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足手まといの没落貴族を拾ったら、数年後、相棒へと成長した彼から逃げられません  作者: *しおり*
第二部

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12/35

真実1

退廃的な熱気と、むせ返るような香水や葉巻の匂い。


海に浮かぶ不夜城、豪華カジノ船の奥に隠されたVIPバー。ここはあらゆる組織の思惑が交差する「絶対の中立地帯」であり、極上の情報と金が飛び交う裏社会の心臓部だ。  だからこそ、最高峰の情報屋であるヴィンセントや、欲望を持て余した権力者を手玉に取るカルメンにとって、このバーは獲物を待つための永遠の指定席だった。


あれから四年の月日が流れても、彼らは相変わらずこの席で退屈しのぎのゲームを楽しんでいる。


だが、そのカウンターの隅に座る『彼』は、もう以前の彼ではなかった。


上質な黒いスーツを無造作に着崩した、長身の青年。


 かつてフレスコ画の天使のようだと評された美貌はそのままに、その輪郭には精悍な翳りが落ち、伏せられた長い睫毛の奥には、氷のように冷たく鋭い大人の男の眼差しが宿っている。  グラスに触れるその大きな手は分厚い剣ダコに覆われ、いくつもの微かな傷跡が、彼が温室ではなく修羅場を潜り抜けてきたことを無言で物語っていた。


「……お客様」


 白髪のバーテンダーが、恭しく声をかけた。その目は、目の前に座る危険な色気を纏った青年と、四年前にこの席で悔し涙を堪えていた小柄な少年の面影を、正確に重ね合わせていた。


「今夜は、以前お出しした『甘い果実水』になさいますか?」


 プロ特有の、ほんの僅かな皮肉と敬意を込めた問いかけ。

 青年——18歳になったロレンツォは、ふっと口角を上げ、低く落ち着いた声で答えた。


「いや。この店で一番強い蒸留酒を頼む。氷は要らない」


バーテンダーが口元を綻ばせ、琥珀色の強い酒を注ぐ。


ロレンツォがそのグラスを傾け、喉の奥が焼けるような強いアルコールを平然と飲み下した。


 その洗練された静かな所作と、退廃的な色気を纏った圧倒的な美貌は、当然のごとくVIPバーにいる裏社会の住人たちの視線を釘付けにしていた。


「……おい、カウンターのあの若い男、何者だ?」


「見ない顔だな。だが、ただの貴族の坊ちゃんじゃない。あの分厚い手と冷たい眼光……どこかの新興マフィアの幹部か? それとも凄腕の殺し屋か……」


 ヒソヒソと交わされる、好奇と警戒が入り混じったざわめき。誰もが彼を極上の獲物、あるいは危険な捕食者として値踏みしている。


 だが、当のロレンツォは周囲の熱視線など全く意に介していなかった。


 彼の脳裏をよぎるのは、自らの死を偽装して姿を消し、狂ったように海洋算術を回し、血反吐を吐いてナイフを振るい続けたこの四年間の記憶だ。毎日泥水を啜り、幾つもの死線をくぐり抜けてきた彼にとって、かつて自分が蚊帳の外の子どもとして怯えていたこのVIPバーの空気すら、もはや毒にも薬にもならない退屈な作り物のようにしか感じられなかった。


 これほど目立つ極上の男を、あの女が見逃すはずがない。


「——あら? 見覚えがあると思ったら、あの時の可愛い坊やじゃない」


 背後から、濃厚な薔薇と麝香の香りがふわりと漂ってきた。  真紅のドレスに身を包んだカルメンと、白スーツのヴィンセントだ。カルメンは四年前と変わらぬ妖艶な笑みを浮かべ、しなやかな足取りでロレンツォの隣に滑り込んできた。


