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足手まといの没落貴族を拾ったら、数年後、相棒へと成長した彼から逃げられません  作者: *しおり*
第二部

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真実3

中央記録院の窓を突き破った衝撃が、まだ耳の奥でキーンと鳴っている。

 自由落下の浮遊感が一瞬だけ内臓を持ち上げ、次の瞬間、ロレンツォとニコの身体は自分たちの艇の甲板へと、吸い込まれるように着地した。


「全速だ、出せ!」

 ニコが叫ぶより早く、ロレンツォは操舵輪を握り、スロットルを力任せに捻り込んだ。エンジンの咆哮が夜の霧を切り裂き、艇が弾かれたように加速する。


だが、安堵のいとまは与えられなかった。

 背後の濃霧が、内側から巨大な質量に押し広げられるようにして割れた。

 ヌッと現れたのは、中型艇を小舟に見せかけるほどの、漆黒の鉄壁。結社の首領ドンが座乗する巨大旗艦——『リヴァイアサン級』だ。


ボーーーッ!

 鼓膜を直接蹂躙するような、野獣の咆哮に似た汽笛。

 直後、旗艦の側面から眩い閃光が幾重にも爆ぜた。


「伏せろ!」

 ドォォォォォン!

 海面が巨大なハンマーで叩かれたように爆ぜ、数トンの潮飛沫が雨となって降り注ぐ。至近弾の衝撃波で中型艇の装甲が嫌な音を立てて歪み、キャビンの強化ガラスが粉々に砕け散った。


「……ッ、海洋算術アリスメティック、展開……!」


降り注ぐ無数の鋭利なガラス片。

十四歳の頃の彼なら、悲鳴を上げてニコの背中にすがりついていただろう。


だが、今は違う。


 ロレンツォは瞬時にニコの腕を強く引くと、その大きく成長した身体と広い肩幅で、彼女をすっぽりと覆い隠した。


「……っ!」


 不意に視界を完全に塞がれたニコは、自分の顔が彼の硬く分厚い胸板に押し付けられていることに気づいた。彼女を庇い、背中に降り注ぐガラス片を上質なスーツごと弾き返す彼の腕には、微動だにしない大人の男の力がこもっている。


(……いつの間に、こんなにデカくなりやがったんだ)


 鼻先を掠める、微かなオーデコロンと大人の体温。


一瞬の出来事の中で、ニコは彼がもはや守られるだけのガキではなく、物理的にも自分を完全に凌駕する頼もしい「相棒」へと成長したことを痛烈に突きつけられた。


 ガラスの雨が止むのと同時に、ロレンツォはニコを庇っていた腕を離し、鋭い眼光で前を見据えた。

 ロレンツォの視界が、一瞬にして冷徹な青白い数式に埋め尽くされる。

 脳髄を焼くような熱気。血管の拍動が、周囲の物理定数を読み解くクロック刻みへと同期する。


着弾までの秒数、風圧による偏差、波のうねりが生む船体の傾斜角——。

 ロレンツォは脳内を駆け巡る膨大な「解」に従い、狂ったように操舵輪を回した。


ポート、十五度! うねりに乗せる!」

 艇がジグザグに海面を跳ねる。まるで意思を持っているかのように、砲弾の柱の間をすり抜けていく。


「こっちも、ただじゃ済まさないよ!」

 ニコが血の匂いを纏って立ち上がる。背中の機関銃(アルドの形見)が、夜の闇をオレンジ色の火花で焼き払った。迫り来る飛空艇の編隊に向け、執拗なまでの弾幕を叩き込む。


カキンッ! と甲板を弾く鈍い音。

 跳ね返った破片が、ニコの頬と肩を浅く切り裂いた。

 鮮血が舞う。だが、彼女は瞬き一つしなかった。ただ、短くなったタバコを奥歯で噛み潰し、さらに引き金を引き続ける。その横顔には、自分の痛みよりも、背後を守る「盾」としての冷徹な執着だけが宿っていた。


