慈しみを家族に、情を友に、愛を民に
「汝、元より王たる宿命にあり。慈しみを家族に、情を友に、愛を民に注げ。如何なる艱難ありとも道は必ずや開かれん。その歩み、常に光明と俱にあり」
至聖神官アポストルの、朗々と響く声が神殿を震わせる。
あの凄惨な事件から、三年。
神殿で行われた立太子の礼において、跪くノエルはアポストルを通じ、神からの祝福を賜っていた。
父エドワードは、その光景を震えるような感慨とともに見守る。
(生まれついての王、か。やはり、ノエルこそがその器であったのだな……)
かつて王位という地位に固執し、己を破滅へと追いやったもう一人の息子の面影が脳裏をよぎる。通常、立太子は遅くとも十三歳までには行われるものだが、ノエルはすでに十八歳。
それは、先の王太子が起こした事件が民の心に落とした影への配慮であり、何よりノエル自身が「まだ早い」と拒絶し続けてきた結果でもあった。
母ポレッタは、立派に成長した息子の姿に、ハンカチを握りしめて感涙に咽んでいる。
一方、十五歳になった妹アイラは、シンクレア学園に入学し、体術の達人としての頭角を現していた。彼女は(これでようやく、兄さまを影からお守りする準備が整うわ!)と、不敵な笑みを浮かべている。
他の弟妹たちも三者三様だ。
ルシアは「ソフィアお姉さま、なんてお綺麗なの……」と隣のソフィアをうっとりと眺め、ハンスは「お兄さま、本当にかっこいい! まるでトランプのキングみたいだ!」と一人でウキウキしている。
まだ幼いメリルは「にゃんだろ、ここ?」と不思議そうに周囲をキョロキョロと見回し、末っ子のロビンにいたっては「にいーにいー!」と、厳かな空気もどこ吹く風で壇上のノエルに元気よく手を振っていた。
儀式を終えた一行は、民衆が待つパレード用の馬車へと乗り込む。
沿道を埋め尽くす人々に笑顔で手を振るノエル。そしてその隣には、彼の婚約者となったソフィアの姿があった。
ソフィア自身、未だに事の経緯が飲み込めていない。
かつては生徒相談室に毎日現れるノエルを、無碍にあしらっていたはずだった。しかし、彼が他国へ一年間留学した際、ぽっかりと心に空いた隙間風に戸惑った。ようやく帰国して安心したのも束の間、すぐに卒業という別れが迫り……感情をかき乱され続けた結果、彼からの「婚約してほしい」という言葉に、気づけばこくりと頷いてしまっていたのだ。
(私、どうしてここに座っているのかしら……)
熱狂する民衆の歓声を浴びながら、ソフィアは「ノエルの術中に見事にはまったのではないか」という疑念を、隣で微笑む未来の王太子の横顔にぶつけるのだった。
「ソフィアさま〜っ!」
聞き覚えのある明るい声に顔を向けると、沿道にはかつて対策室で共に活動したセレナとフィンの姿があった。満開の笑顔を浮かべ、幸せそうに手を繋いでこちらに手を振っている。
その睦まじい様子に、ソフィアは彼らが歩んできた苦難の道を思い出していた。
あの事件の直後、セレナは深い心の闇の中にいた。幼い頃からの婚約者であったジェイソン・ドナパルド。彼はモルティマー王子の陰謀に加担し、非業の死を遂げた。彼を追い詰めるきっかけを作ったのは、皮肉にも彼女自身。仕方のないことだったとはいえ、幼馴染でかつての婚約者を死に追いやったという自責の念は、彼女の心と体を蝕んだ。
眠れぬ夜が続き、食事も喉を通らず、ただぼんやりとしているだけで涙が溢れ出す日々。そんな彼女の隣に、フィンはただ静かに寄り添い続けた。
彼女を責めることも、励ますことさえせず、ただ側にいて話を聞き、溢れる涙を拭い去る。
やがてセレナの瞳に光が戻り、再び笑えるようになった頃。フィンは真っ直ぐに彼女を見つめて言った。
「一生、僕の側にいてくれませんか?」
フィンの存在なしではもはや息をすることさえ難しくなっていたセレナが、その手を取ったのは必然だった。
「ソフィア! 殿下!」
次に聞こえてきたのは、慣れ親しんだ声。シンクレア学園の前では、アテナ校長とイングリッド理事長が威風堂々と手を振っていた。
