第1話 桜の木の下で
雨が降っている。
冷たくない、でも身体に染み込んでくる。
——ふふ、っふはっ
声が込み上げてくる。
あぁ、なんて愉快なんだ、なんて楽しいんだ。なんて、なんて、非常に、非常に。
あぁ桜並木。
あぁ鉄の香り。
まだ蕾で並ぶその姿。
誰かの足音が風に吹かれてやってきた。
三人。
一人は妖艶に、一人は睨みつけて、一人は手袋を嵌めながら、歩いてきている。
——あぁ、集ってしまったね
蕾と青空を見上げる。
——桜が咲く前というのに。
俺は振り向き、"君"にそう微笑んだ。
「…ッ」
体が飛び跳ねた。視界がぐらつく。
辺りを思い切り触る。柔らかい布団、シーツ、枕。ベッドの木枠、朝の冷気で冷たい窓ガラス、飾り気のない壁。
昨日の夜と、同じ。
額に張り付く髪の毛を指先で、そっと払いつつ森鳴碁太郎はそのまま項垂れるようにして、毛布へ沈む。
中学のジャージは汗を吸いきれず妙な不快感へ変わっている。ボソついた生地がまとわりつくのは相も変わらず、嫌いだった。
心臓が高鳴る、暴れている。胸元をぎゅっとその服を掴むも、それは単なる怖さの高鳴りじゃないような予感が、頭を掠める。
「…あれ」
片手の指先を口元に添わせる。…口角が、上がっている。そして何処か…苦しい。もどかしい。
喉の奥が何かを、胸が何かを、求めている。心臓がキュッと、縮まる。頭が一気にこんがらがって、雁字搦めになって、そのままため息を、深くついた。
「…シャワー浴びなきゃ。」
一瞬だけ、あの、冷たくもない、妙な雨の感覚が体を過ぎった。
「あら、アンタ珍しい」
ぐしゃぐしゃと髪の毛をかきながら、階段を降りてくと、キッチンの入口から母親が顔を出してきた。ちょっと髪の毛は雑にまとめられ、エプロンの紐を結びながらだった。
「えっ、あ、おはよう…」
「私も起きたばっかりなのよ、ちょっと待っててね、というかなんか今日早めの用事、あるの?もうご飯食べるの?」
学校はまだ早いでしょ、早く行くの?それとも散歩?カフェ?せかせかと歩きながら母親は、マシンガンの様に言葉を散らす。
朝から元気だなぁと内心思いつつ、浴室へ向かう。
「パパ起こしてから作るからご飯はもう少し待ってくれるー?」
シャワー浴びるから大丈夫、と、大きく声を出し、脱衣所で服を脱ぐ。あぁやっぱり汗がびっしょりだ。
ふと、壁にかけられてる時計を見る。針は四時五十分を指している。母さんいつもこんな時間に起きてたのか…。
母親に対して尊敬を抱きつつ、こんな早く起きるなら、あの夢にまだ浸ってたかったな、とまた脳裏を過ぎる。まだ見てたかった?いやでも、紛れもない悪夢だ、あれは。
もやもやと感情を抱えながら、シャワーを浴びる。
今日から部活体験見学が始まる。いや、違う、今日から新しく学校が始まる。転校してきての初めての、高校。
「変な人居ないといい…なぁ…」
私立というのにもほのかに期待感が宿る。公立よりも綺麗で洒落ていたりするのだろうか。いやでもまずはそう、
"文芸部"。
転校先に、ちゃんと活動してそうな文芸部があって程よく運が良い。前の高校、一年しか在学していなかったが、あちらでは文芸部と名ばかりの、帰宅部であったから。
森鳴碁の高鳴る心臓は、いつしか其方に変わり、シャワーは全てを洗い流していた。
浴室から出て、適当に髪の毛を乾かす。髪の毛が伸びて、まるで昔の浪人のようになっている事に気が付く。
「あ…完全に切るの、忘れてたな」
まぁミステリー作家っぽいか?と笑いつつ、転校初日にしては流石に暗すぎるかと考えつつも、そのまま乾かし終え、別のジャージに着替えると二階へ戻る。
時計を見やる。
朝の五時、長い針は半を過ぎたあたり。
シャワーを浴びたからか、眠気は一切襲ってこない。
まだ制服に着替えるのも早く、かと言って布団に入る気も何処かはばかられる。
彼は本棚からそっと一冊を取り出し、そのままベッドの上に乗る。
選んだのはミステリーサスペンス。
美しい殺害方法に加え、狂気的かつ美学を持つ、優雅な殺人鬼とその一瞬の殺害から、追い詰めるのにも謎を解くのも、何処か殺される恐怖が恐ろしい、比較的王道なミステリ。
……この殺人鬼が、主人公でも、良いのではないか。もっとその様な作品が増えても良いのではないか。
紙をめくる手は止まらない、最後のページ、彼が背後から首元に鋏を——
「太郎ー? できたよー」
母親の声でハッと顔を上げた。
時計は七時前を既に指し示していた。
慌ててこの本を置き、ベッド頭に置いてある古本をひったくるように持って彼は慌ててかけて行った。
何故変えたかは特段無意識である、でもなぜか昔から、その本は持ってなければならない、心が和らぐ、不思議な古本であった。
