第4話_断じていたしません
その夜。王都の宿屋の一室で、セレスティアは翌日の査問会に向けた弁明書を必死に書き直していた。
ペンを走らせる手が、ふと止まる。控え室でディノの手首を掴んだレイジの、あの凍りつくような瞳が脳裏をよぎった。
(……きっと、気のせいだわ。あの方が、あんな顔をなさるはずがないもの)
彼女は小さく首を振り、再び書類に向き直った。
同じ頃、宿屋の最上階にある貴賓室のバルコニーには、夜の冷たい風を浴びながら佇むレイジの姿があった。
その背後には、黒衣の腹心・クロウをはじめ、王宮特務監察局の紋章を帯びた精鋭騎士たち、そして『ヴェール商会』の法務・財務を取り仕切る幹部たちが十数名、一糸乱れぬ動きで整列し、片膝をついていた。
レイジは手元のワイングラスに映る満月を見つめ、低く抑えた声で口を開いた。
「……実家の愚かな兄上たちが、僕の予想以上に腐りきっていたよ。あろうことか、僕の大切なセレスティアの誇りを嘲笑い、彼女のお母様の形見にまで手をかけようとした」
グラスを握るレイジの指先に、わずかに魔力が宿る。
ただそれだけで、最高級のクリスタルガラスにピシリと鋭い亀裂が走った。
「クロウ。手加減は一切不要だ。当初は実家の体面を少しは残してやるつもりだったが、気が変わった」
「はっ。では、『計画・最終段階』を発動いたしますか?」
「ああ。今夜から明日の朝九時までの間に、ガマル商会とカルネ子爵家が持つすべての債権、手形、不動産、および商業ギルドの株券を、『ヴェール商会』の資金力で一つ残らず買い叩き、完全にロックしろ。一枚の銅貨すら動かすことをできなくするんだ」
「御意」
「さらに、長男ガルドと次男ディノがこれまで裏で行ってきた魔鉱石の違法密輸、公文書偽造、関税横領のすべての裏帳簿と証人を、明日の特別監査院の会場へ揃えろ。また、僕が匿名でヴォルター侯爵家の事業に融資していた金貨三十万枚の即時一括返済請求書もだ」
「はっ!」
幹部たちは短く答え、次々と闇の中へ消えていく。
最後に残ったクロウに、レイジは静かに命じた。
「明日の査問会には、買収された下級監査官ではなく、僕の直属の部下である『王宮最高監査官』と、近衛騎士団の精鋭を突入させろ。――僕の愛しい婚約者を泣かせた連中だ。社会的にも、経済的にも、二度と太陽の下を歩けないよう、一匹残らず息の根を止めてやる」
夜風に揺れる黒髪の奥で、最強の捕食者の瞳が静かに、そして残酷に煌めいていた。
◇
翌朝十時。
王都・貴族議会附属の特別監査院、第一大審問室。
高い天井からステンドグラス越しの光が降り注ぐ荘厳なホールには、異様な熱気と悪意が渦巻いていた。
正面の原告席には、豪華な衣装を着飾ったガマル会頭、カルネ子爵、そして「証人兼・後見人」としてふんぞり返るヴォルター侯爵家の長男ガルドと次男ディノが並び立っている。傍聴席には、彼らに買収された取り巻き貴族や新聞記者たちが陣取り、これから始まる「地方の若き女当主の公開処刑」を今や遅しと待ち構えていた。
それに対し、被告席に立つのは、睡眠不足でわずかに目の下に隈を作りながらも背筋を凛と伸ばしたセレスティアと、その後ろで相変わらず眠たそうに佇むレイジの二人きりだった。
「――これより、ガマル商会およびカルネ子爵家より提起された、アルトリア伯爵家の契約不履行および関税法違反に関する特別査問を開始する!」
ガマルたちに買収された中年の主任監査官が、木槌を打ち鳴らして高らかに宣言した。
ガマル会頭がしたり顔で立ち上がり、一通の書類を掲げてみせる。
「主任監査官殿! 証拠はすでに提出した通りでございます。アルトリア伯爵家は一昨日の正午までに納入すべき蒼輝石を一欠片も届けられませんでした! よって契約書の特別条項に基づき第三坑道の採掘権を、さらに不当な言いがかりへの慰謝料として『蒼輝石鉱山の全採掘権および経営権』を、即刻我が商会へ強制譲渡する判決を求めます!」
