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足手まといの没落貴族を拾ったら、数年後、相棒へと成長した彼から逃げられません  作者: *しおり*
第二部

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真実4

半壊した中型艇をドックに預け、彼らが今夜の寝床に選んだのは、市場から一本外れた裏路地にある古びた安宿だった。

 そして木造の軋む廊下を案内され、通されたのは、薄い板壁で仕切られた隣り合う二つの小部屋。


「……四年前は、豚小屋みたいな船室で一緒に寝ていたじゃないか。わざわざ部屋を分ける必要があったのか?」


 荷物を置きながらロレンツォが不満げに尋ねると、ニコは隣の部屋との間にある薄い扉を足で乱暴に押し開け、咥えタバコのまま顔を出した。


「当たり前だろ。お前みたいに図体がデカくなった男と、狭い部屋で一緒に寝るなんて息が詰まる。……だいたい、十八の男がいつまでも子守りが必要なわけでもないだろ」


 半分は照れ隠しのようなニコの言葉に、ロレンツォは小さく肩をすくめ、ベッドに腰を下ろした。


 窓の外では、夕暮れの空に巨大な風車のシルエットが浮かび上がっている。

 ロレンツォは、昼間の市場で見せたマリアの絶望に満ちた瞳を思い出し、重い溜息をついた。


「……マリアのことだが。なんとかして、助けられないだろうか」


 薄い壁越しに聞こえるように声をかけると、隣の部屋で銃の手入れをしていたニコの手がピタリと止まった。


「……やめときな。新興商会が裏で絡んでる借金だ。私たちが口出しして、無駄に結社の犬どもに目をつけられるリスクは冒せない」


「だが! 彼女は僕らの友人だ。四年前、僕らが逃したせいでこんな目に……」


「お前のせいじゃないよ」


 ニコは銃を置き、仕切り扉の枠に寄りかかって、ふっと鼻で笑った。


「まぁ、あの子は四年前からずっと、お前を熱っぽい目で見てたからね。今日だって、すっかり立派になったお前のツラを見て、頬を染めてたじゃないか。……惚れた女のピンチを救うヒーローになりたいなら、止めはしないよ」

「からかうな。僕はただ、理不尽な取引を見過ごせないだけだ!」

「はいはい、立派な貴族様だこと」


 ニコはヒラヒラと手を振り、「私はもう寝る」と仕切り扉を閉めてしまった。  ロレンツォは閉ざされた薄い壁を睨みつけ、やり場のない苛立ちと共にベッドに仰向けに倒れ込んだ。



 深夜。


 星明かりだけが差し込む、港町の安宿。


 トントン、と。ロレンツォの部屋のドアを細くノックする音が響いた。


「ニコか……?」


 ロレンツォが鍵を開けると、そこには薄いショールを羽織り、震えるように立つマリアの姿があった。


「マリア……!? こんな夜更けにどうしたんだ。明日は……」


 明日は、商会の男のところへ行くんだろう、と言いかけてロレンツォは口をつぐんだ。

 マリアは無言のまま部屋に滑り込み、背手にドアの鍵をかけた。そして、すがりつくようにロレンツォの広い胸に顔を埋める。


「……ロレンツォ。お願い」


 甘く、震える声。彼女の手が、ロレンツォのシャツの胸元をぎゅっと掴む。


「四年前、あなたたちがこの街へ私を逃してくれた日から……私、ずっとあなたのことが好きだった。またいつか、あなたが立派になって迎えに来てくれるんじゃないかって、ずっと夢見てたの」


「マリア……」


「でも、現実は違った。どうせ明日、あの醜い豚のような男のモノにされるの。……だったら、せめて私の『初めて』は、ずっと好きだったあなたに貰ってほしい。一晩だけでいい。私を、抱いて……っ」


 マリアは涙目で彼を見上げると、震える指先で自身のブラウスのボタンを外し、雪のように白い肩と胸元を露わにした。


「なっ……!?」


 ロレンツォは顔にカッと血を上らせ、息を呑んだ。

 彼とて、健康な十八歳の男だ。夜の静寂の中、仄暗いランプに照らされた美少女の肌と、漂う石鹸の香りに、理性が激しくグラリと揺さぶられる。心臓が早鐘を打ち、喉がカラカラに乾いた。


(……っ、だめだ。落ち着け!)