「新刊買わんのか?」
「歴史無い」
「買わなきゃ産まれないぞ」
あだっ、と彼は肩を大袈裟にはね、新聞で叩かれた頭をさする。読まれていた本がパタッと閉じてテーブルへ倒れた。
彼を新聞で叩いた本人である、父親はやれやれといった目でそのまま、母親の隣の椅子を引いて新聞を開く。
「いや別に…買う時は…買うし…」
消え入りそうな声で彼は渋々そのまま本をちゃんと置き、朝食に手を付け始めた。
「アンタ本当にその本好きよねぇ」
新聞を読む父親の隣で、母親が味噌汁をすする。
「古本?ミステリー?」
漬物を白米にのせて、森鳴碁は頬張る。
「ん…。こへは、しじつの、みふてりー」
「こら行儀悪い」
「…はぁい」
それ何度も読んでないか?という父親の言葉を無視して、彼は食べ進める。
時間は―七時過ぎ。まだ余裕はある、それでも新しい学校、その期待感は彼の心の余白を焦らしていた。
——眞桜ヶ宮高等学校
筆文字のように美しく彫られた石の門を越え、足を踏み入れて、数分。
少しばかり重い通学鞄を、持ち直し、改めて目の前の建物を見上げる。
周りには若干葉になりつつも桜が咲き、その道は少しボコボコとした石畳と桜の絨毯が続く。並ぶ石垣には控えめに咲く花々。そして、少し古びて変な蔦が絡みつく薄寂れた建物。
真正面には、同じように少し薄汚い比較的大きな建物。窓や建築自体、明治・大正辺りの洋風らしさを若干残しつつも見た目はあまり私立らしさを感じさせぬ、風貌であった。
「…ん…少し予想してたのとは違うかな」
口元に指先を当て、少しばかり唸る。
「でも、穏やかで少し古い」
好きかもしれない、そう口で微笑み、森鳴碁は昇降口に向かう。派手さを好まぬ彼にとって、静かに佇む、その姿は無意識に望んでいたものであった。
「…職員室行かなきゃか、いや、でもまずは」
壁に掛けてある校内案内の地図をそっと指先でなぞる。文芸部の部室を、辿る。既にネット上でリサーチ済みであった。
もう使われていない教室が、文芸部の部室。その部屋は旧校舎の一階の端——
ちょっとだけ、覗こう。
空いていないかもしれないが、新しい学校の探索ついでに。職員室は後でからでもいいだろう、そう自分に言い聞かせ向かう。
もし誰かに何か聞かれても、迷子になったんです、と押し切ろう。そんないつもじゃ出てこない気の強さを頭に浮かべ、意志のしっかりとした足取りでまずは旧校舎へ向かう。
廊下をずっと進み、渡り廊下を渡った先の扉。銀が少し禿げかかっているドアノブに手をかける。蝶番ですら悲鳴を上げている。
「ここ、あれか」
あっと気付く。
先ほど外で見かけた桜並木の後ろに佇んでいた古びた建物がまさに今行こうとしている旧校舎。
ではきっと、廊下の窓や教室からはさぞ桜並木が綺麗に見えるだろう。
そう期待して扉を開ける。
案の定、薄暗く蛍光灯もきれかかっている人気のない廊下。
しかしそこに、それを覆すほどの、並ぶ窓の外に咲き誇る花々。
——ガコン
重く何か引っかかったような音が廊下に響く。先程は気付かなかったが、廊下の奥、人影が窓に手を伸ばしていた。
風が一気に強くなる。
花弁が入ってきてしまう、その焦りでその空けられた窓に駆け寄るも、時すでに遅く、廊下内には桜色に染め上げられていた。
「見ない顔だ。」
鋭い声が上から響く。
開けられた窓に座るようにして、腕を組んだ制服姿の少女がじっくりと舐めるように、こちらを若干睨んでいる。
その目は猫のように鋭く、黒髪が纏められ、そこから落ちる髪が花弁と共に静かに揺らいでいた。
「こっちの方に来るとは物好きだねぇ」
廊下の奥から声が響く。
少し甘っぽくて間延びした声。
現れたその人は、襟元を少し開け、髪の毛は無造作で瞳にかかるような、制服姿の男子。
「…桜の絨毯にしてしまうほどの、貴方がたには構いません」
森鳴碁はそう言って笑った。
「あ、良い返し」
先程とは打って変わって鈴のように軽やかな声で、その少女は窓から降りる。
「ねぇ物好きさん。刺客?もしかして——」
「文芸部に入部希望、でしょうか?」
ガララ、と教室が開き、穏やかな声が辺りを一気に支配した。
白手袋をした、穏やかに微笑む背の高い制服を着た男子が、一枚の紙を手にして立っていた。
開かれた扉の、簡素に書かれた看板には、確かに"文芸部"の文字。
「えぇ、旧校舎のミステリに取り憑かれた亡霊に仲間になりたいってぇ……?」
わざとらしく驚く、色っぽい男子に対し、
「分かってるくせに相変わらずね」と棒読みのように冷たく返す少女。
そして森鳴碁の方を向き、その鋭い瞳を柔らかく細めた。
「君なら大歓迎。運命って、ね」