「……ニコ、前を見ろ! 暴風域ストーム・アイだ!」

 ロレンツォが指差す先、逃げ場のない海域に、巨大な黒い竜巻が海と空を繋いでいた。

「突っ込むぞ! 死ぬ気で掴まってろ!」

「……ふん、死ぬのはあんた一人で十分だよ!」


中型艇は、物理法則を無視したような加速で、荒狂う嵐の壁へと突入した。


 視界が真っ白な泡と轟音に飲み込まれ、結社の巨大旗艦の影がみるみるうちに遠ざかっていく。


 嵐を抜けた先には、嘘のように抜けるような青空が広がっていた。


「ははっ……なんとか、生き延びたな」


 甲板に仰向けに倒れ込んだロレンツォが、荒い息を吐き出しながら笑いをこぼす。


「笑い事じゃないよ。弾薬はすっからかん、装甲もボロボロだ。……まぁ、あの化け物みたいな巨大旗艦から逃げ切れたんだ。上出来すぎるくらいさ」


 すぐ横で大の字になったニコも、顔についた煤を無造作に拭いながら、どこか晴れやかな声で応じた。


この数年で一番の死線を越えた二人の間には、血と泥を啜り合ってきた確かな相棒としての空気が流れていた。 

バサリ、バサリ、と。

巨大な帆が風を孕む、規則的な音が聞こえてくる。


そこは、幾千もの風車が丘を埋め尽くし、空には古い飛行艇がのんびりと羽ばたく、陽光の街——『ステラ・ガルド』。 


結社や軍の暗い影がまだ完全に落ちていない、カラッとした活気のある自由都市だ。 


だが、二人の艇はもはや満身創痍だった。

装甲は焼け焦げ、エンジンからは黒い煙が細く棚引いている。ロレンツォは重い足取りで裏港の桟橋に艇を接舷させると、油汚れを拭うことも忘れて、深い溜息を吐いた。喉の奥が砂を噛んだように乾いている。


「……まずは船の修理部品を探してくる。ニコは、その傷を診せておけ」


「かすり傷だよ。それより、まともなタバコを調達してきな」


ニコは無造作に肩の血を拭うと、そっぽを向いた。そして、港を見下ろす丘の上にある豪奢な建物を、鋭い眼光で睨みつける。


「……中央記録院の解析でわかった次の暗号を解くには、古代の『翻訳レンズ』が必要だ。それを不当に独占してコレクションしているのが、この街を牛耳る新興商会の支部長……丘の上の教会で、明日ふざけた結婚式を挙げるっていう成金ジジイだ」


「ああ。わかっている」


ロレンツォは、懐の海図にそっと触れ、氷のように冷たい目で丘の上の教会を見据えた。


「明日の結婚式の警備の隙を突き、あの成金の金庫から『翻訳レンズ』を奪い取る。……それが、僕らがこの街へ来た唯一の目的だ。無駄な騒ぎは起こさない」


「上等だ。……じゃあ、私は部品屋と下見に行ってくるよ」


ニコは咥えタバコのまま、不器用にぶっきらぼうに告げると、足早に人混みへと消えていった。



 頭上では、帆布と木材で組まれた古い飛行艇がバサバサと羽ばたきながらのんびりと空を巡っている。広場の噴水では子どもたちが水飛沫を上げてはしゃぎ、石造りの街並みには、海風を利用した巨大な風車の影がゆっくりと落ちては過ぎていく。


