第6話:定義
鉄パイプが肉を打つ音。
怒鳴り声。
悲鳴。
割れる瓶。
廃工場の中は、一瞬で戦場になった。
人数はほぼ同じだった。
だが、違いがある。
向こうは突然襲われた。
こちらは最初から殴るために来ている。
「右!」
声を上げる。
二人が動き、一人の男を挟む。
「奥を塞げ!」
指示した生徒たちが動く。
十五年前、兵士を動かしていた時と何も変わらない。
違うのは、鎧が制服になり、剣が鉄パイプになったことくらいだった。
「くそガキが!」
男が椅子を振り上げる。
同級生の一人がまともに受け、床へ倒れた。
額から血が流れる。
別の一人も腹を蹴られ、壁にぶつかった。
やられた彼らを見る。
動ける。
まだ戦力になる。
「立て」
同級生は立ち上がり、再び向かっていく。
罪悪感はなかった。
怪我人が出ることは、最初から分かっていた。
この程度で済むなら、むしろ想定より軽い。
「高宮!」
横から声。
男が一人、こちらへ突っ込んでくる。
鉄パイプが振り下ろされる。
身体は全盛期ではない。
だが、相手の動きは読める。
二度目。
今度は横薙ぎ。
身体を引く。
空振り。
手首を打つ。
男が鉄パイプを落とした。
がら空きの顎に一閃。
勇者の剣ではない。
鉄パイプだ。
だが、向こうで学んだ剣術や格闘術の感覚が、少しずつ馴染んでくる。
男が倒れる。
殺してはいない。
今は、それでいい。
周囲を見る。
少しずつ数が減っている。
こちら側も十人近くが倒れていた。
向こうは、それ以上。
やはり数が同じなら、統率されている方が勝つ。
「……なんなんだよ、こいつら」
敵の一人が後退する。
「高校生だろ!?」
そうだ。
高校生だ。
私以外は。
同級生に号令をかけ、再び押し込む。
十分後。
勝負はほぼ終わっていた。
床には男たちが倒れている。
呻いている者。
動けない者。
逃げようとして入口で捕まった者。
そして中央。
一際大きな男だけが、まだ立っていた。
「……てめえ」
顔には血。
それでも倒れていない。
強い。
少なくとも、普通の喧嘩慣れした人間よりは。
私は周囲を見る。
「二人にしてくれ」
生徒たちが一人ずつ外へ出る。
倒れている仲間も運ばせる。
数分後。
工場の中に残ったのは、私と大男。
男は狼狽えている。
仲間は全員倒された。
自分だけ残された。
私の一言で三十人が動いた。
この異様な雰囲気に戸惑っている。
だから、通る。
「跪け」
男の身体が、私の言葉に従った。
「……」
自分でも何が起きたか分かっていない。
私は男の前まで歩く。
「全部答えろ」
男の首筋を見る。
肌の色は普通。
妹や友人の特徴を伝える。
男が少し考える。
「知ってる」
胸の奥が冷えた。
「何をした」
「片方は触っただけだ。もう片方は……」
拳に力が入る。
「わかった。もういい」
途中で止める。
もう十分だった。
「なぜそんなことをした」
「やりたかったから」
駅前で見た男を思い出した。
理由がない。
必要もない。
ただ、奪いたい。
「お前」
私は一つ確かめたかった。
一年間、頭の片隅から消えなかった仮説。
私には、あり得ないという理由だけで切り捨てることができない。
「ゴブリンか?」
男の目が変わった。
同時に、首筋が黒く染まった。
私は息を止めた。
男は躊躇しなかった。
「そうだ」
世界から音が消えたように感じた。
「……どういうことだ」
男が首を傾げる。
「俺にも分からねえよ」
「いつからこの世界にいる」
「ある日突然だったんだよ」
男は淡々と話し始めた。
森にいた。
仲間と一緒だった。
人間の村を襲うために集まっていた。
その瞬間。
光に包まれた。
次に目を開けた時、この世界にいた。
そして身体が人間の姿になっていた。
「お前含めて何体だ」
「数百はいたと思う」
数百。
十ではない。
百でもない。
「全員、同じ場所へ来たのか」
「いや、俺だけがこの廃工場にいた」
「いつだ」
男に日付を聞く。
答える。
時間。
場所。
さらに細かく聞く。
一致していた。
一年前。
私がこの世界へ戻った日。
偶然。
そう考えるには出来すぎている。
「女神に会ったか」
「女神? さあ知らねえな。女はこの世界で調達した女だけだ」
私は目を閉じた。
女神メル。
あの女が頭に浮かぶ。
いい加減で。
人の命に、驚くほど興味がなかった。
世界を救った者へ。
お疲れさま。
その程度の態度で十五年を片付けた。
事故。
帰還の影響。
雑な仕事。
あいつのせいだ、と強く思考が寄る。
だが。
「……わざとでも、おかしくない」
男が私を見る。
もう一つ。
「戸籍は」
「なんだ、それ」
やはり。
「今、名前はあるのか」
「ねえよ」
暴力。
犯罪。
それで形ばかりの仲間を集め、コミュニティを形成。
そうして居場所を作り上げた。
「他のゴブリンと合流はできたのか」
「できてねえよ。俺みたいに人間のガワになってたら、分からねえ」
それもそうだ。
だが、この変色する肌の色。
これが元ゴブリンの証なのかもしれない。