四年の月日は、彼ら裏社会の住人たちをただ年老いさせたわけではない。

新興商会が台頭し、勢力図が激変する過酷な海を泳ぎ切った二人は、以前よりもさらに隙のない、危険な人物としてのオーラを纏っていた。


ヴィンセントの白スーツはより洗練された仕立てに変わり、軽薄な笑みの奥には、裏社会の情報を牛耳る冷酷な仕切り役としての凄みが増している。

 カルメンもまた、単なる権力者の愛人という立ち位置をとうに抜け出し、自ら夜の街を支配する女帝のような貫禄と毒々しさを放っていた。


カルメンは四年前と変わらぬ妖艶な笑みを浮かべ、しなやかな足取りでロレンツォの隣に滑り込んできた。


「大きくなったわねぇ。でも、背が伸びただけで、まだ中身はミルクの匂いが抜けていないんじゃない?」


 カルメンの細く白い指先が、からかうようにロレンツォの頬へ伸びる。四年前、彼を真っ赤にして壁際まで追いやった、大人の女の色香。


 ——だが、ロレンツォはもう、逃げも俯きもしなかった。


 それどころか彼は、微塵も動揺することなく、カルメンの手首をそっと掴むと、そのまま強引にぐいっと引き寄せる。  バランスを崩したカルメンの腰を空いた片手でしっかりと抱きとめ、彼女の顔が胸元に触れるほどの間合いで、退廃的な熱を帯びた瞳で見下ろす。


「あの夜教えてくれると言った『大人の秘密』……今度は、僕が違う遊びを教えてあげようか?」


 耳元で低く囁かれた、危険な男の気迫。


 百戦錬磨のカルメンの顔が、一瞬にしてカッと熱を持った。完全に手玉に取っていたはずのヒヨッ子から浴びせられた、本物の色気と圧倒的な力の差。


「……っ、ふふ……随分と、悪い男になったのね」

カルメンは耳まで赤く染めながら、降参するように笑ってロレンツォの胸から離れた。


「驚いたよ。カルメンを赤面させるなんてね」


 隣に座ったヴィンセントが、呆れたように肩をすくめて乾杯のグラスを掲げた。


「四年前に結社の艦隊に追われ、『沈黙の海峡』で海の藻屑になったと噂されていたバルディの坊ちゃん

が、こんな立派な亡霊になって戻ってくるなんて。……完璧な死の偽装だったな」


「死んだことにしておかなければ、厄介な重荷を抱えたまま、牙を研ぐ猶予がなかったからな」


ロレンツォがグラスを置き、静かに返す。


「賢明だ。……だが、この四年で世界はずいぶんと変わっちまったぜ」

ヴィンセントはシガーに火を点け、紫煙と共に忌々しげに吐き出した。


「『新興商会』の連中が、最新のディーゼルエンジンと工場設備で富を独占し、裏社会も表の世界も、完全に資本主義の怪物に飲み込まれた。……昔は職人が一ヶ月かけて作った銃を大事に使ってたもんさ。だが今は、内蔵された歯車で自動的に跳弾や弾道を計算するスマートライフルが大量生産され、使い捨てられてる。未熟な素人でも、金さえ払えば一瞬でプロの殺し屋になれる時代だ」


 ヴィンセントは、ロレンツォの顔を横目で見た。


「魂のない最新兵器が、金と効率だけで世界を牛耳る時代。……自ら泥を被って世界のバランスを保っていた旧貴族の矜持なんて、もはや誰も覚えちゃいない、時代遅れの遺物さ」


ヴィンセントの言葉は、この数年で激変した裏社会の真理を突いていた。


 だが、ロレンツォの胸の内には、父が命を懸けて封印し守り抜いた旧貴族の矜持と、ニコがアルドの旧式機関銃を手放さずに纏い続ける人間の泥臭さへの絶対的な信頼があった。


機械がどれだけ計算を自動化しようと、自らの脳髄を焼き切りながら展開する『海洋算術』の深淵と、血反吐を吐いて命を削る戦場での痛みには決して届かない。


「時代遅れで結構だ」


ロレンツォは微塵も揺るがず、冷たく言い放った。


「機械がどれほど計算を早めようと、最後に引き金を引く人間の恐怖までは消せない。……効率だけで作られた安い殺意など、僕の剣の届く間合いではない」


 その言葉には、四年間、海洋算術を対人戦闘にまで昇華させ、数多の修羅場を脳内の計算と刃一本でねじ伏せてきた最強の剣士としての、絶対的な自負が宿っていた。


 そして何より、彼の隣に立つ相棒もまた、時代遅れの旧式機関銃を背負い、自身の血と痛みを代償にして戦う本物の人間だった。


「……相変わらず、ここは香水の匂いがキツくて鼻が曲がりそうだ」


 不意に、バーの入り口から低い声が響いた。  情報収集を終えて合流したニコだ。彼女は四年前と同じ、薄汚れた革ジャケットを着て、背中にはあの旧式の機関銃を背負っている。誰もが最新兵器に乗り換える中、時代遅れの重い鉄塊を背負う彼女の姿は、逆に底知れぬ凄みを放っていた。


