすような、腹の底に響く不気味な重低音が、突如として工房の平和な空気を粉々に引き裂いた。 ロレンツォが弾かれたように小さな窓から外を見ると、息を呑んで絶句した。


「……嘘だろ。なんだ、あの数は……っ」


山岳都市を囲む空を、太陽の光を遮るほどの『黒い雲』が覆い尽くしていた。結社が動員した、数十隻にも及ぶ最新鋭の重装甲艦隊だった。


 ステラ・ガルドで完全に結社のメンツを潰した二人に向けられた、過剰すぎるほどの圧倒的な暴力。艦隊はすでに山岳都市の全方位を包囲し、対地砲の巨大な砲口を一斉にこの工房へと向けていた。


「チッ……! あのクソ共、こんな山奥にまで艦隊ごと押し寄せてきやがったのか!」


 ニコが忌々しげに舌打ちをし、機関銃を構えようとした、その時。


「……武器を下ろせ、不良娘。あんな数を相手に正面から撃ち合えば、一瞬で蜂の巣だ」


 ガルドは驚くほど冷静な声で告げると、カウンターの下に隠されていた赤いレバーを乱暴に引き下げた。  ガゴンッ! と重い金属音が響き、工房のシャッターが分厚い防爆装甲へと切り替わる。同時に、床の一部がスライドし、地下水路へと続く秘密の脱出艇のハッチが姿を現した。


「親父、何を……」


「いいか。結社の狙いは、坊主の持っている『海図』だ。奴らはこの工房ごと俺たちを吹き飛ばす気満々だぞ」


 ガルドは壁に立てかけてあった、自身の背丈ほどもある重機関銃を無造作に担ぎ上げた。


「俺がこの工房の防衛システムを全開にして、上の砲座から派手に弾幕を張る。奴らの意識が上に向いている数十秒の間に、お前らはその地下水路から艇で一気に抜けろ」


「は……? 何を言って……」  


ニコの顔から、スッと血の気が引いた。


「待てよ! 親父も一緒にこの艇に乗るんだろ!?」


「バカ言え。誰かが上で派手に囮にならなきゃ、地下水路を抜けた瞬間に海上で狙い撃ちされるだけだ」  ガルドの言葉の『意味』を理解し、ニコの呼吸が浅く乱れた。  ガルドは初めから、自分一人だけがここに残り、彼らを逃がすための『死の防波堤』になる気なのだ。


「ふざけるなッ! 私たちが、修理なんかに来なければ……っ! 私が派手に暴れて、追手をここまで連れてこなければ……!」


 ニコは血を吐くような声で叫び、ガルドの分厚い胸ぐらを両手で掴んだ。  激しい自責の念と後悔が、彼女の顔を無惨に歪ませている。自分が愛する者の日常を守るために戦ってきたはずが、自分のせいで、たった一人の育ての親を理不尽な死に巻き込もうとしている。その絶望は、彼女の心を粉々に打ち砕こうとしていた。


「一緒に逃げるんだよ!! アンタを置いていくくらいなら、私がここで一緒に……っ」


「——いい加減にしろ、ニコ!!」


 ガルドの雷のような怒声が、工房を震わせた。


 ビクン、とニコの肩が跳ねる。


「お前がここで死んだら、ジーナやアルドたちの死も無駄になるんだぞ! あいつらの日常を守るって決めたのは、お前自身だろうが!」


「あ……っ、うぁ……っ」


ガルドは泣き崩れるニコの頭に、分厚く無骨な掌をドンと乗せた。


「……共和国の最前線で、俺の命令ミスでアルドを肉片にして死なせたあの日から。俺の時間は、とうの昔に止まっちまってたんだよ」


 その言葉に、ニコがハッと息を呑んで顔を上げる。


「……親、父……?」

「お前がアルドの銃を背負って、ボロボロになって俺の工房に転がり込んできた時、俺は神に感謝した。……今度こそ、俺のガキの命だけは、絶対に死なせはしねえってな」


 ガルドは深く刻まれた皺をさらに深め、不器用に、けれどひどく優しい笑みを浮かべた。


「俺はもう、十分に生きた。だから、俺の『元上官としての最後の贖罪』の邪魔をするな。生きろ、ニコ。お前ら若者にはまだ、未来がある」


 ガルドはそう言って、ニコの震える手を優しく引き剥がした。  


(ジュリオ。お前が日向から彼女を突き放すことで守ろうとした気持ちは、痛いほどよくわかる。……だが、俺たち大人のやり方では、過去の因縁に囚われたあいつを本当の意味で救ってやることはできなかったんだ)