 ロレンツォは奥歯を強く噛み締め、必死に自身の中の「男」の本能をねじ伏せた。


 彼は視線を逸らし、震えるマリアの肩に自分の上着をふわりと掛けると、ボタンを直すように優しくその手を包み込んだ。


「……だめだ、マリア。君の価値は、そんな風に自暴自棄になって投げ捨てていいものじゃない。それに……バルディの男として、愛してもいない女性を慰めのために抱くような下劣な真似はできない」


「でも……っ、私、あなたに触れてほしいの……っ」


「昔、屋根裏で僕が教えただろう? 『不当な取引には応じるな』ってね」


 ロレンツォは彼女の目尻の涙を親指でそっと拭い、大人の男らしい優しく、頼もしい笑みを向けた。


「明日の結婚式、僕とニコでめちゃくちゃにしてやる。君に、不当な借金の支払いなんかさせない。だから、泣くな」


 マリアが部屋を去り、ドアの鍵がカチャリと閉まった音を聞いて、ロレンツォはドアに背中を預けたまま、ずるずると床にへたり込んだ。


「……はぁっ、はぁっ……」


 必死に抑え込んでいた息が、荒く漏れ出す。  部屋にはまだ、マリアが残していった甘い石鹸の香りと、若い娘特有の熱気が微かに漂っていた。

 ロレンツォは自身の両手で顔を覆い、大きく天を仰いだ。


(……危なかった。少しでも気を抜けば、理性が吹き飛びそうだった)


 十八歳。血気盛んで健康な大人の男だ。あんな風に、好意を寄せる美少女から涙ながらに肌を晒されて迫られれば、本能が狂ったように暴れ出すのは当然のことだった。


 それでも彼がギリギリで踏みとどまれたのは、彼の胸の奥深くに、全く別の匂いが——火薬と機械油、そして安いタバコの匂いが、深く根を張っていたからだ。

 ロレンツォは、壁一枚を隔てた隣の部屋を見つめた。


(……あいつは、どうしてあんなに無神経なんだ)


 この四年間、隣の部屋で寝ている小柄な相棒の背中を守るためだけに、血反吐を吐いて強くなってきた。

それなのに、当のニコは自分のことを「ただの生意気な弟分」か「護衛の対象」としか見ていない。彼女の心の特等席には、未だにあの『ジュリオ』という過去の男の幻影が居座り続けているのだ。


(僕がどれだけ彼女を想っていても、今それを伝えれば、この『相棒』という居場所すら失ってしまうかもしれない……)


 マリアの柔らかい肌の感触と、ニコの背中から漂う硝煙の匂い。そして、絶対に届かないもどかしさ。ロレンツォは、行き場のない青年特有の悶々とした熱と葛藤を抱え、薄い壁を背にして、眠れない夜を明かした。



 早朝。


 隣の部屋との薄い仕切り壁に寄りかかり、タバコを吹かしていたニコが、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべて口を開いた。


「……もったいないねぇ、お坊ちゃん。抱いてやればよかったのに」

「っ! あ、あんた……聞いていたのか!」

「壁が薄いからね。丸聞こえだよ。あんな可愛くて若けりゃ、抱き心地も最高だろうに。年も近くてお似合いじゃないか」


 ニコは短いタバコの灰を落とし、わざとらしく肩をすくめた。


「私みたいな、女らしさの欠片もない血生臭いババアの護衛なんかしてるより、あの子と一緒になった方が、よっぽどお前も幸せに――」


 ガンッ!!!