「やあ、ニコ。相変わらず色気がないね。たまには僕と——」


 ヴィンセントが軽口を叩きながら、ニコの肩に馴れ馴れしく腕を回そうとした、その瞬間だった。


 ガンッ!!  ヴィンセントの手首が、万力のような強い力で空中でガシッと掴み止められた。


「……痛っ!?」


 ヴィンセントが顔をしかめて横を見ると、ロレンツォが氷のように冷たい殺気を放ち、彼を見下ろしていた。


「……気安く触らないでもらえるか。彼女は僕の相棒だ。あんたの退屈しのぎの火遊びに、これ以上付き合わせる気はない」


 ロレンツォは冷たく言い放ち、ヴィンセントの手首を乱暴に振り払った。

 そして、懐から上質な純白のシルクのハンカチを取り出すと、ヴィンセントに触れた自分の手を、まるで汚物でも触ったかのようにキュッキュッと丁寧に拭き始めたのだ。


泥水を啜り、血まみれの短剣を握り続けてきたというのに、嫌いな相手の安物の香水の匂いだけは我慢できないらしい。  

かつての「僕はもう大人だ!僕も会話に入れろ!」とキャンキャン吠えていた潔癖なお坊ちゃんの面影を感じさせるその仕草に、ヴィンセントは引き攣った笑いを浮かべた。


 ニコは一瞬驚いて目を瞬かせたが、すぐに照れ隠しのように


「……生意気な相棒だ」


と呟き、ロレンツォの綺麗にセットされた髪を、昔のように無造作にガシガシと掻き回した。


「なっ……や、やめろニコ! せっかく大人の男らしくセットしたのに崩れるだろうが!」


 大人の色気でカルメンを赤面させたはずの青年が、ニコに髪を撫で回された途端、14歳の頃と変わらない甲高い声を上げて身をよじった。


「なんだい、背だけ伸びても中身はキャンキャン吠える小型犬のままだね」


「だ、誰が小型犬だ! 僕はもう……っ」


 顔を真っ赤にして抗議するその姿は、先ほどの氷のような殺気を放っていたマフィアのような男と同一人物とは思えないほど、年相応のあどけなさを残していた。


 ヴィンセントは呆れたように肩をすくめた。


「……なるほどね。狂犬かと思えば、ずいぶんと首輪の短い過保護な番犬らしい」


 ヴィンセントが苦笑しながら尋ねる。


「……で、死の偽装までして稼いだ四年間が終わって、これからどうするんだい?」


 ヴィンセントがシガーの煙をくゆらせながら、探りを入れるように目を細めた。


「最近は『雨雲』が分厚くてね。イゾラの海も荒れ模様だ。どこもかしこも『青い小鳥』の餌を買い占めてるから、動くなら気をつけた方がいいぜ」


 十四歳の頃——海賊の闇市場で、ニコと情報屋が交わしていたこの『裏社会の符丁』が理解できず、蚊帳の外で唇を噛み締めていた記憶が、ロレンツォの脳裏を掠める。 だが今の彼は、もう黙って果実水を飲まされるだけの子どもではない。


 ロレンツォは強い蒸留酒が入ったグラスを傾け、氷のように冷たく、知的な瞳でヴィンセントを真っ向から見据えた。


「『雨雲(追手)』の中心は、東の商会だろう。結社が海の底から『古い錨』を引き揚げるために、私兵の『番犬』を大量に放っているからな。……おかげで『青い小鳥』の相場は、今朝の時点で木箱一つ金貨五枚まで跳ね上がっているはずだ」


「……おや」


 ヴィンセントのシガーを持つ手が、ピタリと止まる。


 ロレンツォはグラスを置き、言葉の追撃を緩めない。


「あんたのところの西の流通ルートを使えば、その相場から三割は抜ける。結社の動きから目を逸らすための隠れ蓑を探しているんだろう? ……だとしたら、僕らの船に情報を卸すのが、一番割のいい投資だと思うがね」