 市場の通りに出ると、香ばしく焼けたパンとチーズ、そして色鮮やかな香辛料の香りが、活気ある商人たちの客引きの声とともに路地を満たしていた。


 市場から漂ってくる、パンと色鮮やかなスパイスの匂い。


「……眩しいな」ロレンツォは思わず目を細めた。


この四年間、泥水と血の匂い、硝煙と悲鳴しか知らない修羅場を渡り歩いてきたロレンツォにとって、この街の「平和すぎる日常」は少し眩しく、戸惑うほどだった。


誰もが明日を疑わず、ただ純粋に今日という日を謳歌している。 そんな彼の様子に気づいたのか、前を歩いていたニコがふと屋台に立ち寄り、何かをこちらへ放り投げてきた。


「おっと」


ロレンツォが慌てて受け取ったのは、よく冷えた果実水が入ったガラス瓶だった。


「……ほら、パン代の残りだ。お前は少し休んでな。私は部品屋を当たってくる」


ニコは咥えタバコのまま、不器用にぶっきらぼうに告げると、足早に人混みへと消えていった。 


冷たいガラス瓶の感触に、ロレンツォは少しだけ頬を緩めた。

甘く冷たい果実水を喉へ流し込むと、焼け付いていた内臓が心地よく冷やされていく。


彼はそのまま、活気に満ちた石畳の広場を一人で歩き出した。 


陽光の下、上質な黒いスーツを着崩した長身の青年は、この明るい街においてひどく異質な影を落としていた。

 宗教画から抜け出してきたような完璧な美貌でありながら、その瞳の奥には氷のように冷たく鋭い光が沈み、剣ダコに覆われた手が常に腰の刃の距離を測っている。


すれ違う陽気な街の住人たちは、彼から無意識に発せられる「本物の修羅場」の気配に本能的な恐れを抱き、まるで波が割れるように自然と道を空けていった。


周囲から浮き上がる己の影を感じながら、ロレンツォはふと、遠い過去の記憶を辿っていた。 


かつてバルディ家の豪奢な屋敷で暮らしていた頃。

退屈な法学や算術の授業から逃げ出すため、慌てふためく従者を尻目に、一人でこっそりと街の喧騒へ飛び出していた幼い日のこと。


あの頃の自分にとって、市場のスパイスの匂いや雑踏の熱気は、ただ純粋な「無邪気な遊び場」でしかなかった。 

 だが今は違う。

四年間、底辺の泥水を啜り続けてきた彼の目には、この眩しいほどの平和の裏に潜む暴力の気配や、路地裏に落ちる影の濃さが痛いほどに透けて見えてしまうのだ。 


その爽やかな味わいと、市場の喧騒に漂うパンの香りが、ふと彼の脳裏に「四年前の記憶」を呼び覚ました。 


——十四歳の頃。水上都市ヴェネトの地下水路で結社に襲われた際、ロレンツォとニコはルカやマリア、ピエトロたちを逃がした。

安全な逃げ先としてガルドのツテを頼り、彼らを乗せたのが、この『ステラ・ガルド』行きの貨物船だったのだ。


(……あいつらも、この青空の下で、あの飛行艇を追いかける子どもたちのように平和に笑っているだろうか)


四年前の、埃っぽい屋根裏部屋で硬い黒パンを分け合った温かい記憶が蘇る。


 ふと、焼きたてのパンを並べる店先から、聞き覚えのある声がロレンツォの耳に飛び込んできた。


「小父さん、このパン、昨日から並んでるやつでしょ? ならもう少し安くしてよ。銅貨二枚なら全部買い取ってやるからさ」


かつて自分がヴェネトのスラムでやっていたのと同じような、強気な値切り交渉。

少し低く掠れたその声に、ロレンツォの足がピタリと止まる。


(まさか……)


自らを避けていく人混みを掻き分け、声の主へと近づく。


「……ルカ?」


ロレンツォが声をかけると、紙袋を抱えた青年が振り返った。


「あ……?」一瞬の空白。やがて、その目が限界まで見開かれ、紙袋が手から滑り落ちそうになる。


「ロレンツォ……!? 嘘だろ、お前、生きて……それに、なんだよその背!」


十四歳の頃は十三歳だったルカ。四年の月日が流れ、十七歳になった彼は、見違えるほどたくましい青年へと成長していた。

かつてはロレンツォより小柄だったはずが、今や背丈はロレンツォの肩に迫るほどに伸び、泥だらけだった顔つきには精悍さと大人の翳りが加わっている。


「ルカ、急に立ち止まってどうしたの……あ」


その後ろからひょっこりと顔を出したのは、十六歳になり、ハッとするほど艶やかな娘へと成長したマリアだった。かつての幼さは消え、透き通るような肌と長く伸ばされた髪が海風に揺れている。


