第1話:勇者の旅立ち
ーー高宮誠司フェーズ
魔王が、崩れ落ちた。
巨大な身体が石床を揺らし、黒い血が玉座の間をゆっくりと広がっていく。
私は剣を握ったまま、それを見ていた。
終わった。
十五年。
ただ、そのためだけに生きてきた。
十五歳だった私は、この世界へ突然放り込まれた。
勇者だと言われた。
世界を救えと言われた。
剣を握らされた。
当然、最初から戦えたわけではない。
怖かった。
逃げたかった。
最初の一年など、何度死にかけたか覚えていない。
それでも生き残った。
剣を覚え。
魔法を覚え。
人を率いることを覚えた。
そして。
人を見捨てることも覚えた。
全員を救えないなら。
より多く生き残る方を選ぶ。
百人を切り、千人が助かるなら、迷わず百人を切る。
いつから、そんな判断を下せるようになったのか。
もう覚えていなかった。
「タカミヤ……」
背後から声がした。
振り返る。
レナが壁にもたれ、座り込んでいた。
腹部を押さえた手の隙間から、血が流れている。
少し離れた場所では、バルドが倒れていた。
その横でエリオが膝をつき、肩で息をしている。
三人を囮にした。
私が。
魔王を殺せる可能性が、最も高かったからだ。
彼らが死ぬかもしれないと分かったうえで命じた。
そして。
勝った。
「……終わった」
声が、自分でも驚くほど平坦だった。
エリオが乾いた笑いを漏らす。
「もう少し……嬉しそうな顔、できないのかよ」
「そう見えるか」
「見える」
喜んでいるつもりだった。
十五年間。
この瞬間だけを目指してきた。
それなのに。
胸には何もなかった。
達成感も。
高揚も。
ただ。
疲れた。
それだけだった。
「レナ」
私は彼女の前にしゃがむ。
「治療を」
「大丈夫」
レナが笑った。
弱い笑いだった。
「セイジ……」
「何だ」
「約束、覚えてる?」
忘れるわけがない。
魔王を倒したら。
戦争が終わったら。
一緒に暮らそう。
私から言った。
十五年かけて、ようやく。
「覚えている」
「じゃあ……絶対、忘れないで」
私は、その言葉の意味を考えなかった。
考えたくなかったのかもしれない。
・
・
・
魔王討伐から、三日後。
王都は祭りになっていた。
通りという通りに旗が掲げられ。
花びらが舞い。
酒が振る舞われ。
鐘が鳴り続けていた。
私は馬上から、それを見ている。
左右には、数え切れないほどの人間。
子供が手を振る。
女が泣いている。
男たちが酒杯を掲げる。
「勇者様!」
「タカミヤ様!」
「世界を救ってくれてありがとう!」
歓声が降ってくる。
私は手を上げた。
笑ったつもりだった。
そうしなければならないと思った。
英雄は。
民衆の前で、不機嫌な顔をしてはいけない。
「勇者様!」
名前も知らない誰かが、泣きながら叫ぶ。
その声を聞きながら。
私は別のことを考えていた。
バルドは。
この歓声を聞いていない。
魔王討伐の翌朝。
死んだ。
身体が、もたなかった。
最期まで。
自分が死ぬとは思っていなかったらしい。
「帰ったら酒を飲もう」
そう言って。
眠るように死んだ。
エリオは生きている。
左腕を失った。
もう剣は握れない。
そして。
レナは。
パレードにはいない。
王都へ戻ってから容体が悪化した。
まだ、目を覚ましていない。
私の隣では。
国王が笑っていた。
「見よ、勇者タカミヤ」
満足げに手を広げる。
「皆、お前を称えている」
「はい」
「お前が救った民だ」
また歓声が上がる。
私は群衆を見る。
この中の何人が。
バルドの名前を知っているのだろう。
エリオが左腕を失ったことを知っているのだろう。
レナがまだ生死の境をさまよっていることを知っているのだろう。
知らない。
知る必要もないのだろう。
彼らにとって。
魔王は死んだ。
戦争は終わった。
明日から。
昨日までの生活へ戻れる。
それでいい。
そのために戦った。
そのために。
多くの人間を死なせた。
それなのに。
なぜか。
胸の奥に、冷たいものが残った。
「勇者様!」
再び、歓声。
私は手を振った。
それしか。
することがなかった。
・
・
・
その夜。
王宮の一室で、一人になった。
鎧を脱ぐ。
身体には。
十五年分の傷が残っている。
肩。
腹。
背中。
太腿。
鏡を見る。
三十歳の男が立っていた。
十五年前。
この世界へ来た時。
私は十五歳だった。
父がいた。
母がいた。
妹がいた。
誕生日だった。
ケーキを食べるはずだった。
それが。
気づけば三十歳。
人を殺し。
仲間を死なせ。
世界を救った。
机の上には。
祝いの品が積まれていた。
黄金。
宝石。
勲章。
王から与えられた剣。
何一つ。
欲しいとは思わなかった。
扉が開いた。
「セイジ」
エリオだった。
左袖が空になっている。
「寝なくていいのか」
「お前に言われたくない」
「違いない」
エリオは椅子に座った。
しばらく。
何も話さなかった。
「……レナ、駄目かもしれない」
私は顔を上げた。
「上級ヒーラーでもか?」
「朝まで持つか分からないって」
立ち上がる。
部屋を出ようとした。
その瞬間だった。
世界が。
白く染まった。
「……何だ」
エリオが消える。
部屋が消える。
扉も。
机も。
祝いの品も。
何もかも。
そして。
私は、見覚えのある場所に立っていた。
