第四話 やらない選択と、戦う場所
人混みを抜け、少しだけ喧騒の薄れた通りに出る。
ビル群の中に、ひときわ目立つ外観があった。ガラス張りのエントランス。整えられた植栽。無機質なのに、どこか高級感のある佇まい。
看板には、スターダストホテル名古屋支店。
「……ここ?」
紫苑が思わず声を漏らす。
「みたいね」
理依奈は迷いなく中へ入った。自動ドアが静かに開き、冷房の効いた空気が流れ出てくる。外の朝とは違う、整えられた温度と匂い。
フロントは落ち着いた照明で、朝だというのにどこか時間感覚が曖昧になる空間だった。
理依奈はそのままカウンターへ向かう。
黒王から言われた通りに受付を済ませる。フロントスタッフは一瞬だけ確認のために端末を見て、すぐに丁寧に頭を下げた。
「黒羽様から伺っております」
その言葉に、紫苑がわずかに目を見開く。
「こちらのお部屋になります」
差し出されたカードキー。
「ご滞在は三泊四日で承っております」
三泊四日。
オーディションは、明日。結果発表はその翌日、つまりちょうど滞在中に収まる日程。
無駄がない。
理依奈はカードキーを受け取りながら、内心で呟く。あの男は、必要以上に喋らないくせに、こういうところは抜かりがない。
「……ありがとうございます」
紫苑も小さく頭を下げた。
二人はエレベーターへ向かう。
静かな箱の中、扉が閉まる。
上昇する感覚、数字が一つずつ増えていく。
その間、会話はなかった。
だが、沈黙は重くない。
むしろ、整理する時間のようだった。
やがて、チン、と軽い音がし、扉が開く。
廊下は静まり返っていた。足音だけがやけに響く。指定された部屋の前で、理依奈はカードキーをかざす。
電子音。
ドアが解錠される。
部屋は、想像以上に広かった。ツインベッド。大きめのテーブル。ソファ。窓の外には、朝の名古屋の街並み。
「……すごい」
紫苑がぽつりと呟く。
それは単純な感想だった。
だが同時に、ここが「逃げ場」ではなく、「拠点」になったことの実感でもあった。理依奈は荷物を適当に置き、カーテンを少し開ける。
光が差し込む。
「とりあえず」
振り返る。
「今日は休もう」
短く言う。
「オーディション、明日でしょ」
「……はい」
「なら今日が一番大事」
ベッドに腰を下ろす。
「コンディション崩したら終わり」
理依奈の言葉は、現実的だった。優しさというより、戦い前の準備に近い。紫苑は一瞬だけ考えてから、小さく頷く。
「……でも」
少しだけ迷う。
「何か、やった方が……」
「やらなくていい」
即答だった。
「やるなら一つだけ」
理依奈は指を一本立てる。
「明日どうするかだけ考えとけ」
それ以上はいらない、というように。
「現地で全部変わるから」
「……分かりました」
そう言って、ベッドに腰を下ろした。さっきまでの緊張が、少しずつほどけていく。
そのとき、理依奈のスマートフォンが震えた。
「……あ?」
サンドボックスウォーズから、個人メッセージの通知。黒王だ。
(今さらかよ)
短い一文。
【黒王】「着いたか」
「……遅いんだよ」
小さくぼやきながら、返信を打つ。
【ケリー】「今チェックイン。全部準備済みとか怖いんですけど」
すぐに既読がつく。
【黒王】「当たり前だ」
それだけ。
「……はいはい」
思わず鼻で笑う。だが、そのやり取りを横で見ていた紫苑が、少しだけ不思議そうな顔をした。
「……黒王さんって、どんな人なんですか?」
一瞬。理依奈は考える。
「会ったことないけど、多分めんどくさい男」
即答だった。
「でも、仕事はできる」
それだけ付け加える。紫苑は小さく笑った。
「なんか、想像できます」