ソフィアの胸に熱いものが込み上げる。卒業式のあの日、解雇を覚悟で自分を庇ってくれたアテナの大きな慈愛。そして対策室という場所を与え、かつての自分と同じように傷ついた少女たちを救う機会をくれたイングリッド。今の自分があるのは、間違いなくこの二人のおかげだった。
やがて馬車は王宮へと到着し、王宮騎士と女官たちによる盛大な出迎えを受ける。
ノエルのエスコートで馬車を降りるソフィアの背後には、ふっくらとしたお腹をいたわるように歩く一人の女官がいた。アイリスだ。
彼女は卒業後、女官見習いを経てソフィアの専属となった。そしてその姿を、凛々しい制服に身を包んだ王宮騎士レオが、愛おしそうに見守っている。
二人の縁もまた、血の滲むような事件から始まったものだった。
メリル王女の恩人としてノエルから王宮入りを打診されたレオだったが、彼は「アイリスが卒業するまで、彼女を守りたい」と、一年間の学園護衛を志願した。
事件が起きたのは、アイリスが帰路につこうとした時だ。
かつての婚約者が放った刺客たちが、丸腰のアイリスを幾重にも取り囲んだ。体術に覚えのあるアイリスも必死に防戦したが、多勢に無勢、相手は武器まで持っている。絶体絶命のその瞬間、風を裂いて現れたのがレオだった。
彼はアイリスを背中に庇い、獅子のごとき勢いで男たちをなぎ倒していった。しかし、遠巻きに様子を伺っていた男が放った卑劣な一本の矢が、レオの脚を貫く。
矢には猛毒が塗られていた。
レオは生死の淵をさまよった。グラント伯爵邸に運び込まれた彼を、アイリスはなりふり構わず献身的に看病した。
「自分のせいで彼が死んでしまうかもしれない」
その恐怖と罪悪感に押しつぶされそうになりながら、彼女は学園以外のすべての時間をレオに捧げた。
ようやくレオが意識を取り戻し、掠れた声で「ご自分の時間を大切にしてください」と彼女を気遣ったとき、アイリスは心に決めたのだ。
(守られるだけの私ではいられない。今度は私が、彼の隣に立つのだ)
彼女は猛勉強の末、最難関の女官試験を突破した。
合格通知を手にレオのもとへ駆けつけ、「あなたが王宮騎士になる頃、私も王宮にいます」と宣言したアイリス。
その強い瞳に射抜かれたレオが、快復した後に告げた言葉は、至極シンプルなものだった。
「もし許されるなら、一生あなたの側で、守らせてください」
馬車を降り、光り輝く王宮の階段を登りながら、ソフィアは隣のノエルと、そして後ろに続くレオとアイリスを感じていた。
悲劇の終わりは、決して虚無ではない。それは新しい命と、永遠の誓いへと続く、輝かしい序章だったのだ。
パレードの喧騒を離れ、ソフィアは北翼にある自室へと戻った。
かつては忌まわしい記憶の象徴でしかなかったこの場所も、今は新しい女主人を迎えるために隅々まで刷新され、窓から差し込む夕日に照らされて輝くばかりの美しさを見せている。婚礼を済ませれば、ここは王太子ノエルと、王太子妃ソフィアが共に歩むための愛の巣となるのだ。
ソフィアがふかふかの座椅子に身を預け、ようやく訪れた静寂の中でぼんやりとしていると、控えめなノックの音が響いた。
「ソフィア、お疲れさま」
扉を開けて現れたノエルは、いつものように穏やかな微笑みを湛えていた。
「いえ、こちらこそ。殿下、改めて……立太子、本当におめでとうございます」
立ち上がり、深々と頭を下げるソフィア。そんな彼女を優しく制しながら、ノエルはふと、遠くを見つめるような瞳で語り始めた。
「……本当のことを言うとね。僕は、公爵位でも貰って、どこか暖かい土地でソフィアと二人、のんびりと暮らしたいなと思っていたんだ」
意外な告白に、ソフィアは驚いて顔を上げる。
「でもね、ソフィアが僕のお嫁さんになってくれるって決まった時、思ったんだ。この国を、もっともっと平和で、楽しくて、豊かな場所にしなければいけないって。君と、これから生まれてくる家族が、ずっと笑っていられるような国にね。――そのためには、僕が王太子になるしかないだろう?」
