第2話:検証
一九八五年・五月
「誠司?」
声がした。
聞き覚えのある声だった。
いや。
忘れたことなど、一度もない。
ゆっくりと目を開く。
目の前に。
母がいた。
「……どうしたの?」
その横には父。
少し離れたところには、妹がいる。
テーブルの上にはケーキ。
十五本の蝋燭。
火はまだ消えていなかった。
私は。
何も言えなかった。
ここだ。
十五年前。
いや。
この世界では。
ほんの一瞬前。
私が消えた場所。
私が消えた時間。
十五歳の誕生日。
「誠司?」
母がもう一度、私を呼ぶ。
私は顔を上げた。
皺がない。
白髪もない。
記憶の中より、ずっと若い。
父もそうだった。
妹も。
最後に見た姿と、何も変わっていない。
当然だった。
この人たちには。
十五年など経っていない。
私だけだ。
私だけが。
十五年間。
別の場所で生きていた。
「……母さん」
自分の声が。
妙に高かった。
喉に触れる。
十五歳の声。
手を見る。
思ったより小さい。
傷がない。
剣を握り続けてできた硬い皮も。
魔物に噛まれた傷も。
魔王との戦いで負った火傷も。
何一つ。
残っていない。
鏡を見るまでもなかった。
本当に。
十五歳に戻っている。
「どうしたの急に」
妹が笑った。
「変な顔して」
その顔を見た瞬間。
胸の奥で。
何かが切れた。
涙が落ちた。
「……え?」
妹の顔から笑みが消える。
母も驚いていた。
私は慌てて顔を伏せた。
止めようとした。
だが。
止まらなかった。
十五年。
一度も会えなかった。
何度。
この光景を思い出した。
何度。
もう二度と帰れないと思った。
父の声。
母の料理。
妹のくだらない話。
あの頃は。
当たり前すぎて。
何の価値もないと思っていた。
それが今は。
目の前にある。
「……どうしたんだ、本当に」
父が立ち上がる。
私は首を振った。
「十五歳になったことが嬉しいんだ」
「だとしたら大袈裟だろ……」
「そうでもないんだ……」
声が詰まる。
上手い言葉が出なかった。
十五年。
軍を率いた。
何千人という人間の前で話した。
国王を説得した。
死ぬ直前の兵士に言葉をかけた。
それなのに。
家族の前では。
何を言えばいいのか分からなかった。
妹が怪訝な顔をする。
父は笑った。
母は心配そうに私を見ていた。
私は。
その三人の顔を。
一人ずつ見た。
覚えておこうと思った。
もう一度。
今度こそ。
忘れないように。
・
・
・
その夜。
眠れなかった。
自分の部屋。
机。
本棚。
制服。
壁に貼ったポスター。
全部。
記憶の中にある。
十五年前と。
何も変わっていない。
ベッドに横になり。
天井を見る。
身体が軽い。
軽すぎて。
自分の身体ではないようだった。
何度か手を握る。
力がない。
魔力も感じない。
剣もない。
もし今。
魔物に襲われれば。
私は簡単に死ぬだろう。
だが。
そんなことより。
もっと気になることがあった。
レナ。
バルド。
エリオ。
目を閉じる。
最後に見た光景が浮かぶ。
バルドは死んだ。
エリオは左腕を失った。
レナは。
生きているのか。
死んだのか。
分からない。
確認する方法もない。
私は。
あの世界を捨てたのだろうか。
それとも。
強制的に捨てさせられたのか。
どちらでも。
結果は同じだった。
もう戻れない。
「……すまない」
誰に向けた言葉なのか。
自分でも分からなかった。
レナか。
死んだ仲間か。
残してきた兵士たちか。
返事はない。
時計の秒針だけが進んでいく。
十五年前。
私は。
この音を聞きながら眠っていた。
明日が来ることを疑ったことなどなかった。
向こうでは。
違った。
夜になれば。
翌朝まで生きている保証はなかった。
静かすぎた。
この世界は。
あまりにも。
平和だった。
私は窓を開けた。
住宅街。
街灯。
車。
遠くの家からテレビの音が漏れている。
誰も戦っていない。
誰も逃げていない。
誰も。
明日死ぬことを前提にしていない。
十五年間。
私はこの景色を取り戻すために戦っていたのかもしれない。
だが。
戻ってみると。
自分だけが。
この世界の住人ではないように感じた。
父も。
母も。
妹も。
昨日の続きを生きている。
私は違う。
私だけが。
十五年分。
先へ進んでしまった。
同じ家にいる。
同じ時間を過ごしている。
それなのに。
同じ世界線を生きていない。
そんな感覚だった。
その時。
胸の奥に。
小さな違和感を覚えた。
冷たいもの。
思い出す。
メルが最後に渡した能力。
魔王覇気。
魔王が持っていた力。
「……本当に使えるのか」
声に出して。
私は身体を起こした。
確かめる必要がある。
能力そのものも。
そして。
この世界で。
自分に何が残っているのかも。
・
・
・
翌朝。
学校へ向かった。
制服。
鞄。
通学路。
何もかも懐かしい。
だが。
すれ違う生徒たちを見ても。
同年代には思えなかった。
十五歳。
自分も。