 極めて流暢に、そして完璧な文脈で組み上げられた、高度な『符丁』による駆け引き。  ただの言葉遊びではない。最新の裏社会の相場と、ヴィンセントの腹の内まで読み切った上での、会話を支配する大人の交渉術だった。


「……ふふっ、あはははっ!」


 沈黙を破ったのは、カルメンの艶やかな笑い声だった。


「聞いた、ヴィンセント? あの時、あなたの隣で震えてただけの可愛い坊やに、完全に手玉に取られてるじゃない!」


「……参ったな。あの堅物のお貴族様の息子が、まさかここまで見事に戦場での生き残り方をマスターしているとはね」


 ヴィンセントは両手を挙げて降参のポーズを作り、苦笑いを浮かべた。  隣に座るニコは何も言わなかったが、その口角が、自分が育て上げた相棒を誇るように、微かに、そして確かに吊り上がっていた。


 ヴィンセントとカルメンは「お手上げだ」というように両手を上げ、ヒラヒラと手を振りながら夜の喧騒の中へと消えていった。


二人の姿が見えなくなると同時に。

 ロレンツォは「ふぅ……っ」と長く息を吐き出し、グラスの横に置かれていたチェイサーを一気に飲み干した。大人の余裕に満ちていた顔が、強いアルコールの刺激で微かに歪む。


「……相変わらず、無理して背伸びしてるねぇ」

 ニコが呆れたようにタバコの煙を吐き出しながら、ポケットから『甘いキャラメル』を一つ、カウンターに放り投げた。


「っ、無理などしていない。大人の男の嗜みとしてだな……それに、あいつらに舐められるわけにはいかなかったから……っ」


「はいはい。顔に出てるよ、お坊ちゃん。強い酒で胃を焼く前に、糖分を入れときな」


ロレンツォは少しだけバツの悪そうな顔をして口答えしようとしたが、結局大人しくキャラメルを口に放り込んだ。甘い味が喉の焼け付く痛みを和らげ、彼の精悍な顔つきが、ほんの一瞬だけ、ニコに守られていた頃の少年のそれに戻る。