白い空間。
目の前に、一人の女がいる。
『お疲れさま』
女神メル。
青髪。
思わずひれ伏せたくなるような美貌。
十五年前。
私をこの世界へ送り込んだ女神。
姿は何も変わっていない。
「……戻せ」
『うん?』
「今すぐ戻せ」
『どうして?』
「レナが死ぬかもしれない」
『でも、君の仕事は終わったよ』
「終わっていない」
『終わったよ』
即答だった。
『魔王を倒す。それが君の役目だったから』
「だから何だ」
『だから』
メルが笑った。
『帰れるよ』
私は動けなかった。
帰れる。
その言葉だけが。
頭の中で繰り返された。
「……どこへ」
『君のもといた世界』
日本。
父。
母。
妹。
十五年間。
何度、帰りたいと思ったか。
最初の一年は。
毎日だった。
五年経っても。
十年経っても。
忘れた日はなかった。
ただ。
途中から。
考えないようにした。
帰れないのだと。
この世界で、レナや仲間と生きていく。
そう思わなければ、自己を保つことはできなかった。
「本当に……戻れるのか」
『戻れるよ』
「十五年前に?」
『正確には、君がこっちへ来た瞬間』
意味を理解するまで。
少し時間がかかった。
「……時間が戻る?」
『違う』
メルが指を振る。
『向こうでは、ほとんど時間が進んでないの』
十五年。
こちらで生きた。
三十歳になった。
仲間を作った。
人を殺した。
人を救った。
愛する人もできた。
それなのに。
日本では。
私はまだ十五歳。
誕生日を迎えたばかりの少年のまま。
「身体は」
『十五歳に戻るよ』
「記憶は?」
『そのまま』
私は自分の手を見た。
この手で。
何人殺した。
何人救った。
三十歳まで生きた人間が。
人殺しが。
現代の十五歳の身体に戻る。
父と母は。
昨日と同じように私を見る。
妹も。
だが。
私にとっては。
十五年ぶりになる。
「この世界はどうなる」
『魔王はいなくなった』
「残党がいる」
『人間側も残ってるから大丈夫じゃない?』
「レナは」
『知らない』
「知らない?」
『私は君を迎えに来ただけだから』
腹の奥が冷えた。
バルドも。
エリオも。
レナも。
こいつには。
何の意味もないのかもしれない。
世界を救うために配置された。
ただの駒。
私も。
同じだった。
「……帰る」
『うん』
もう。
話すことはない。
考えたくもない。
そう思った。
『あ、待って』
メルが手を叩いた。
『報酬』
「いらない」
『そういうわけにはいかないよ』
「欲しいものは、お前には用意できない」
レナを助けられるのか。
バルドを戻せるのか。
死んだ人間を蘇らせられるのか。
できないだろう。
『魔王討伐の報酬として、一つだけ能力を持って帰れる』
私は黙ってメルを見る。
『剣も魔法も向こうじゃ使えない。でもこれは使えるよ』
メルが指を一本立てた。
『魔王覇気』
「何だ、それは」
『魔王が持ってた能力』
魔王。
多くの種族を従えていた。
ゴブリン。
オーク。
獣人。
魔族。
思想も文化も違う連中が。
一人の王へ従っていた。
『相手が君を、自分より上だと思うほど効きやすくなる』
「操れるのか」
『そこまでじゃないよ』
メルが笑う。
『言葉を信じやすくなる。好意を持ちやすくなる。認めてもらいたくなる。その程度』
「洗脳じゃないか」
『魔王は便利そうに使ってたよ』
「だから負けたんだ」
メルが目を細める。
『でも君も、欲しかったんじゃない?』
答えなかった。
『王様がもっと早く軍を出してくれれば』
胸の奥がざらついた。
『貴族が物資を出してくれれば』
「黙れ」
『将軍が君の提案を聞いてくれれば』
「黙れと言っている」
『もっと救えたよね』
私はメルを睨んだ。
事実だった。
剣では斬れないものがある。
力だけでは動かせない人間がいる。
正しいことを言えば。
正しく動いてくれる。
そんな世界ではなかった。
十五年かけて。
嫌というほど思い知らされた。
「……相手の意思は残るんだな」
『残るよ』
「完全に支配する力ではない」
『うん。そんなに深く考えなくていい。人心掌握術の一種だと思ってさ』
なら。
使い方を決めるのは。
私だ。
「もらう」
メルが笑った。
『やっぱり』
「必要がなければ使わない」
『そうするといいよ』
胸の奥に。
冷たいものが流れ込んだ。
痛みはない。
何かが変わった感覚もない。
それでも。
そこにある。
そう分かった。
足元に光が広がる。
「最後に一つ」
『何?』
「私は、どこへ戻る」
メルが笑う。
『君が消えた場所』
光が強くなる。
『君が消えた、その時間』
十五年前。
私の誕生日。
父がいた。
母がいた。
妹がいた。
まだ。
何も失っていなかった頃。
パレードの歓声が。
バルドの顔が。
空になったエリオの左袖が。
眠ったままのレナが。
頭の中を過ぎていく。
私は。
世界を救った。
多くを守った。
そのために。
多くを切った。
それが正しかったのか。
今でも分からない。
ただ。
もう一度だけ。
家族に会いたかった。
光が。
視界を埋め尽くす。
三十歳まで生きた記憶を抱えたまま。
私は。
十五歳だった、あの日へ帰った。
こちらが本編です。
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