こいつらも。
同じ年齢。
そう考える方が難しい。
教室に入る。
「おはよ」
声をかけられた。
名前は覚えている。
顔も。
十五年前の記憶を掘り起こす。
友人。
だったはずだ。
「ああ。おはよう」
返事をする。
相手が少し変な顔をした。
「なんだその喋り方」
「……変か?」
「大人の真似っこ?落ち着いたフリして」
「そうだったか」
私は席に座った。
昨日まで。
私にとっては。
十五年前だ。
授業が始まる。
教師が黒板に文字を書く。
私はそれを見ながら。
別のことを考えていた。
魔王覇気。
条件は。
相手が。
私を自分より上だと認識すること。
それだけでは曖昧すぎる。
どこまで効く。
何をさせられる。
どれほど持続する。
試さなければならない。
昼休み。
廊下を歩いていると。
前から数人の男子生徒が来た。
そのうちの一人を見て。
記憶が戻る。
何度か。
私に絡んできた男。
当時の私は。
できるだけ関わらないようにしていた。
「高宮」
男が私を見る。
「ちょうどいい」
肩を掴まれた。
私は。
反射的に腕を取ろうとした。
止める。
今の身体では。
十五年間鍛えた動きについてこない。
「なんだ」
「購買行くだろ。パン買ってきて」
周囲の二人が笑った。
なるほど。
私は。
こいつに舐められていたらしい。
ちょうどいい。
「嫌だね。お前がいけよ。パンも一人で買いに行けないのか?」
男の表情が変わる。
「は?」
「自分で行け。と言ったんだ」
「お前、なんか今日変だな?」
男が顔を近づけてくる。
私は。
目を逸らさなかった。
十五年間。
もっと怖いものを見てきた。
魔物。
兵士。
処刑人。
魔王。
十五歳の少年一人に。
恐怖を感じる理由がない。
「手を離せ」
静かに言った。
男が。
一瞬、動きを止めた。
だが。
手は離れない。
効かない。
当然か。
こいつは。
私を自分より下だと思っている。
なら。
認識を変えればいい。
「先生呼んでこようか」
周囲の一人が笑う。
私は男の腕を見る。
手首。
肘。
肩。
今の身体でも。
壊す方法なら分かる。
一歩踏み込む。
男の手首を掴み。
親指を押さえ。
身体を沈めた。
「痛っ!」
男が膝をつく。
私はすぐに手を離した。
大した技ではない。
力もほとんど使っていない。
だが。
十五歳には。
何をされたのか分からなかっただろう。
男が私を見る。
さっきまでとは。
目が違う。
驚き。
困惑。
そして。
わずかな恐怖。
私は、確かめるように言った。
「二度と話しかけるな」
男の身体が。
僅かに震えた。
胸の奥で。
何かが動いた。
冷たい感覚。
魔王覇気。
「……」
男の口だけは動く。
しかし、声が出ていない。
周囲の二人も黙る。
「それから」
私は続ける。
「もう、人にパンを買いに行かせるな。それくらい一人で行け」
「……」
やはり、声は出ていない。
二度と話しかけるな。
これがいつまで有効かはしっかり確認したいが、魔王覇気の効果は分かった。
私は男を見る。
目は正常。
意識もある。
操られているようには見えない。
だが。
従った。
さっきまで。
私を見下していた人間が。
一度。
自分より上だと認識しただけで。
ここまで変わる。
私は。
背中に薄い寒気を覚えた。
便利。
そんな言葉で済ませていい力ではない。
魔王は。
これを使っていた。
異なる種族を。
まとめ上げ。
軍にした。
そして。
世界を相手に戦った。
私は。
確信した。
使える。
それも。
想像していた以上に。
・
・
・
放課後。
一人で帰った。
夕日が。
住宅街を照らしている。
今日。
能力を使った。
相手の認識を変えれば。
効力も変わる。
なら。
自分自身の価値を高めればいい。
頭がいい。
強い。
金がある。
権力がある。
地位がある。
人間が。
何を「上」と判断するのか。
それを積み上げれば。
この力は。
さらに強くなる。
十五年間。
私は。
剣を鍛えた。
魔法を鍛えた。
軍を率いる方法を覚えた。
今度は。
違う。
この世界には。
魔王はいない。
剣もいらない。
だが。
人間はいる。
社会がある。
国家がある。
そして。
動かせる力がある。
家の前で立ち止まる。
窓から。
明かりが漏れている。
中には。
父がいる。
母がいる。
妹がいる。
それだけで。
胸が少し軽くなった。
レナ。
バルド。
エリオ。
忘れることはない。
あの世界で生きた十五年を。
なかったことにするつもりもない。
だが。
私には。
こちらでも生きる時間がある。
こちらにも。
守るものがある。
十五歳の身体で。
三十歳まで生きた記憶を持ち。
魔王の力まで持ち帰った。
なら。
立ち止まっている理由はない。
私は家の扉を開けた。
十五年前に終わったはずの私の人生が。
もう一度。
動き始めていた。
こちらが本編です。
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