「でしょ」
軽く肩をすくめる。部屋の空気が、少しだけ柔らかくなる。
その日、二人はほとんど外に出なかった。
軽くコンビニで買い出しをして、あとは部屋で過ごす。紫苑は何度かスマホを見て、メッセージを打っては消し、打っては消しを繰り返していた。
おそらくスカイとのやり取り。
そして時々、ふっと真顔になる。
きっと、明日のことを考えている。
夕方を過ぎ、窓の外の光がゆっくりと落ちていく。
部屋の中は、柔らかなオレンジ色に染まっていた。
コンビニで買ってきた軽食の袋がテーブルに置かれたまま、二人はそれぞれの時間を過ごしている。
紫苑はベッドの上でスマートフォンを見つめていた。
画面には、サンドボックスウォーズ。
ログインボタンの前で、指が止まっている。
やるか、やらないか。たったそれだけのことなのに、なぜか少し迷う。
「……やんないの?」
理依奈がソファに寝転んだまま、視線だけを向けて言う。
「レイドある日でしょ、今日」
軽い口調。だが、紫苑はすぐに答えなかった。
「……」
一度、ギルド画面を開く。
メンバー一覧。見慣れた名前が少ない。
BROSはいない。ザン・シャオもいない。
移籍済み。その空白が、妙に目立つ。
黒王はオフライン。仕事中。
スカイも、ログインしていない。前にギルチャで聞いた、黒王の職場でバイトだろう。
静かなギルド。
いつもなら誰かしらがいる時間なのに。
「……今日は」
紫苑が小さく呟く。
「人、いないですね」
「でしょ」
理依奈はあっさり返す。
「やっても意味ないんじゃない」
現実的な言葉。紫苑は少しだけ考える。
レイド自体は、やろうと思えばできる。
二人でも、時間をかければ。
(……違うか)
指が、そっと画面から離れる。
これは、いつものレイドじゃない。
あのメンバーでやるから意味がある。
なんとなく、そう思った。
「……やめときます」
小さく言う。
理依奈は「ん」とだけ返した。
それ以上、何も言わない。紫苑はスマートフォンをベッドの横に置く。少しだけ、肩の力が抜けた。
やらなきゃいけない気がしていた何かを、手放した感覚。
代わりに残るのは、明日。
「……」
天井を見る。静かな部屋。
外から、かすかに車の音が聞こえる。
理依奈が起き上がる気配。
「風呂、先入っていいよ」
「……はい」
紫苑は素直に頷く。そのままバスルームへ向かう。
扉が閉まる。
しばらくして、水の音。理依奈は一人、ソファに座ったままスマートフォンを開く。
ギルド画面。人のいない一覧。
「……ほんと、いねえな」
小さく呟く。
黒王の名前。
スカイの名前。
オフラインの表示。
「……今日はいいか」
誰に言うでもなく、そう呟いて画面を閉じた。しばらくして、紫苑が戻ってくる。髪を軽く拭きながら、少しだけすっきりした顔。
「お風呂、ありがとうございました」
「ん」
短いやり取り。
それだけで十分だった。
電気を落とす。部屋が暗くなる。
ベッドに入る。
少しだけ沈黙。だが、不思議と落ち着く静けさだった。
「……理依奈さん」
暗闇の中、紫苑が小さく呼ぶ。
「なに」
「明日……」
一瞬、言葉が詰まる。
「頑張ります」
それだけ言った。理依奈は、少しだけ間を置いてから答える。
「頑張んなくていいよ、普通にやればいい」
一拍。
「どうせ受かるでしょ、あんた」
根拠のない言葉。でも、妙に軽くて。紫苑は、小さく笑った。
「……はい」
目を閉じる。心臓の音が、少しずつ落ち着いていく。レイドはやらなかった。
今は、戦う場所が違う。
静かな夜。都会のざわめきが、遠くで揺れている。
その中で、二人はゆっくりと眠りに落ちていった。
明日が来る。