ロレンツォは舌の上でキャラメルを転がしながら、空になったグラスの底に残る水滴を、親指の腹でゆっくりと拭った。


「……イゾラの港で、あんたに銀貨二枚を引ったくられてから、千三百二十二日だ」


唐突な数字の羅列に、ニコは新しく火を点けようとしていたマッチの手を止めた。


「よく覚えているな。なんだい。今更、あの時のパン代の恨み言か?」


「極寒の北海で結社の追手から三日三晩隠れ続けた時も、砂漠の廃墟で弾切れになって、生死をかけながら短剣一本で包囲網を抜けた時も……長かった。本当に」


ロレンツォの声は低く静かだったが、カウンターに置かれた彼の分厚い手——剣ダコと無数の傷跡に覆われた掌が、微かに、しかし確かに熱を帯びて震えていた。


彼にとって、この千三百二十二日が『長かった』本当の理由は、追手との死闘の過酷さだけではない。

どれだけ血を流して彼女の隣を歩いても、彼女の魂の奥底に棲みつく過去の男の幻影に決して触れられないという、痛切な無力感と絶望を幾度も見せつけられてきたからだ。


ある日の夕暮れ。


雨が降る薄暗い闇市場の路地裏で、ニコは外套を深く被った裏社会の情報屋と接触していた。


『……これで全部だ。イゾラの結社の動きと、「あの酒場」周辺の警備状況を教えな』


ニコが差し出したのは、昨日命がけで手に入れたばかりの、ズッシリと重い金貨の入った革袋だった。

ロレンツォは物陰で息を呑んだ。

それは本来、底を突きかけている彼女の弾薬と、防寒具を買うためのなけなしの路銀だったはずだ。


『相変わらず物好きだねぇ。自分の首に懸かった懸賞金が跳ね上がってるってのに、わざわざ自分の弾薬代を削ってまで、イゾラのただの酒場に防衛網を敷いてやるなんてよ』


呆れる情報屋に、ニコは冷酷な掃除屋の顔で言い放った。


『……あの店には絶対に結社の火の粉を被らせるな。もし近づくバカがいたら、ヴィンセントのルートを使ってでも裏から潰せ』


自分の命が危ないというのに。

彼女は、決して手の届かない光の世界にいる初恋の男の平穏を、自分の命を削ってまで裏から守り抜こうとしていたのだ。


さらにロレンツォを絶望させたのは、彼女が密かに抱え続けている『捨てきれない未練』の方だった。


また別の街。

照りつける太陽の下、極限の逃避行の中で、ニコの足がとある果物屋の店先でピタリと止まった。

彼女は周囲の目を盗むようにしてロレンツォに背を向け、腰の革ポーチから、すっかり黒ずんでしなびてしまった古いレモンを取り出し、こっそりと捨てた。

代わりに、手の中に残っていた最後の銅貨一枚で、一番香りの強い新しい『黄色いレモン』を買い求めたのだ。


その夜。

見張りのために冷たい岩穴の入り口に座り込んでいたニコの姿を、ロレンツォは浅い眠りの底から静かに見つめていた。


彼女は膝の上で両手で包み込むようにして新しいレモンを見つめ、そっと顔を近づけて、その爽やかな柑橘の香りを深く吸い込む。


『……ジュリオ』

かすかに動いた唇。かつてあのイゾラの静かな酒場に満ちていた香り。


彼女は、どれほど自分は血生臭いババアだと強がり、彼から自ら遠ざかろうとも。決して会うことのできない彼の匂いの代わりとして、街に立ち寄るたびに新しいレモンを買い求め、その幻影にすがり続けていたのだ。


「会えなくても、せめてこの匂いだけは手放したくない」という、あまりにも惨めで、ひたむきな未練。


(……僕はまだ、彼女の心の中にある過去の男の幻影には勝てない)


自分がどれだけ彼女の隣で泥水を啜り、彼女の右の死角を守るために血を流して強くなろうとも。

その無力さに歯を食いしばりながら、ロレンツォは静かに、そして狂気的なまでの執念で、短剣を握る自身の腕に力を込めてきたのだ。


怯えていた無力な少年が、死線を潜り抜け、血を流し、彼女の隣に立つためだけに駆け抜けた四年間。


その執念の重みが、吐き出す息の熱に混じっている。

ニコはマッチの火をタバコの先端に押し当て、深く吸い込んだ。


紫煙が二人の間を白く遮る。


文句を言いながらも、ニコの視線はカウンターの上に置かれたロレンツォの手元へと落ちた。


十四歳の頃、初めて自分の背中にすがりついてきた時の彼は、一度も労働を知らない白く柔らかい指をしていた。


それが今や、分厚い剣ダコと無数の刃傷、火傷の痕に覆われた、完全に「裏社会の住人」のそれに変わってしまっている。


「……随分と大きくて、汚い手になっちまったね」 ニコは自嘲するように小さく息を吐き、咥えタバコを揺らした。


「あんたは本来、綺麗な服を着て、日の当たる場所でペンや本だけを握っているべき人間だった。……ごめんよ。私があんたの人生を、こんな血と油まみれの泥水に引きずり込んじまった」


