第五話 待つ時間
会場の前で、足が止まる。
ガラス張りのエントランス。出入りする人間は多くないが、それでもどこか張り詰めた空気があった。
「……ここだね」
理依奈は言う。紫苑は一瞬だけ視線を上げて、建物を見たあと、小さく頷いた。
「はい」
少しだけ緊張しているのが分かる。だが、足は止まっていない。
「行ってこい」
短く言う。余計な言葉はない。
紫苑は、ほんの一瞬だけ理依奈の方を見たあと、
「……行ってきます」
そう言って、中へ入っていった。
自動ドアが閉まる。それで終わり。理依奈はその場に少しだけ立ち尽くし、それから視線を外した。
「……さて」
小さく呟く。やることは、ない。
正確には、今やるべきことは何もない。
スマートフォンで時間を確認する。開始から終わるまで、ざっくり見積もって数時間はある。
近くにカフェはあった。ホテルに戻る選択肢もある。だが、どちらもなんとなく違う気がした。
少し歩く。人通りの多い通りを外れ、一本裏に入る。看板が目に入った。
ネットカフェ。
「……ここでいいか」
迷いはなかった。
自動ドアを抜けると、外とは違う空気があった。少しこもったような匂い。空調は効いているが、どこか乾いている。
受付で簡単な手続きを済ませる。
初めてではない。会員証もすでにある。全国どこでも使えるタイプだ。
「ブースでお願いします」
それだけ告げると、店員は慣れた様子で頷いた。
細い通路を抜け、指定された番号の扉を開ける。
個室。
狭い。だが、十分だ。
椅子に腰を下ろし、ドアを閉める。
外の音が一段階だけ遠くなる。完全な静寂ではない。どこかでキーボードを叩く音。かすかな咳払い。隣のブースから、微かに動画の音漏れ。
それでも、十分に遮断されている。
スマートフォンを取り出すが、特に通知はない。
当然だ。今、中で何が起きているかは分からない。
画面を一度消して、椅子に背を預ける。
天井を見る。何もない。
白い板と、小さな照明。
それだけ。
しばらく、そのまま時間が流れる。
カチカチ、とキーボードの音。一定のリズム。
誰かが何かをしている、それだけの音。
理依奈はもう一度スマートフォンを開いた。
サンドボックスウォーズ。
アイコンが目に入る。指が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……」
タップはしない。画面をそのまま閉じた。
何かをするわけではない。
その時、スマートフォンが震えた。
個人メッセージの通知。
「……黒王」
【黒王】「始まったか」
短い。無駄がない。
理依奈は一度だけ画面を見て、すぐに返信を打つ。
【ケリー】「はい、先ほど入られました」
送信。数秒で既読がつく。それだけ。
「……ええ」
小さく息を吐く。相変わらずだ。
それ以上のやり取りはない。
必要ないからだ。
スマートフォンを置く。
また、少しだけ時間が流れる。
カチ、カチ、カチ。
キーボードの音が続く。単調なはずなのに、不思議と意識に残る。理依奈は、無意識に時間を確認した。
まだ、そこまで経っていない。
体感よりも、時間が進んでいない。
もう一度、椅子に深く座り直す。
目を閉じる。浮かぶのは、さっきの背中。
少しだけ緊張していた、あの様子。
だが、足は止まっていなかった。
再び静寂が戻る。
外とは切り離された、小さな箱の中。
時間は、ゆっくりと進んでいく。
その間も、キーボードの音だけが、一定のリズムで鳴り続けていた。
――気がつくと、視界が暗かった。
一瞬、どこにいるのか分からない。
耳に入ってくるのは、変わらないキーボードの音。
カチ、カチ、カチ、と、一定のリズム。
「……あ」
小さく声が漏れる。
天井。白い板と、小さな照明。
さっきと同じ景色。身体を起こす。首が少しだけ重い。どうやら、完全に眠っていたらしい。
スマートフォンを見る。
「……っ」
思ったより時間が進んでいる。
予定していた終了時刻を、少しだけ過ぎていた。
「やば」
短く呟いて、すぐに立ち上がる。
ドアを開ける。外の空気が一段、近くなる。
通路を抜ける足取りは、さっきよりも少しだけ早い。受付を軽く済ませ、外へ出る。
空気が違う。
さっきよりも、少しだけ人が増えている。
時間帯が変わったせいか、街の音も、ほんの少しだけ賑やかだ。
理依奈は足を止めない。
来た道を、そのまま戻る。角を曲がり、通りに出て、視線を前へ。
見えた。
ガラス張りのエントランス。
さっきと同じ場所。
だが、空気は少し違う。
人が、出てきている。
理依奈は自然と歩幅を緩めた。
急ぐ理由はない。だが、目だけは動く。
知っている顔を、探す。
いた。
人の流れの中で、一瞬だけ足を止める影。
紫苑だ。
理依奈は、そのまま歩いて近づく。
「おかえり」
声をかける。紫苑は顔を上げる。ほんの一瞬、驚いたような表情。それから、少しだけ力が抜けたように息を吐いた。
「……ただいま、です」
声に、わずかな疲れ。
「どうだった」
短く聞く。紫苑は一度だけ視線を落として、それから、しっかりと顔を上げた。
「……やれることは、全部やりました」
それだけ。
だが、それで十分だった。
「そっか」
理依奈は頷く。
「じゃあ、飯行くか」
「……はい」
少しだけ間があって、返事。
二人は並んで歩き出す。
来た時と同じ道。
だが、さっきとは違う。
背中にあった緊張は、もうない。
代わりにあるのはわずかな疲労と、やり切った後の静かな余韻。
街の音が、少しだけ優しく聞こえる。
理依奈は、ちらりと横を見る。
紫苑は前を向いている。
足取りは、止まっていない。
「……」
それを確認して、視線を前に戻す。
今日は、それでいい。
結果がどうであれ、ここから先はまた次だ。
二人は何も言わず、そのまま人混みの中へと溶けていった。
ーーー 第一章 ケリーの物語 完 ーーー




