2-5−4 出会いと別れ
急いだけど、やっぱり開店時間には間に合わなかった。
時計は18時を30分ほど過ぎている。
駅からジェムノットまでの道を急ぎながら、
私は胸の奥で小さく謝っていた。
(ごめんなさい…気を付けて急ぎます…!)
「お疲れさまです」
事務所の扉を開けると、いつもの静けさが迎えてくれる。
でも、空気の温度が、ほんの少しだけ違う気がした。
影が、いつもより細く伸びているような、
そわそわしている感じがする。
「レーヴ」
事務所のほうから、低くて落ち着いた声がした。
遼叔父さんだ。私は背筋を伸ばして、早足で向かう。
「すみません、遅くなりました」
「大丈夫だ。
よく休めたみたいだな、顔色いいぞ」
そう言う、遼叔父さんの影は、いつもと違う揺らぎがあった。
静けさの中に、ほんの少しだけ、波紋が広がっているような。
きっと、何かあるんだ。
「霧島が卒業することになった。
歌で送り出してやってもらえるか」
卒業──
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
優しくて、フワフワして、少しだけ、痛い。
「もちろんです。どうすればいいですか」
体調、大丈夫。喉も大丈夫。
でも、心のほうは、少しだけ追いついていない。
嬉しいようなさみしいような、ソワソワしてる。
「俺は表に回らなきゃならない。
大江に案内してもらって」
遼叔父さんは、私の頭をポンポンと撫でて、
それから大江さんのほうへ目を向けた。
ポンポンされただけなのに、気持ちがスッと落ち着いた。
「大江、頼む」
「了解。レーヴさん、こっちです」
太陽みたいな笑顔。
大江さんの笑顔は、いつも、気持ちを明るくしてくれる。
促されて、私は従業員通路へ向かう。
でも、いつもブースへ向かうときとは、逆方向。
見慣れた薄暗い通路なのに、
進む向きが違うだけで、まるで別の場所に行くみたい。
(こんなに長かったっけ…)
足音が、静けさの中に溶けていく。
壁の照明が、少しずつ遠ざかって、また近づいて。
影が伸びたり、縮んだりするたびに、胸の奥が少しざわついた。
「ここです」
大江さんが立ち止まった先には、見たことのない扉があった。
ジェムノットの中なのに、
まるで別の世界への入り口みたいな、静かな気配。
「卒業前の控室です。少し待ちましょう」
部屋に入ると、空気が柔らかく変わった。
照明は落ち着いた暖色で、壁には余計な装飾がない。
ただ、静けさと、少しだけ祝福の気配が漂っている。
(…なんて素敵な部屋)
椅子に腰掛けると、
クッションがふわりと身体を受け止めてくれる。
緊張で細くなっていた影が、少しだけ丸くなった。
大江さんは端末を取り出し、何かの操作を始めた。
指先が、迷いなく画面の上を滑っていく。
私は、ただ静かに待つ。
呼吸を整えながら、胸の奥のざわめきを、
少しずつ落ち着かせていく。
「レーヴさん」
「はい」
「安室奈美恵さんの歌、わかりますか。結婚式とかの」
結婚式。
祝福。
別れと、始まり。
「ド定番のあれなら」
言葉にすると、少し照れくさい。
でも、あの曲なら、胸の奥からまっすぐ出てくる。
大江さんが、ぱっと笑った。
いつもの、太陽みたいな笑顔。
「そう。それです。多分そろそろ…」
端末の画面をじっと見つめる横顔は、いつもより真剣だ。
笑顔の奥に、少しだけ寂しさが滲んでいるような気がした。
「……いけます!いきましょう」
短く息を吸って、立ち上がる。
私も立ち上がる。
影が、同じ方向へ伸びていく。
さらに奥へ。
通路は、さっきよりも静かで、照明も少し落ちている。
足音が、ほとんど聞こえないくらいに柔らかくなっていく。
(ここ、ジェムノットの中なんだよね…)
まるで、店の心臓部に近づいているみたいだ。
静けさが濃くなって、呼吸が自然に深くなる。
「俺があの扉を少し開けたら、歌ってあげてください」
少し先に、白い扉が見えた。
シンプルで、飾り気がない。
でも、そこに何か大切なものがあると、なぜかはっきり感じる。
「はい」
私は、胸の奥でそっと息を整えた。
心からの、祝福。霧島さんの卒業。