そう言ってノエルは、初めて出会ったあの日の幼子のような、一点の曇りもない無邪気な微笑みを見せた。
彼の決意の根源には、いつも自分がいた。その事実に胸がいっぱいになり、ソフィアはそっとノエルの手に自分の手を重ねた。
「……一生、お支えいたします」
重ねられた手から伝わる確かな熱が、二人の決意を静かに、けれど強く結びつけていく。
新しく生まれ変わった北翼の部屋に、温かな誓いの光が満ちていった。
*
空はどこまでも高く、澄み渡る青。
神殿は、今日この日のために運び込まれた無数の白い薔薇の香りに包まれていた。
荘厳なパイプオルガンの音が鳴り響く中、重厚な扉が開く。
そこに現れたのは、純白のドレスに身を包んだソフィアだった。かつての「対策室」での日々、自らを盾にして戦っていた頃の険しさは微塵もなく、ヴェールの下にある彼女の表情は、朝露に濡れた花のように瑞々しく、そして凛としていた。
そのソフィアの長いベールを後ろから持つのを任されたのは、弟ハンスと末の妹メリルだった。
メリルは、ふわふわの白いドレスに身を包み、緊張した面持ちでベールの端を握りしめている。幼い彼女が一生懸命に淑女として歩く姿は、参列者の頬を緩ませた。
祭壇の前に立つノエルは、王太子としての正装に身を包み、ソフィアを待っている。
彼女が隣に並んだ瞬間、ノエルは誰にも気づかれないほど微かに、安心したように目を細めた。
「汝、健やかなる時も、病める時も……」
アポストルの厳かな誓いの言葉が響く。
二人の背後で見守る家族たちの様子も、今日は一段と賑やかだ。
父エドワードは、幼い頃のノエルを思い出し、感動に打ち震えている。
母ポレッタは、娘のように見守ってきたソフィアの晴れ姿に、今日何度目か分からない涙を流している。
アイラとルシアは、兄を支える頼もしい義姉を得た喜びに、手を取り合って喜びあった。
末弟のロビンが「ねーね、きれー!」と大きな声を出し、それをアイリスが優しく嗜める。レオは護衛を務めながらも、時折、温かな眼差しを新郎新婦に向けていた。
指輪の交換を終え、ノエルがソフィアのヴェールをそっと上げる。
「ソフィア。僕を選んでくれて、ありがとう」
囁かれたその声は、王太子としての義務ではなく、一人の男としての純粋な愛の告白だった。
ソフィアが微笑みとともに頷くと、二人は静かに誓いの口づけを交わした。
神殿を出た二人を待っていたのは、割れんばかりの歓声と、空を舞う鳩の群れだった。
馬車に乗り込んだ二人は、沿道を埋め尽くす民衆へと手を振る。
その中には、ひときわ大きく手を振るセレナとフィンの姿もあった。
「お幸せにー! ソフィアさま!」
セレナの明るい声が、風に乗ってソフィアの元へ届く。
隣を見れば、世界で一番大好きな人が、誇らしげにこの国と、そして自分を愛おしそうに見つめている。
ソフィアは今、ようやく理解していた。
かつて冷たい仕打ちに震えていた自分は、この温かな光に辿り着くために、あの苦難を乗り越えてきたのだと。
馬車が王城の門をくぐり、新しい歴史の始まりを告げる鐘の音が、高らかに街中に響き渡った。
アテナは、その鐘の音を遠くに聞きながら、大事な教え子の幸せを我が事のように噛み締めた。
そして、大勢の大切な生徒たちのために、今日も学園内を闊歩するのであった。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
この話はここで一旦おしまいですが、愛着のあるキャラたちになったので、また続きを書きたくなるかもしれません。
ここまで見守ってくださった皆様に、心から感謝いたします。
もしよろしければ評価、リアクションやブクマで応援いただけると、次作の励みになります。
ありがとうございました。
追記
ノエル王子と従者アランのやり取りが好きすぎて、『ノエル王子と従者アランの日常 〜婚約破棄対策室異聞〜』を書き始めました。よろしければ、こちらも合わせてよろしくお願いいたしますm(_ _)m
https://ncode.syosetu.com/n1777mc/