 ニコの言葉は、最後まで続かなかった。  ロレンツォが凄まじい踏み込みで仕切り扉を蹴り開け、そのままニコを壁際へと追い詰め、その顔のすぐ横の壁を拳で激しく殴りつけたのだ。


「……え」


 タバコがニコの口からポロリと落ちる。

 見上げると、ロレンツォの精悍な顔は怒りで微かに引き攣り、氷のように冷たく、それでいて火傷しそうなほど熱い瞳がニコを射抜いていた。


「……いい加減にしろ」


 退廃的な色気を帯びた低い声が、ニコの耳元に落ちる。


「僕を……自分以外の女に押し付けようとするな」


「ロ、ロレンツォ……?」


「自分を『血生臭いババア』なんて呼んで、卑下するな。……僕がこの四年間、誰の隣に並び立つためだけに泥水を啜ってきたと思っているんだ」


(『僕が欲しいのは君だけだ』と、言ってしまいたい……っ!)


 喉元まで出かかった決定的な告白を、ロレンツォは奥歯が砕けるほど強く噛み締めて、必死に呑み込んだ。今それを言えば、過去の幻影に囚われている彼女は、確実に自分から距離を置くだろう。


 言えない。 言いたいのに、言えない。


その行き場のない強烈な苛立ちと熱情が、彼の視線をさらに鋭く、凶暴なものにさせていた。


「僕を誰だと思っている。バルディの男が、心に決めた女以外の代用品で妥協するわけがないだろう!」


「……あんたは、僕が他の女を抱きながら、あんたを守れるとでも思っているのか。」


ドキン、と。


 ただの生意気な弟分だと思っていた彼から放たれた、圧倒的な男の気迫と、ギリギリで抑え込まれた重たい感情。


本当は、とっくに気づいていた。  彼が自分に向ける執着が、もはや「生意気な弟分」としてのそれではないことに。


 この四年間、彼らは幾度も死線を共にしてきた。

 極寒の北海で結社の追手から逃れ、氷柱の下がる狭い岩穴に三日三晩隠れ続けた時。ガタガタと震えが止まらないニコを、いつの間にか自分よりも広くなっていた胸板で、休むことなく温め続けてくれたのは彼だった。  砂漠の廃墟で弾切れに陥り、短剣一本で敵の包囲網を強行突破した時もそうだ。返り血で真っ赤に染まった彼が、自身の傷にも構わず真っ先にニコの無事を確認しにきた時の、あの痛切で切実な眼差し。


 死と隣り合わせの極限状態の中で、彼の瞳の奥には、いつしか保護者への甘えではなく、自分だけの女を守り抜くという、大人の男としての明確な熱が宿るようになっていた。


 だが、ニコはその熱から必死に目を逸らし続けてきた。


 自分は、ジュリオという過去の幻影にすがり、血と硝煙にまみれることでしか生きられない薄汚れたババアだ。いずれ光の世界へ戻るべき彼が、自分のような日陰の泥水に縛り付けられていいはずがない。


 マリアのような若く純粋で、彼と同じ光の温もりを知る真っ当な娘こそが、彼の隣にはふさわしい。そう自分に言い聞かせ、わざと彼を突き放すようなからかいの言葉を投げたのに。


