殿下、見えます!
「えっ……これは、一体……」
王城の正面に辿り着いたノエルの視界を遮ったのは、堅く閉ざされた城門と、跳ね上げられた橋の姿だった。外界との繋がりを絶ち、沈黙を守るその城壁は、今や巨大な監獄のようだった。
「殿下、申し訳ございません……!」
駆け寄ってきたのは、弟や妹たちの従者や侍女たちだった。主を守れなかった悔恨に顔を歪める彼らを、ノエルは静かに制した。
「……いいんだ。そんなことより、何があったのか詳しく教えて」
震える声で語られる、あまりに信じがたい経緯。
「そうか、メリルが……」
あんなに小さな、愛らしい妹までを狂気の道具にした兄への憤りと、悲しみがノエルの胸を塞ぐ。
「……分かった。みんな、ありがとう」
その時だった。
「あっ、あれを見てください!」
悲鳴のような声に導かれ空を仰げば、王宮の南翼、その最上階の窓からどす黒い煙が、不吉な狼煙のように吹き出していた。
ノエルの背筋を冷たい悪寒が走り抜ける。
「アラン、僕は王宮へ行く。……南翼へ」
アランは迷うことなく深く頷いた。
「御意。どこまでもお供いたします」
二人が向かったのは、かつて何度も登ったあの城壁。南翼に最も近く、そして最も険しい場所。
手渡された装備はいつもと同じ。だが、決定的な違いが一つだけあった。滑落を止めるための命綱を固定する支柱が、どこにもないのだ。
「……俺が、王子の命綱になります」
アランが静かな、だが鋼のように強い声で言った。彼は一本の綱の端を自分の腰に固く結びつけると、もう一方をノエルに手渡した。
「じゃあ、僕もアランの命綱だ」
ノエルもその綱を己の腰に巻き、互いの重みを共有した。一人が堕ちればもう一人も道連れにしかねない。しかし、二人の信頼感が綱を繋ぐことに躊躇を許さなかった。
城壁に指をかけた、その時。
「ノエル殿下ーーっ!」
背後から、ソフィアの叫びが響いた。
「ソフィア、無事に戻れたら、一つだけお願い聞いてね」
ノエルは一度だけ力強く手を振り、叫んだ。
そして、垂直の壁へと挑み始めた。アランもまた、主の背中を追って岩肌に食らいつく。
下で見守る人々からは、祈りと声援が地鳴りのように湧き上がった。
「殿下、頑張れ!」
「死なないで、気を付けて!」
そんな中、双眼鏡を構えた男が絶叫した。
「殿下、見えます! 陛下たちは南翼の最上階におられます!」
ヒヤヒヤとする視線が二人の背中に突き刺さる。一歩間違えれば、待っているのは冷たい石畳への転落。
だが、二人の動きに迷いはなかった。互いの鼓動を綱越しに感じながら、ひたすらに頂を目指す。
やがて、ノエルの指が、そしてアランの手が城壁の天端を捉えた。
その瞬間、極限の緊張に耐えていたソフィアは、安堵のあまり膝から崩れ落ち、ただ激しく震える手を胸元で握りしめていた。
「縄梯子をそこにかけて!」
ノエルは城壁の頂上を指さし、アランに鋭く指示を飛ばした。アランが倉庫へ走り去るのを見届け、ノエルは南翼の入り口から、影のように滑り込んだ。
肺が焼けるような鼓動を抑え、一気に最上階まで階段を駆け上がる。だが、たどり着いた彼の前に立ちはだかったのは、絶望を具現化したような漆黒の扉だった。
体当たりをしても、鋼鉄の壁はびくともしない。
「父上!」
必死の叫びに、扉の向こうからエドワードが応えた。
「ノエルか! 無事だったのだな」
「はい! 父上たちは……っ?」
「ああ、まだ大丈夫だ。だが……ゴホッ、煙が、酷くなってきている……」
それは火災を検知して作動する、古の防衛魔導具だ。開け方など誰も知らない。焦燥に駆られるノエルに、エドワードは苦渋に満ちた声を絞り出した。
「お前はもう逃げなさい。モルティマーがいつ戻るか分からん」
「父上! 僕だけ生き残るなんて、絶対に嫌です!」
ノエルの叫びが、エドワードの脳裏で至聖神官アポストルの言葉と共鳴した。
『汝、愛しき子らの頭を撫で、祝福を授けよ。その手の温もりこそが、彼らの光とならん』
(子らの、頭……?)
エドワードは、愛しき子どもらの名を、指を折るように数え上げた。
ノエル、アイラ、ルシア、ハンス、メリル、ロビン……。
その頭文字を並べれば――。
(……ノ、ア、ル、ハ、メ、ロ?)
まさか。だが、エドワードの指には、王の証たる指輪『ノアールの瞳』が鈍く光っている。
(ノアール、はめろ……?)
「みんな、聞いてくれ!」
エドワードは、煙に巻かれぐったりとしていたポレッタと子供たちを鼓舞した。
「この指輪をはめる窪みがどこかにあるはずだ。探してくれ!」
絶望の淵で、家族はノロノロと動き出した。壁の装飾、床の隅、天井の影。
「……僕がケーキを食べて倒れていたのは、どこ?」
ハンスが弱々しく呟いた。ポレッタが廊下の一角を指すと、ハンスはその場に寝転がり、低い視線から壁を見上げた。
「ここだ! 誰かに見られてるって思ったんだ!ここに、目があるよ!」
エドワードが屈み込み、壁の死角を覗き込む。そこには、指輪と寸分違わぬ形の、目のような窪みが刻まれていた。
祈るような心地で、エドワードはそこに『ノアールの瞳』を押し当てた。
一瞬の静寂。
次の瞬間、キュルキュルキュルと軋む音を立てて、絶望の扉がゆっくりとせり上がっていった。
「みんな!」
開いた隙間からノエルが飛び込んできた。互いの無事を確かめ合い、一時の安堵が広がる。だが、ノエルの表情はすぐに引き締まった。
「メリルは?」
「連れて行かれた。……中央棟だ」
階段を駆け降りる彼らの横を、アランが掛けた縄梯子から侵入した騎士たちが、砂袋を担いで登っていく。消火が始まれば、城の崩壊は免れるだろう。
「あいつら、中央棟で何をするつもりなんだ……?」
ノエルの問いに、エドワードが苦々しく吐き捨てた。
「玉座だろうな。あの一族の、あの椅子に対する執念は……異常だ」
たどり着いた中央棟。
大扉を蹴破った先にあったのは、異様な光景だった。
略奪品を抱えて下卑た笑い声を上げる男たち。その中央、威風堂々と鎮座する玉座には、モルティマーがふんぞり返っている。
傍らではジェイソンが、泣き疲れたメリルを抱いたまま、幽霊のように立ち尽くしていた。
ノエルたちが一歩踏み込むと、モルティマーの狂気に満ちた視線がゆっくりと動きを始めた。
お読みいただき、ありがとうございました。
頭文字を日本語で!?というお叱りはご尤もです。
横文字でも良かったのですが、あんまり難しくしてもフェアじゃない気がしまして⋯⋯
ミステリじゃないので、それでもよかったですかねえ?