ガルドの脳裏に、あの一ヶ月間、ニコを完璧に守るために血反吐を吐いて短剣を振り続けていたロレンツォの姿が浮かぶ。

泥水の中にいる彼女を、安全な場所へ引っ張り上げるのではない。自らも泥水に飛び込み、隣で一緒に血を流して歩くという、若く狂気的なまでの愛の覚悟。


(あいつらなら、俺たちが辿り着けなかった『その先』へ行ける)


そして、傍らで唇を噛み締めて立ち尽くすロレンツォを、真っ直ぐに見据えた。


「……ロレンツォ。あの『不良娘』を頼んだぞ。彼女は、お前が守るんだ」


「……っ! ガルド殿……っ!」


 親としての最後の『託し』。

それは、過去の亡霊に囚われた老傭兵から、未来を切り拓く若き男への、希望を込めた完全な魂のバトンタッチだった。


 ロレンツォは、胸が張り裂けそうになるのを必死に堪え、涙を堪えて深く、深く頷いた。


「嫌だ……行かない……親父、親父ぃぃッ!!」


 泣き叫び、ガルドにすがりつこうとするニコの細い身体を、ロレンツォは背後から大人の男の力で強引に抱きすくめた。


「放せ! 放せロレンツォ!! 親父が、親父が死んじゃう……っ!!」


「……行くぞ、ニコ!! 親父さんの覚悟を、僕たちの手で無駄にするな!!」


 ロレンツォは暴れる彼女を強引に引きずり、地下水路の脱出艇へと押し込んだ。

 ハッチが閉まる直前。  


ガルドは重機関銃を構えたまま、振り返ることなくニヤリと笑った。


「……あばよ。極上の相棒たち」


 直後、山を揺るがすような一斉砲撃が工房を襲い、ガルドの重機関銃の咆哮が、それに抗うように鳴り響き始めた。





地下水路を抜けた脱出艇の小さな丸窓から、ロレンツォとニコは、信じられない光景を目にしていた。


 山岳の要塞都市が、空を覆う黒砂結社の大艦隊からの一斉砲撃を受け、巨大な火柱を上げて崩壊していく。その炎の中心には、たった一人で防波堤となり、彼らを逃がすために重機関銃を撃ち続けていた老傭兵の姿があった。


「親父……っ」


 ニコは窓のガラスにすがりつき、声にならない悲鳴を上げた。  炎が岩山を飲み込み、ガルドのいた工房が完全に跡形もなく吹き飛ぶ。


「あ……ああぁっ……!」


 ニコの口から、獣のような、ひどく掠れた慟哭が漏れた。  自分が愛する者の日常を守るために戦ってきたはずが、自分のせいで、たった一人の育ての親を理不尽な死に巻き込んでしまった。強烈な自責の念と絶望が、彼女の心を粉々に打ち砕いた。


 彼女は窓からズルズルと崩れ落ち、冷たい鉄の床に膝を抱え込んだ。


 震える手でポケットを探り、タバコとマッチを取り出そうとする。だが、ガタガタと制御不能なほど震える指先では、マッチ箱を擦ることすらできない。


 カチャッ、カチャッ……。


 何度も火を点けようとしてはマッチ棒を折り、ついに彼女はポロリとタバコを取り落とし、両手で顔を覆って小さくうずくまった。  無敵な掃除屋の強がりが、完全に決壊した瞬間だった。


 ロレンツォは無言で彼女の隣に片膝をつき、床に落ちたタバコを拾い上げた。


 それを自分の口に咥え、マッチを擦って確実に火を点ける。そして、顔を覆って震えるニコの細い肩を抱き寄せ、その唇に、火の点いたタバコをそっと咥えさせた。


「……吸え、ニコ」


 ロレンツォの低く、静かな声が耳元に落ちる。


「親父さんが、命懸けで守ってくれた肺だ。……呼吸を止めるな」


 ニコはタバコを咥えたまま、ロレンツォの胸に額を押し当て、ヒック、ヒックと子どものように泣きじゃくった。ロレンツォは彼女の震える背中を、大人の男の大きな掌で、ただ力強く包み込み続けていた。