 今、逃げ場を塞ぐようにニコを見下ろしてくるその瞳は、そんな彼女の卑屈な自己卑下と逃げ道を、一切許そうとはしていなかった。


 『僕がこの四年間、誰の隣に並び立つためだけに泥水を啜ってきたと思っているんだ』  


壁を殴りつけた彼の叫びが、耳の奥でガンガンと反響する。

 ジュリオを一途に想っていると信じてきたはずの自分の心が、目の前の若く凶暴な熱情によって、ぐらぐらと根底から揺さぶられているのがわかった。


 自分を女としてなど見ていないと思っていた。


 けれど、彼が発する強烈な「男」の気配と、真っ直ぐすぎる独占欲に晒され、彼女の仮面が、音を立てて崩れ落ちる。


 二十六歳の百戦錬磨の掃除屋の顔が、生まれて初めて、耳の裏まで真っ赤に染まった。


「……ば、馬鹿言ってんじゃないよ、このヒヨッ子が……っ」


 ニコは慌てて目を逸らし、ロレンツォの腕の下をくぐり抜けて逃げるように部屋を出ていった。


 その後ろ姿を見つめながら、ロレンツォは額を壁に押し当て、熱くなった深い息を吐き出した。



少しして、頭を冷やしたロレンツォが身支度を整え、機関銃を背負ったニコと共に安宿の外へ出た時のこと。



「離せ、ピエトロ! 俺が行かなきゃ、あいつが……っ!」

「だめだよ、ルカお兄ちゃん! 殺されちゃうよぉ!」


 宿の前の石畳で、マリアの幼い弟であるピエトロが、泣き叫びながら一人の青年の腰にしがみついていた。


 手製のボロボロのナイフを握りしめ、血走った目で丘の上の教会へ向かおうとしているのは、ルカだった。


「どうした、ルカ! マリアは?」


 ロレンツォが駆け寄ると、ピエトロがわあっと泣きついた。


「ロレンツォお兄ちゃん! さっき、商会の怖い人たちが馬車で迎えに来て、お姉ちゃんを連れて行っちゃったの……っ! あの丘の上の教会で、結婚式を挙げるって……!」


「くそっ、俺が……俺があいつを守るんだ! 商会の連中だろうが結社だろうが、ぶっ殺してマリアを取り返してやる!」


 ルカは悲痛な叫びを上げ、ピエトロを振り払ってでも駆け出そうとする。  そのなり振り構わぬ必死な剣幕に、ロレンツォはハッと息を呑んだ。


(……そうか。ルカは、マリアのことが)


 四年前、ヴェネトのスラムで共に泥水を啜っていた頃は、ただの悪ガキの延長のような関係だと思っていた。だが、必死にナイフを握る彼の手の震えと、身の程知らずなまでに熱く痛切な眼差しは、間違いなく一人の女性を深く愛する「男」のものだった。


 ロレンツォは、かつての非力だった自分に重なるその震える手を、大人の力強い掌でガシッと掴み止めた。


「……ロレンツォ、離せッ!」


「落ち着け。そんなナマクラで正面から突っ込んでも、蜂の巣にされるだけだ」


 ロレンツォはルカの手からそっとナイフを取り上げ、精悍な顔つきで真っ直ぐに彼を見据えた。


「マリアは、僕らが取り戻す。……君は、僕らが逃げるための古い飛行艇を手配して、街の外れの隠しポートで待機していてくれ」

「だけど……っ!」

「彼女に、君の死体を見せたいのか? ……君の仕事は、僕らが助け出した後の彼女を、その手でしっかりと抱きとめてやることだ」


 その落ち着き払った、しかし絶対的な自信に満ちた言葉に、ルカはハッとして動きを止めた。

 背後から「さあ、派手な結婚祝いと行こうか」と、タバコを咥えたニコが並び立つ。  ロレンツォはルカの肩を力強く叩くと、ニコと共に、朝陽が照らす丘の上の教会へと凄まじい速さで駆け出した。



色鮮やかなステンドグラスから、朝の光が降り注ぐ丘の上の教会。


 新興商会の醜く肥え太った男が、絶望で顔を蒼白にするマリアの細い指に、強引に宝石の指輪をはめようとしている。  冷たい金属が指先に触れた瞬間、マリアの脳裏を走馬灯のように過去の記憶が駆け巡った。


 ヴェネトの薄暗い裏水路で、弟のピエトロやルカと共に泥水を啜るようにして必死に生きてきた過酷な日々。

悪徳商人に搾取されそうになったあの日、颯爽と現れて自分たちを救ってくれたロレンツォの姿。


埃っぽい屋根裏部屋で、彼が優しく数字や花の計算を教えてくれた時間は、暗いスラムの生活の中で唯一の「光」だった。


(私、彼のこと……ずっと理想の王子様みたいに思ってた)


