第三話 着信
揺れが、止まる。
意識が浮上するより先に、静寂が来た。
エンジンの振動が消え、代わりにドアの開閉音と、乗客の小さな動きが広がっていく。
理依奈は目を開けた。
カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいる。
夜は終わっていた。
「……着いたか」
小さく呟き、首を鳴らす。
隣では、紫苑がまだ固まったような姿勢で眠っていた。無理もない、ほとんど寝ていない顔だ。
「ほら、着いたよ」
軽く声をかける。
紫苑の肩がびくっと揺れ、ゆっくりと目を開けた。
「……あ……」
一瞬、状況が分からない顔。だがすぐに思い出したのか、表情が引き締まる。
「はい」
短く頷いた。バスを降りると、朝の空気が肌に触れる。少し冷たい。けど、夜とは違う。
人の気配がある。
通勤客、旅行者、眠そうな顔のまま歩く人間たち。
現実の朝だった。
「……腹、減ってるでしょ」
理依奈が言う。
紫苑は一瞬迷ってから、小さく頷いた。
駅前のチェーン喫茶店。
ガラス越しに見える店内は、すでにそこそこ埋まっていた。スーツ姿の男、新聞を読む老人、スマホを見つめる若者。
どこにでもある朝の光景。
二人は空いている席に座る。
「モーニングでいい?」
「……はい」
注文はすぐに決まった。
そして、数分後。
「……え」
紫苑が固まった。
テーブルに並んだ皿を見ている。
トースト。ゆで卵。サラダ。コーヒー。
どう見ても、おまけの量じゃない。
「……多くないですか、これ」
「名古屋だし」
理依奈はコーヒーを一口飲む。
「こういう文化」
「文化……ですか」
紫苑は少し戸惑いながらも、トーストに手を伸ばした。
そのとき、テーブルの上のスマートフォンが震えた。
びくり、と紫苑の手が止まる。
表示された名前。
お姉ちゃん
空気が、変わる。理依奈は何も言わない。ただ、カップを持ったまま視線だけを向ける。
「……出な」
短く、それだけ言う。
紫苑は一度、深く息を吸った。
そして、通話ボタンを押す。
「……もしもし」
『どこに行ったの?』
間髪入れずに飛んできた声。
『なんのつもり?』
紫苑の指が、わずかに震える。
それでも、口は止まらなかった。
「……名古屋」
はっきりと言う。
「私、カラミ酒45のオーディション受けるから」
一瞬の沈黙。そのあと、低く押し殺した声。
『……本気で言ってるの?』
「本気だよ」
紫苑は視線を落とさない。
「これからは、自分で生きる」
言葉を選ばない。
「もう、お姉ちゃんの人形じゃない」
その一言で、空気が凍る。
電話の向こうで、何かが切り替わる気配。
『……捜索願い、出すわよ?』
静かな声。だが、脅しとしては十分すぎる。
未成年の家出。保護、強制的な連れ戻し。
普通なら、それで終わりだ。
だが——
「……やれば?」
紫苑は言った。声は震えていない。
「そんなことしたら」
一拍。
「今までのこと、全部言うから」
理依奈の指が、わずかに止まる。
(へぇ…)
紫苑は続けた。
「何されたか、全部」
言葉に、迷いがなかった。
沈黙。長い、数秒。
やがて——
『……覚えてなさい』
低い声。怒りでも、悲しみでもない。
ただの、宣告。
『絶対に逃がさない』
そこで、通話が切れた。画面が暗くなる。
店内のざわめきが、ゆっくりと戻ってくる。
紫苑はしばらくスマートフォンを見つめたまま動かなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……すみません」
ぽつりと言う。理依奈はコーヒーを飲み干し、カップを置いた。
「よく言ったんじゃない」
それだけ。紫苑は少しだけ驚いた顔をする。
だが、すぐに目を伏せた。
トーストに手を伸ばす。さっきより、ほんの少しだけ、しっかりとした動きで。
朝は、もう始まっていた。後戻りは、できない。それでも、前に進むしかなかった。
そのとき、スマートフォンが再び震えた。
今度は短い通知音。
紫苑の肩が、反射的にびくっと揺れる。
一瞬だけ身構える。
だが、画面を見た瞬間、
「あ……」
表情が、緩んだ。
「理依奈さん」
顔を上げる。
「スカイくんからメッセージがきました」
その声は、さっきまでとは明らかに違っていた。張り詰めた糸が、少しだけ解けたような。
「……ふーん」
理依奈は興味なさそうに返す。
だが、視線だけは向けたまま。
紫苑はすぐにスマホへ目を落とす。
【スカイ】「おはよう、昨日は大丈夫だった?」
たった一文、それだけなのに。
「……ふふ」
小さく笑った。安心したような、そんな笑みだった。指が迷いなく動く。文字を打つスピードは速い。
きっと、頭の中ではもう言葉が溢れているんだろう。
(……分かりやす)
理依奈はコーヒーを口に運びながら、内心で呟く。
そして、ふと別のことを思い出す。
(……あれ)
自分のスマートフォンを確認する。
通知は、ない。
(黒王さんはメッセージなし?)
一拍。
(丸投げかよ)
カップを置く音が、わずかに強くなる。
ほんの少し、不機嫌だった。
——まあいい。
そう切り替えるように、視線を紫苑へ戻す。
ちょうど、返信を打ち終えたところだった。その横顔は、もうさっきの張り詰めた少女じゃない。
ちゃんと、自分の意思でここにいる人間の顔をしている。
「……そういえばさ」
理依奈が口を開く。
「そのオーディション」
紫苑が顔を上げる。
「保護者の同意とか、いらないの?」
少しだけ眉を上げる。
「未成年でしょ、あんた」
一瞬の間。
だが、紫苑は迷わなかった。
「……大丈夫です」
あっさりと答える。
「お姉ちゃんのマネージャーさんに、お願いしてあります」
「……は?」
理依奈の眉がぴくりと動く。
「いや、それ——」
普通に考えて、通る話じゃない。だが紫苑は、淡々と続けた。
「私とお姉ちゃん、仲がいいって思われてるんです」
少しだけ、皮肉めいた笑み。
「だから、サプライズで受けたいから内緒にしてほしいって言ったら、信じてくれて」
軽い口調。
だが内容は、なかなかにえげつない。
「……へえ」
理依奈は短く息を吐いた。視線を細める。
「やるじゃん」
率直な感想だった。
さっきの電話。あの啖呵。
そして、この立ち回り。
ただ守られてきただけの人間じゃない。
(見た目より、ずっと強かだな)
むしろ。
(こういうやつの方が、生き残る)
少しだけ、口元が緩む。
嫌いじゃない。いや、むしろ——
「……気に入ったかも」
ぽつりと呟く。
「え?」
紫苑がきょとんとする。
「なんでもない」
理依奈は立ち上がった。
「ほら、行くよ」
伝票を手に取り、先にレジへ向かう。その背中に、紫苑も慌てて続いた。
店を出ると、朝の光はさっきよりも強くなっていた。人の流れも増えている。街が完全に目を覚まし始めていた。
理依奈はスマートフォンを取り出す。
画面を開き、短く確認する。
(……場所はここか)
昨夜、黒王から送られてきていたメッセージ。余計な言葉は一切ない、座標と簡単な目印だけの無機質な指示。
いかにも、あの男らしい。
「こっち」
それだけ言って歩き出す。紫苑は一瞬だけ空を見上げ、それから小さく息を吸った。
「……はい」
その声は、もう迷っていなかった。
二人は人混みに紛れるようにして歩き出した。