お互いを“たった一人”と、選びあった人たち。
大江さんが、扉の取っ手に手をかける。
ほんの少しだけ、隙間が開く。
私は、息を吸った。
――ラララララ…
歌詞はあえて乗せないで、Aの音だけで歌う。
…きっとその方がいい。
声が、静けさの中に溶けていく。
安室奈美恵さんの歌。
何度も耳にしたことのあるメロディ。
でも、今は、ここだけのための歌。
扉の隙間から、ほんの少しだけ向こうの様子が見えた。
柔らかな照明。
白い布。
影が二つ、寄り添うように並んでいる。
霧島さん。
佐伯さん。
二人の影は、揺れていない。
ただ、静かに、重なり合っている。
痛みを湛えていた霧島さんの静けさが、
今は、どこか満ち足りているように見えた。
佐伯さんの影も、あの滲みが、優しい光に変わっている。
(たしかに、この歌がぴったりだ…)
歌詞の一つひとつが、二人の影に触れていく。
祝福。
約束。
“たったひとり”と、歌が告げるたびに、胸の奥が少し熱くなる。
ウユニ塩湖で歌った、あのノッティングを思い出す。
遼叔父さんと、“イヴ”。
“たったひとり”と結ぶ儀式。
あの時の光と、霧島さんと佐伯さんの光が、
静かに重なっていく気がした。
最後のフレーズまで歌い終えると、私はそっと息を吐いた。
扉の向こうで、何かが静かに結ばれた気配がする。
拍手の音は聞こえない。
でも、空気が、確かに祝福で満たされていた。
大江さんが、扉を静かに閉める。
音はほとんどしない。
ただ、ひとつの区切りがついたことは感じた。
「お疲れさまでした。戻りましょう」
「…もしかして…ノッティング、ですか」
自分の声が、少しだけ震えているのがわかった。
「はい。霧島は、“卒業”です。もう店には来ません」
もう店には来ません。
その言葉は、静かに胸の奥に沈んだ。
ほんの少しのさみしさと、安堵と、
祝福が、全部混ざり合っている。
(幸せそうだった…)
それだけは、はっきりしている。
霧島さんの影は、もう危うくなかった。
佐伯さんの影も、滲みではなく、光を湛えていた。
(“たったひとり”…)
結ばれた影。祈りの歌。
どうしても、あの日のウユニを思い出す。
通路を戻りながら、私は少しだけ目を閉じた。
静かに揺れた影が、また整っていく。
「ブースに入っていただきたいですが、
サッと新人紹介だけさせてもらえますか」
大江さんの声で、現実に引き戻された。
―――出会いと、別れ。
別れのあとには、いつも何かが続いていく。
「はい、わかりました」
事務所に戻ると、空気が少しだけ賑やかだった。
でも、ジェムノットらしい静けさは、ちゃんと保たれている。
控室のほうから、少し声が聞こえる。
「小杉、今どうだ」
「大江さん、レーヴちゃん。おつかれっす。
今ブース見てもらってるとこっす」
扉を開けると、
見慣れた小杉さんと、初めて見る女性がいた。
「はじめまして、レーヴです」
私は、丁寧にお辞儀をする。
「笹原こよみです。よろしくお願いします」
柔らかい声。
落ち着いた影。
揺れが少なくて、輪郭がとても整っている。
(この人、ずいぶん影が整ってる…)
斎宮家の静けさとは違う。
でも、乱れの少ない、穏やかな影。
ジェムノットに、よく馴染みそうな静けさ。
「レーヴちゃん、ブース見学させてもらっていいですか」
小杉さんが、いつもの調子で言う。
目がきゅるんきゅるんしている。
でも、さっきより少しだけ、しんみりしている気もする。
「もちろんです!さっそく入ります、ご予約押してますよね」
歌うことを考えると、胸の奥が少し軽くなる。
出会いと別れのあとでも、歌は続いていく。
「はい。大丈夫です、行って歌ってください」
大江さんの声に、背中を押される。
私は頷いて、控室を出た。
「はい!」
霧島さんは卒業した。
でも、ジェムノットは続いていく。
新しい人が来て、また誰かが、自分の本質をさらけ出す。
足取りは、さっきよりも軽い。
私は、歌う。
出会いと別れの、その間にある静けさを、
少しでも美しくできるように。
ブースへ向かう扉の前で、私はそっと息を吸った。
胸の奥の痛みも、祝福も、全部抱えたまま。
今日も歌おう!