 四年間、いつか立派になった彼が迎えに来てくれると信じていた。だから昨夜、恥じらいを捨て、自分が女としてできる最大限の努力をして彼に縋り付いた。どうせこの醜い男のモノになるのなら、せめて初めてはずっと好きだった彼に貰ってほしい、と。だが、彼は私の肌には触れず、ただ優しく服を掛け直してくれた。


『明日の結婚式、僕とニコでめちゃくちゃにしてやる。だから、泣くな』


 あの優しく頼もしい言葉は、ただの慰めだったのだろうか。もう指輪が関節を通ろうとしている。私は結局、この暗闇から抜け出せないまま、この豚のような男の所有物になるのだ。  マリアが絶望にギュッと目を閉じた時、最後に暗闇に浮かび上がったのは、ロレンツォの顔ではなかった。


(……ルカ)


 共に支え合い、喧嘩ばかりしながらも、いつも一番近くで自分を不器用に守ろうとしてくれていた、泥だらけのルカの必死な顔。彼らとも、もう本当にお別れなのだ。  男の脂ぎった手が、マリアの手を強く握りしめた、まさにその時だった。


 ガシャァァァンッ!!

 色ガラスが凄まじい音を立てて粉々に砕け散り、太陽の光を背負って、一人の男が祭壇へと降り立った


「な、なんだ貴様は!?」


 成金が悲鳴を上げるより早く、ロレンツォの長い足が鋭く跳ね上がり、男の鳩尾に的確な蹴りを叩き込んだ。豚のような悲鳴と共に、男の巨体が神父を巻き込んで派手に転がっていく。


「マリア、迎えに来たぞ」


 ロレンツォは、へたり込むマリアの腰を抱き寄せ、その純白のドレスごと軽々と抱き上げた。


「ロレンツォ……!」


 同時に、教会の重い木扉が蹴り開けられた。


 ズガガガガッ! と、天井のシャンデリア目掛けて、ニコの構えた旧式機関銃が派手な威嚇射撃を放つ。


「新婦のお色直しだ! 悪いが、この子は連れて行くよ!」


 硝煙の匂いを漂わせながら不敵に笑うニコの姿に、商会の私兵たちが慌ててライフルを構える。


「ニコ、窓から飛ぶぞ! 僕の計算を信じろ!」

「しくじったら、まとめて海の藻屑だからね!」


 そこからは、息もつかせぬ逃走劇だった。


 追手の銃弾が石畳を跳ねる中、ロレンツォの脳内で『海洋算術』がフル稼働する。彼は風車の回転速度と屋根の傾斜を瞬時に計算し、マリアを抱えたまま、驚異的な跳躍で建物の屋根から屋根へと飛び移っていく。


「ロレンツォ、すごい……っ!」

「僕の計算式に、君の体重の誤差を入れないでくれて助かったよ!」

「ちょっと、女性に向かって失礼ね!」


 軽口を叩き合いながら風を切り裂く。背後では、ニコが追手の足元や頭上の看板を正確に撃ち抜き、敵を次々と木箱や運河の中へとドタバタと転落させていく。血生臭い殺し合いではなく、まるで曲芸のような痛快なチェイスだ。


「……おい、ロレンツォ! お姫様を抱えて逃げるのは結構だが、私たちがこの街へ来た本来の『目的』は忘れてないだろうね!」


背後で機関銃をリロードしながら、ニコが呆れたように怒鳴る。

すると、前方を跳躍するロレンツォは、マリアを片腕で抱えながら、もう片方の手で懐から『真鍮の装飾が施された分厚いレンズ』を取り出し、太陽の光にキラリと反射させて見せた。


「僕を誰だと思っている! 祭壇に乗り込む前に、新郎の控室の金庫からきっちり頂いてきたさ!」


「……チッ、悪党の顔になりやがって! 上出来だよ、鑑定士様!」


ニコがニヤリと好戦的に笑い、追手たちの足元へさらに弾幕を浴びせかける。


ロレンツォの腕の中で抱えられていたマリアは、その光景を見て目を丸くした。 彼らはただ自分のためだけに無謀な救出に来たわけではなかった。新興商会から重要な古代遺物を奪い取るという、彼ら自身の重大な目的と、自分を救うという約束を、この大立ち回りの中で同時に、そして完璧に果たしてのけたのだ。