彼女の言葉には、自分という疫病神が彼の未来を汚してしまったという、拭いきれない痛切な罪悪感が滲んでいた。

だが、ロレンツォは微塵も揺るがなかった。


彼はカウンターに置かれていたニコの小さな手を、自身のその傷だらけの大きな掌でそっと、しかし力強く包み込んだ。


「……」


ニコの肩がビクッと跳ねる。


「謝るな。この傷は、僕が君の隣に立つために自ら望んで刻んだ誇りだ」

 ロレンツォの退廃的な熱を帯びた瞳が、ニコの漆黒の瞳を真っ直ぐに射抜く。


「この手で君を守れるなら、僕は何度でも泥を掴む。……君の隣以外に、僕の帰る場所なんてない」


静かだが、大人になった男としての逃げ場のない宣告。

ニコは顔をカッと赤く染め、「……バカが」と悪態をついて、誤魔化すように彼の手から自分の手を引き抜いた。


「……十八歳だ」

 ロレンツォはチェイサーのグラスを置き、首元をきつく締めていたシルクのネクタイを少しだけ緩めた。胸の奥で、血液が沸騰するような、重く激しい鼓動が鳴っている。


「父上が遺した『黒いシリンダー』。……あの忌まわしい封印が、ようやく解ける」


その言葉を口にした瞬間、バーの喧騒が遠のき、耳の奥が痛くなるほどの静寂が二人の間に落ちた。

 四年間、結社を潰すというたった一つの目的のために、互いの死角を預け、死線を越えてきた。その集大成が、今夜ついに始まるのだ。


ニコは無言のまま、カウンターに落ちたタバコの灰を指先で弾いた。

「……ナイフを持つ手は震えてないだろうね、鑑定士様」


「誰に口を利いている。僕の右の死角には、世界一腕の立つ、野蛮で口の悪い護衛がついているんだ。……外すはずがない」

 ロレンツォの薄い唇が、凶暴で退廃的な弧を描く。


ニコは呆れたように鼻を鳴らすと、スツールから立ち上がり、背中の機関銃の重みを確かめるように担ぎ直した。


「行くよ。十八歳の誕生日パーティーの余興にしちゃ、これから開けるプレゼントは少しばかり血生臭くなりそうだからね。……しっかりついてきな、相棒」






狂騒のカジノ船のざわめきと、鼻の奥にへばりつくような甘ったるい香水の匂い。それが、夜の海が運んでくるベタつく潮風の冷たさに塗り替えられていく。


 四年前、鉄屑の街から逃げ出した時に乗っていた、海に浮かぶ工具箱のようなオンボロ艇ではない。居住用のキャビンを備えた中型艇の床下からは、ディーゼルエンジンの低い振動が足の裏を通して絶え間なく伝わってきていた。


この船に買い替えた理由は、他でもないロレンツォのせいだ。


 百五十センチ台半ばでピタリと成長が止まっているニコに対し、ここ数年でロレンツォは骨格そのものが別人のように軋み、縦にも横にも急成長した。かつての小型艇では、すれ違うたびに彼の大柄な肩や分厚い胸板がぶつかり、物理的に身動きが取れなくなってしまったからである。


ロレンツォが手慣れた動作で操舵輪を回し、オート操舵に切り替えた後のことだった。

 薄暗いオレンジ色のランプだけが点るキャビンへ降りてくるなり、ニコはうんざりしたように首の骨をポキリと鳴らした。


「あー、頭が痛い。他人の匂いが染み付いて息が詰まるよ」


 四年前と全く変わらない無防備な動作で、ニコはむぞうさに革ジャケットを脱ぎ捨てる。そして、そのままよれよれのシャツのボタンに指をかけ、無頓着に薄いキャミソール姿になろうとした。


——昔のロレンツォなら、顔に血を上らせて壁際まで飛び退いていただろう。


 だが、十八歳になった彼は、壁際のソファに浅く腰を下ろしたまま、微かに眉間を寄せただけで一歩も動かなかった。


(……勘弁してくれ)


 奥歯を噛み締め、ロレンツォは喉の奥に張り付いた乾いた息を、気付かれないよう静かに吐き出した。

 体格も腕力も完全に逆転した今、その気になれば一瞬で彼女の細い手首を壁に縫い止めることができる。カジノのフロアで浴びせられた計算高い女たちの視線には微塵も動じない彼だが、この無防備で小さな相棒が晒す無自覚な隙だけは、どうしようもなく「男」としての本能の底をざわつかせてくる。


ロレンツォは静かに視線を足元の床材へ落とし、耳の裏に微かな熱の偏りを感じながら、普段より一段低い声で口を開いた。


「……ニコ。その辺にしておけ」

「あ? なんだい。埃臭いんだよ、あの船は」

「僕の前で、無防備に肌を晒すなと言っているんだ」

「…………」


シャツを脱ぎかけていたニコの指先が、不自然にピタリと止まった。

「なんだい、今更。ガキのくせに……」

 昔のように鼻で笑い飛ばそうと振り返った彼女の喉の奥で、ヒュッと小さく空気が鳴る。


狭いキャビンの逆光の中、視線の先にあったのは、かつて自分を見上げてキャンキャン吠えていた華奢な少年の顔ではない。

 逃げ場を塞ぐように影を落とす、大人の男の広い肩幅。自分を見下ろすその暗い瞳には、ひた隠しにされた退廃的な熱が、ひたひたと波打っていた。


チリッと、背筋を微弱な電流のようなものが駆け上がる。


 逃げ場を塞ぐように影を落とす、大人の男の広い肩幅。

自分を見下ろすその暗い瞳には、ひた隠しにされた退廃的な熱が、ひたひたと波打っていた。


「……無防備に肌を晒すなと言っているんだ」


 耳元に落ちたその声は、かつての変声期前の甲高い響きではない。ニコの胸の奥を直接、低く震わせるような、紛れもない『男』の低音だった。


 さらに、逃げ場を塞ぐように近づいた彼の分厚い胸板からは、かつてのミルクの匂いなど欠片も残っていない。微かな上質なオーデコロンと、硝煙、そして熱を帯びた大人の男の体温の匂いが、ニコの鼻腔と理性を容赦なく支配する。


