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サンドボックスウォーズ  作者: 黒瀬雷牙
【第四部】 動き出す、君の世界

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プロローグ 動き出す、君の世界

 午前一時。


 紫苑の家の中は、静まり返っていた。


 琉韻の部屋の扉の向こうからは、規則正しい寝息が微かに聞こえる。

 怒鳴り散らしたあとでも、彼女は何事もなかったかのように眠る。


 いつも通りだ。


 紫苑は、布団の中で目を開けていた。


 眠れないわけではない。

 眠る必要が、もうなかった。


 ゆっくりと体を起こす。

 音を立てないように、慎重に床へ足をつける。


 その一歩は、これまでの人生のどんな一歩よりも重かった。


 けれど、同時に、軽かった。


 机の上。

 ノートパソコンの横に、小さな封筒が置いてある。


 中には、これまで少しずつ貯めてきたお金。

 買い物のお釣りを誤魔化した日もあった。

 頼まれた用事の交通費を少しだけ浮かせた日もあった。


「……生きるためだから」


 小さく呟く。


 その言葉は、誰に向けたものでもない。ただ、自分が自分を許すための言葉だった。

 バッグを手に取る。中身はもう何度も確認している。


 着替え。

 スマホ。

 充電器。

 財布。


 そして、サンドボックスウォーズのアカウントが入った、このノートパソコン。


 紫苑の“もう一つの居場所”。


 電源は入れない。今日は、ログインしない。

 代わりに、昨日の夜のやり取りを思い出す。


【黒王】「行くんだろ?」

【シオン】「はい」

【黒王】「怖いか?」

【シオン】「はい……怖いです」

【黒王】お前、もうずっと我慢してきた。そろそろ自分のターンにしていい頃合いだ」


 画面の向こうの仲間たち。


 顔も知らない。

 本名も知らない。


 それでも、この世界で、初めて味方になってくれた人たち。


 紫苑は、バッグのチャックを閉めた。


 静かに部屋のドアを開ける。


 廊下は暗い。

 けれど、足取りは迷わない。


 一歩。

 また一歩。


 リビングを抜ける。

 キッチンを横切る。

 毎日立っていた場所。

 毎日、誰かのためにだけ使っていた場所。


 振り返らない。

 振り返ったら、きっと終わる。


 玄関に立つ。


 靴を履く手が、少しだけ震えた。


 ——本当に、行くの?


 頭の中で、誰かの声がする。


 姉の声かもしれない。

 自分の弱さかもしれない。


 でも。


「……うん、行く」


 鍵を、回した。


 カチリ、と小さな音。


 その音は、やけに大きく聞こえた。


 扉を開ける。


 夜の空気が、肌に触れる。


 冷たい。


 でも、初めて自由の温度を感じた。


 外に出る。


 そして、ゆっくりとドアを閉めた。


 もう、戻らない。

 戻れない。


 紫苑は、スマホを取り出す。

 画面に表示されたメッセージ。


【スカイ】「シオンなら、大丈夫だよ」


 震える指で、チケット画面を開く。


 行き先——愛知県名古屋市。


 深夜バス。


 出発まで、あと一時間。


 走り出す。


 夜の街を。


 息を切らしながら。


 何度も躓きそうになりながら。


 それでも、止まらない。

 止まりたくない。


 涙が出ているのかどうかも、もう分からない。


 ただ一つ、確かなのは——


 これは逃げじゃない。

 これは、反逆だ。


 影が、自分の意志で歩き出す瞬間。


 バス停の灯りが見えた。


 紫苑は足を止める。


 胸に手を当てる。


 心臓が、うるさいくらいに鳴っている。


 でも、その鼓動は——


 確かに生きている証だった。


「……行ってきます」


 誰もいない夜に、そう呟く。


 返事はない。


 けれど、もういい。


 少女は、前を向いた。


 自分の人生を取り戻すために。

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