(……ロレンツォ。あなたは本当に、手の届かない世界に行ってしまったのね)


マリアは、かつての温室育ちの面影を完全に捨て去り、したたかで泥臭い『極上の悪党』の顔をして笑う彼を見上げ、寂しさと、それ以上の深い安堵を覚えていた。



 街の外れ、古い飛行艇の隠しポート。


 そこには、朝一番に「俺があいつを守るんだ!」と無謀にも一人でナイフを握って飛び出そうとしていたルカが、ロレンツォに指示された通り、エンジンを吹かして待機していた。


「ルカ!」

「マリア! よかった、無事で……っ」  


マリアがルカの胸に飛び込むと、泥だらけのルカは顔を真っ赤にして彼女を抱きとめた。


 迫り来る結社の追手の汽笛が、すぐそこまで迫っている。


「さあ、早く乗れ。君たちはこのまま、東の自由都市へ向かうんだ」


 ロレンツォが促すと、マリアはふと足を止め、振り返った。

 そして、ロレンツォの前に歩み寄ると、少しだけ背伸びをして、彼の頬にチュッと、柔らかなキスを落とした。


「……マリア?」

「……うふふ。早朝の、ロレンツォの大声。壁越しに聞こえちゃってたわ」


 マリアは悪戯っぽく微笑み、少しだけ寂しそうに目を細めた。


「あなたが本当に欲しいのは、私じゃないものね。……私の初恋、さようなら。ニコさんを、絶対に守ってあげてね」


 ロレンツォの顔が、一気に耳まで赤く染まる。


 その後ろで、機関銃を肩に担いだニコが「おやおや、お熱いねぇ」とニヤニヤしながらからかっていた。


マリアの初恋のキスを見届けた後、ルカはロレンツォの胸ぐらを軽く小突いた。


「……ロレンツォ。正直、俺はずっとお前が妬ましかったよ。顔も頭も良くて、俺には逆立ちしても勝てねえくらい強い。マリアが惹かれるのも当然だって、ずっと悔しかった」


「ルカ……」


「でもな。お前はすっげえ完璧なヒーローだけど、お前のその肩には、世界を救うとかいう重すぎる荷物が乗っかってる。……マリアを泣かせないで、毎日泥水の中でも、同じ目線で腹の底から笑わせてやれるのは、俺だけだ!」


ルカは真っ赤な顔で、マリアの手を強く握りしめ、ロレンツォを真っ向から睨みつけた。


「俺は、この泥水の中でお前には絶対に負けねえからな! だからお前も、ニコを絶対に泣かせるなよ!」


その真っ直ぐで泥臭い宣戦布告に、ロレンツォは目を丸くし……やがて、心底嬉しそうに、大人の男の顔で柔らかく微笑んだ。


「ああ。……君の勝ちだ、ルカ。マリアを頼んだぞ」


 ロレンツォが照れ隠しに咳払いをしてルカに視線を向けると、ルカは顔を真っ赤にしながらも、男らしく力強く頷いた。


「言われなくても! 俺が、こいつを一生守ってやる!」


 その言葉に、マリアの頬がほんのりと桜色に染まる。

彼女の新しい未来の始まりを告げるように、飛行艇は大きなプロペラ音を響かせ、ステラ・ガルドの青空へと飛び立っていった。


「さて、私たちも行くよ。……大立ち回りのせいで、完全に結社のヘイトを買っちまったからね」


「ああ。追えるものなら、追ってこい」  


ロレンツォとニコは自分たちの船に飛び乗り、結社の艦隊を引きつけるようにして、次なる目的地——育ての親であるガルドの工房へと、全速力で舵を切った。

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