 そして彼女の隣には、かつてロレンツォの足にしがみついていた幼いピエトロが立っていた。

十二歳ほどになった彼は、もうロレンツォの腰のあたりまで背が伸びており、信じられないものを見るように目を丸くしている。


「……本当に、お前らなのか」


ロレンツォの胸の奥で、熱いものが込み上げた。四年の月日が、彼らを確かに『大人』へと近づけていたのだ。


「お前こそ! 見違えたぜ。あのひ弱だったお坊ちゃんが、すっかりデカくなって……おまけに、なんか危ねえマフィアみたいな面構えになりやがって!」


ルカが弾かれたように駆け寄り、ロレンツォの肩をバンバンと力強く叩く。ピエトロも「お兄ちゃん、すっげえかっこよくなった!」とはしゃいで飛びついてきた。


 懐かしい温もりに、ロレンツォの精悍な頬が自然と柔らかく緩む。


「……みんな、無事でよかった。本当に……」


あの時、ヴェネトから逃がした彼らが、この平和な青空の下で確かに生きていてくれた。その事実が何より嬉しくて、ロレンツォは微笑みながらマリアへと視線を向けた。


 ——だが、その笑顔は一瞬で凍りついた。

 年頃の娘らしく成長したマリアの瞳には、再会の喜びが微塵も浮かんでいなかったのだ。


 そこにあるのは、深い、底の見えない沼のような絶望だけだった。


「……変な格好。四年前より、ずっと『掃除屋』らしくなっちゃって」


マリアはカゴを置き、不自然に震える手でシーツを広げた。その動作には、現実から逃避しようとするような痛々しい集中力があった。


「……マリア、顔色が悪いぞ。何かあったのか」


ロレンツォが一歩踏み出すと、隣でパンを囓っていたルカが、吐き捨てるように言葉を繋いだ。


「……無駄だよ。こいつ、明日にはこの街にいないからな」

「ルカ、やめて」


「……隠したって、ロレンツォにはバレるだろ! ……こいつ、新興商会の成金ジジイに売られるんだ」


ルカは紙袋を握り潰さんばかりに力を込め、ギリッと唇を噛みちぎるように言った。


「ヴェネトから逃げてきた俺らを拾ってくれたここの孤児院が、商会に潰されたんだ。奴ら、黒砂結社みたいな分かりやすい暴力は使わねえ。……『法律』と『金』って見えない鎖で、俺たちから全部奪っていったんだよ」

「見えない鎖、だと……?」


「街の工場を買い叩いて大人たちの仕事を奪い、孤児院の土地の権利書を言葉巧みに騙し取った。そして、法外な立ち退き料を『合法的な借金』として院長先生に押し付けやがったんだ。抗議しようにも、街の警備隊や裁判官まで、すでに商会の金で買収されてた……っ!」


ルカの目から、悔し涙がボロボロとこぼれ落ちる。


「……僕がヴェネトの屋根裏で教えた、不正な契約を見抜く法律の知識は……通用しなかったのか」


ロレンツォの問いに、ルカは首を横に振った。


「いくら契約書の数字が合わねえって訴えても、ハンコを押す権力者たちが全員グルじゃどうしようもねえ。……結局、マリアが借金のカタに愛人として身売りするしか、孤児院の小さなガキ共が路頭に迷わずに済む方法はなかったんだ」


明日の朝、迎えが来る。愛人としてな、と吐き捨てるように言ったルカの言葉に、ロレンツォは息を呑んだ。


法や正義の知識など、圧倒的な金と権力の前では紙切れ同然に等しい。


ピシャリ、と。


 洗濯物の濡れたシーツが、石畳に落ちた。


 マリアはそれを拾おうともせず、ただ、回る風車の巨大な影が自分を通り過ぎるのを、じっと見つめていた。


「……いいのよ。これで、ピエトロたちが明日もパンを食べられるなら」


絞り出すような彼女の声は、高く突き抜けるような青空には、あまりにも不釣り合いで、乾いていた。 ロレンツォは、懐に隠した重い『黒いシリンダー』に触れた。


 四年間、死ぬ気で磨いた自分の「力」。


 だが、今、目の前で静かに壊れようとしている少女一人の運命を前に、その力は何を成せるのか。 カラン、と。遠くで飛行艇のベルが鳴り、潮風がルビーの短剣を冷たく撫でた

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