間髪入れず、カルネ子爵も肥満体を揺らして立ち上がった。
「さらに我が領の関所にて差し押さえた魔鉱石は、アルトリア家が不当に関税を免れようとした密輸品に他なりません! 当主代行であるセレスティア嬢には、莫大な罰金と禁錮刑が科されるべきです!」
「異議あり!!」
セレスティアの凛とした声が大審問室に響き渡った。
彼女は手元の分厚い資料を掲げ、主任監査官を真っ直ぐに見据えた。
「その契約書の特別条項は、ガマル商会が後から別のインクで書き加えた明白な偽造です! 当家に残された控えと筆跡およびインク成分の比較鑑定書をここに持参いたしました! また、カルネ子爵が発布した『五倍の関税』は、事前通告期間を定めた王国商業法第三十二条に違反する無効な条例です! 密輸などという事実は断じてございません!」
理路整然とした、完璧な法理論による反論だった。
しかし、主任監査官は提出された資料に目を通すことすらせず、冷酷に鼻で笑った。
「却下する。ガマル商会側の契約書にはアルトリア家の正当な血判がある以上、控えのインクなどという些細な違いは証拠にならん。また、地方領主の裁量権による関税引き上げも妥当である」
「なっ……!? 調べもしないで却下ですって!? あまりにも不当な審理です!」
セレスティアが抗議の声を上げる中、原告席から長男のガルドがゆっくりと立ち上がり、傍聴席全体に聞こえるような大声で嘲笑った。
「見苦しいぞ、セレスティア嬢! 自分の経営能力のなさを棚に上げて、やれ偽造だの違法だのと喚き散らすとはな! だから田舎の女当主には荷が重すぎると言ったのだ!」
次男のディノも、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて言葉を継いだ。
「まったくだね。でもまあ、僕たちヴォルター侯爵家も鬼じゃない。今すぐその場で土下座して、『私のような無能な小娘には領地は守れません、すべてヴォルター侯爵家とガマル商会に献上いたします』と誓約書にサインするなら、禁錮刑だけは免除してやってもいいよ。ほら、後ろにいるうちの無能な三男坊と一緒に、仲良く床に額を擦りつけたらどうだい?」
どっと傍聴席の取り巻き貴族たちから下品な笑い声が上がる。
「そうだそうだ! 大人しく鉱山を明け渡せ!」
「無能な入り婿と世間知らずの女当主じゃ、最初から勝負にならんわ!」
四方八方から降り注ぐ悪意と嘲笑の嵐。
監査官までが完全に敵の手に落ちているこの場で、セレスティアは文字通り絶体絶命の淵に立たされていた。
サインをしなければ、不当な禁錮刑としてこの場で衛兵に拘束され、その間に領地は強制接収されるだろう。サインをすれば、父と母、そして領民たちが守り抜いてきたアルトリア領のすべてが、この強欲なハイエナどもの餌食になる。
唇を噛みしめ、血の滲むほど拳を握りしめたセレスティアだったが――やがて彼女は顔を上げ、決して折れない高潔な瞳でガルドたちを睨みつけた。
「……断ります」
静かだが、鋼のように強靭な声だった。
「たとえこの場で私が不当に拘束されようとも、私個人のすべてを失おうとも! 不正と暴力に膝を屈し、愛する領民たちの生活をあなた方のような卑劣漢の食い物にさせることだけは、アルトリア伯爵家の誇りに懸けて断じていたしません!!」
「ほざくな小娘が!! 主任監査官、こいつは法廷侮辱罪だ! 今すぐ衛兵を呼んで、この女を地下牢へ引きずり込め! 譲渡書類には俺たちが後見人として代筆してやる!」
ガルドが顔を真っ赤にして怒鳴り、主任監査官が木槌を振り上げようとした、まさにその瞬間だった。