「なぜこんなことを始めた」
男が不思議そうな顔をする。
「だって」
首筋がさらに黒くなる。
「こっちじゃ、誰も俺たちを殺さねえだろ」
私は何も言わなかった。
「他の魔族もいねえ。騎士もいねえ。俺たちを見ても、誰も殺しにこねえ」
笑う。
「最高だろ」
「昔、お前たちの同胞を殺しまくっていた」
私は男を見る。
「気に病む必要はなかったのだなと思うと、少し安心すらした」
その瞬間。
何かが決まった。
怒りは、もうなかった。
妹を怖がらせ、友人を壊した。
その怒りは確かにある。
だが、それだけではない。
数百。
今もどこかにいる。
そして、こいつと同じように誰にも気づかれず、人間として生きている。
「もういい。喋るな」
私は明確に指示を出し、この場を後にする。
・
・
・
ゴブリン。
いや、元ゴブリンに付き従っていた連中は消えていた。
所詮、暴力で無理やり付き合わされていたのだろう。
女たちは数人。
隅で怯えているようだった。
(とても都合がいい)
同級生たちは、疲れ果て座り込んでいる者もいた。
「みんな」
「高宮! 一人で大丈夫なのか?」
先ほどの命令。
強行させたことすら、なかったかのように会話が継続される。
「大丈夫だ。これから帰宅して、今晩のことは誰にも話すな。警察にも、家族にもだ」
一人。
また、一人。
朝焼けが照り始めた方向へ歩き出す。
私は踵を返した。
彼女たちの元へ。
「皆さん。あの大男。許せませんよね?」
女たちは何も言わない。
だが、怯えと怒りが目に浮かんでいる。
「この場から解放しますので、手伝ってください」
・
・
・
以前なら、こんなことはしなかっただろう。
いや。
十五歳の高宮誠司なら、できなかった。
だが。
私は三十歳まで、別の世界で生きた。
正しいだけでは守れない。
綺麗なだけでは勝てない。
必要なら人を使う。
脅す。
切る。
それを私は、もう知っている。
大男が穴を掘り終えていた。
休ませてはいない。
人間より強い身体で、命じられるまま掘り続けた。
人一人が横たわるには、十分な深さだった。
「十分ですね」
「お、お前。何をする気だ」
掘り終えた穴から、こちらを見上げている。
「私は、何もしないですよ」
私が下がると同時に、数人の女たちが穴の周りを囲む。
スコップ。
金属板。
落ちていた様々な道具を持ち、佇んでいる。
「ま、まさか……」
「では皆さん。お願いします」
彼女たちに、魔王覇気はいらない。
目に涙を滲ませながら、土を落とし始める。
「おい! やめさせろ!」
「仰向けで寝そべっていろ」
大男は命令通りに寝そべる。
それでも叫び続けている。
彼女たちの手は止まらない。
髪を振り乱し。
一心不乱に、土を落とし続ける。
次第に。
大男の声は聞こえなくなった。
・
・
・
全て終わった頃には、朝日が昇りきっていた。
「皆さんは、家に帰ってゆっくり休んでください。この場で起きたことは、誰にも話さず忘れてしまいましょう」
彼女たちは各々、帰路に着く。
妹の友達も。
記憶は消えない。
嫌なことを忘れさせてやる力も、私にはない。
だが。
少なくとも。
これ以上、あいつらに怯える必要はない。
「終わった……」
私は空を見る。
朝焼けと青空が美しい。
異世界のように、何十倍もある鳥魔族もドラゴンも飛んでいない。
「……いいや」
終わっていない。
始まったばかりだ。
数百。
本当にそれだけか。
一年で増えていないのか。
繁殖はできるのか。
できたとして、その間隔は人間と同じなのか。
ゴブリンだけなのか。
なぜ人間の姿になった。
メルは何をした。
知らなければならない。
そして。
こいつらが私と一緒にこの世界へ来たのなら。
私は静観できない。
家へ帰れば、妹がいる。
もう以前の妹ではない。
父も母も、その姿を見て少しずつ変わっている。
私は一度、家族を取り戻した。
それを今度は、私と一緒に帰ってきたものに形を変えられた。
なら。
やることは決まっている。
すべて見つけ出す。
殺すだけでは生ぬるい。
利用するだけ利用して。
ボロ雑巾のように、叩き捨ててやる。
「ゴブリン……」
正確には、もうゴブリンではない。
人間の姿を持ち。
人間の社会に紛れ。
それでも、奪うことをやめない。
金。
身体。
尊厳。
命。
他者から奪うことそのものに、異常なほど適応した存在。
略奪者。
英語なら、Depredator。
そして。
本来いるべき世界から切り離され、こちらへ流れ着いた。
強制的に別の場所へ送られる。
Deport。
二つの言葉が、頭の中で重なった。
デポル。
短い。
呼びやすい。
何より。
もう、こいつらを人間と同じものとして呼ばずに済む。
掠奪種。
デポル。
今はまだ。
私だけが知っている名前だ。
これから忙しくなる。
数を調べる。
性質を調べる。
そして、力を蓄える。
来るべき時に備えて。
こちらが本編です。
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