 数時間後。


 エンジン音だけが虚しく響くキャビンの中で、ニコは空っぽになったような虚ろな瞳で床を見つめていた。


「……お坊ちゃん。次の港に着いたら、私を置いて一人で逃げな」


 ぽつりと、掠れた声が落ちる。


「アルドも、ジーナも、親父も……私が関わると、みんな死んでいく。私は、ただの疫病神なんだ。このままじゃ、あんたまで死ぬよ」


 それは、彼女が初めてロレンツォを自分から遠ざけようとした、完全な自己否定の言葉だった。


「ふざけるな」


 海図を広げていたロレンツォは、強い怒りを込めて彼女の細い肩を掴んだ。


「僕の隣は、君の指定席だと言ったはずだ! 君が疫病神だというなら、僕がその呪いごと、君の隣を歩いてやる!」


 ロレンツォは彼女の目を真っ直ぐに見据え、決して見捨てないという覚悟を叩きつけた。そして、血濡れた海図と中央記録院の情報を指差す。


「……ニコ。結社の野望を砕く『天使の錨』へ至るための最後の航路の鍵は、イゾラ近海の海底遺跡にある。……僕らは、『イゾラ』へ向かう」



 ——イゾラ。


 その言葉を聞いた瞬間、虚ろだったニコの肩が、ビクンと大きく跳ねた。


 普段の彼女なら、「追手がウロウロしてる街に長居は無用だ」と即座に反対したはずだ。結社に追われている今、かつて逃げ出した因縁の街に戻るなど自殺行為に等しい。


 だが、育ての親を失い、心が完全に折れきっている今の彼女は、全く別の反応を示した。

 頭の奥底で、あの柑橘の香りがする、静かで清潔な『ジュリオの酒場』の情景がフラッシュバックしたのだ。


(……ジュリオ。……あそこへ行けば、休めるかもしれない)


 血と硝煙にまみれた自分が決して足を踏み入れてはならないと自ら遠ざざけていた、安全な日向。

痛切な弱さを露呈した彼女の心は、無意識のうちにその『逃げ場所』へとすがりつこうとしていた。


「……わかった。イゾラへ、向かおう」  ニコは、まるで糸の切れた操り人形のように、力なく頷いた。


ーー泣き疲れたニコが、毛布にくるまって浅い眠りに落ちた後。


キャビンの薄暗いランプの下で、ロレンツォは腰から『実戦用の短剣』を静かに抜き放った。


ガルドが、自分のために完璧に調整してくれた、実体のある力。


刀身に自分の顔が映る。そこにあるのは、大切な師匠一人救えず、ただ逃げることしかできなかった、非力で惨めな男の顔だった。


(父上に続き……また僕は、大人に命を盾にさせて、自分だけが生き延びてしまった……っ)


ギリッ、と。短剣の柄を握る手から血が滲む。


『あの不良娘を頼んだぞ。彼女は、お前が守るんだ』


炎の中で笑った老傭兵の最後の言葉が、脳裏でガンガンと反響する。 ロレンツォは短剣の冷たい刃を自らの額に押し当て、誰にも聞こえない声で、低く、獣のように嗚咽を漏らした。


「……誓う。もう二度と、僕の目の前で誰も死なせはしない。……あなたが遺してくれたこの刃で、絶対に彼女を守り抜いてみせる……っ!」


それは、彼が本当の意味で血と泥に塗れた修羅になることを決意した、孤独で痛切な誓いの夜だった。




 数日後。  満身創痍の船が、かつて逃げ出したはずのイゾラの裏港にひっそりと接舷した。


「ニコ。遺跡の探索の前に、まずは傷の手当てと補給だ。目立たない隠れ家を……」


 ロレンツォがロープをくくりつけながら振り返ると、ニコはすでに一人でフラフラと桟橋を歩き出していた。


「おい、ニコ! どこへ行くんだ!」


 ロレンツォの制止の声は、彼女の耳には届いていなかった。


ニコの震える唇から、掠れた独白が漏れ落ちる。


「……少しだけ。あのレモンの匂いを、嗅ぐだけだから……」


「もう、一人で立っているのが……限界なんだ……っ」


 それは、かつて「二度とあのレモンの香る店には戻らない」と固く誓い、自らを罰するように遠ざけていた彼女の『絶対のルール』を自ら破る、痛切な弱音だった。  育ての親であるガルドを理不尽な死に巻き込んでしまった絶望と自責の念が、彼女の心を根底から粉々に打ち砕いていたのだ。


血と硝煙にまみれたバケモノとして、たった一人で張り詰めた糸の上を歩き続ける気力は、もはや一滴も残っていなかった。  今だけは、あの日向のような過去の温もりにすがり、壊れた心を少しでも繋ぎ止めなければ、本当に狂ってしまいそうだった。


 彼女の足は、まるで目に見えない糸に引かれるように、無意識のうちに街の裏路地——ジュリオの酒場がある方向へと向かっている。


 ロレンツォは、彼女の危うげな足取りが「過去の男」の元へ向かっていることに気づき、胸の奥でドス黒い嫉妬と苛立ちを覚えた。


(……あんなに傷ついて、空っぽになっているのに。それでも君が最後にすがりたいのは、僕ではなく、あの安全な場所にいる男なのか)


 この四年間、自分がどれほど彼女の隣で泥水を啜り、盾になる覚悟を示そうとも、限界を迎えた彼女を支えてやることはできない。


 ギリッと奥歯を噛み締めながらも、ロレンツォはフラフラと歩く彼女を放っておくことなどできるはずもなく、その小さな背中を追って、イゾラの薄暗い路地へと足を踏み入れた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