 チリッと、背筋を微弱な電流のようなものが駆け上がる。


 絶対的な保護対象だったはずの少年に、初めて「男女の圧倒的な力の差」を突きつけられ、ニコは柄にもなく視線を宙に彷徨わせた。


「……っ、ちっ。生意気な口、叩くようになったじゃないか」


 誤魔化すように悪態をつくと、ニコは乱暴な手つきで、外しかけていたシャツのボタンを一番上まで押し込んだ。


 ボタンを留め終えても、ニコの背筋を駆け抜けた微弱な電流は、まだチリチリと皮膚の下で燻っていた。  


ついこの間まで、キャンキャン吠えるだけのヒヨッ子だったはずだ。


自分が前に立ち、血と泥を被って守ってやらなければ、一人では明日のパンも買えなかった足手まといのガキ。  だが、今のあの大きな肩幅と、自分を見下ろす視線の熱さはどうだ。


 思えば、決定的な兆候は数ヶ月前からあった。


 砂漠の廃墟で結社の残党と遭遇し、入り組んだ通路での接近戦にもつれ込んだ時のことだ。弾切れの機関銃を盾にして防いだニコだったが、大柄な敵兵に力任せに壁際へ押し込まれてしまった。

 ニコの足が宙に浮き、太い腕で首を締め上げられる。 『戦場じゃ、純粋に身体がデカくて重い方が圧倒的に有利なんだ』  かつて自分が口にした冷酷な現実が脳裏をよぎり、相打ち覚悟でナイフを逆手に構えた、その時だった。


 背後から音もなく忍び寄った影が、ニコの首を絞める敵の太い腕を、横から万力のように掴み上げた。


「……僕の相棒に、気安く触るな」


 氷のように冷たい声と共に、ロレンツォは自分より頭一つ大きな敵兵を、片腕の力だけで強引に引き剥がし、そのまま石壁へと軽々と叩きつけたのだ。

一切の無駄がない、圧倒的で暴力的な『大人の男』の腕力だった。


 ニコの視界を、彼の広く分厚い背中が完全に覆い隠す。


『君が力でねじ伏せられそうになった時は、僕が君の盾になる』


 ガルドの工房で彼が口にしたあの生意気な誓いが、現実のものとして自分の目の前に立っていた。


 あいつはもう、自分が庇ってやらなければ生きられない子どもではない。

 自分は『保護者』の座から引きずり降ろされ、いつの間にか完全に彼の背中に『守られる側』へと逆転してしまっていたのだ。  そして、今のあの男がその気になれば、この狭いキャビンで自分など一瞬で組み伏せられてしまう。


 その決定的な事実が、ニコの中に相棒としての誇らしさと同時に、得体の知れない女としての怖れと動揺を呼び起こしていた。  ニコは熱を持った頬を誤魔化すように、無言でベッドに背を向けた。




やがて、カジノでの極度の緊張と疲労が限界を超えたのか、ニコは狭いベッドに倒れ込み、あっという間に規則的な寝息を立て始めた。


波が船体を打つ低い音だけが響く中、ロレンツォは足音を殺してベッドに近づき、丸まった小さな背中へそっと毛布をかけた。

 かつて、鉄屑の街のオンボロ船や安宿では、常にニコが冷たいドアの前に陣取り、ナイフを握ったまま浅い眠りについて彼を守っていた。


ロレンツォは無言のまま踵を返し、キャビンの入り口の前にドカッと胡座をかいて座り込む。

 闇の中で腰の短剣を抜き放つと、冷たい鉄の匂いが鼻腔を掠めた。彼は布でゆっくりと刃を拭いながら、毛布の膨らみへと視線を落とす。


「……ゆっくり眠れ、相棒。」


かつて守られていた少年は、波音に紛れるほどの小さな独白をこぼし、静かに夜の闇と向き合い続けた。

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