とってもいい気分……
王宮では、収穫祭に向けた甘い香りが漂っていた。
キッチンでは、ノエル、アイラ、そして九歳になった第二王女ルシアが、祭りの主役であるケーキ作りに精を出している。この国には、収穫祭に大切な人へ手作りケーキを贈るという、なんとも温かな習慣があるのだ。
(家族はもちろん、ソフィアにも。……あ、アランにもやらないと後でうるさいだろうな)
(お兄さまには、一番たくさんドライフルーツを詰め込んだ特製を贈るわ)
(お父さまもお母さまも、喜んでくださるかしら。あ、チビたちのはお酒を抜かないと)
三人三様の想いを込めながら、真剣な眼差しで生地を練る。
特にルシアは、今年ようやく「危ないから」というお預けを解かれ、念願の厨房入りを果たしたことに胸を躍らせていた。去年は入り口から指をくわえて覗いていたものだ。
ふと視線を感じて入り口を振り返れば、そこにはかつての自分と同じように、六歳の弟ハンスが恨めしそうにこちらを覗き込んでいた。
(ふふっ、ハンス、ごめんね。もう少し大きくなるまで待っててね)
ルシアは心の中で、少しだけ誇らしい気分で弟に微笑みかけた。
一方のハンスは、年長組の輪に入れてもらえないことが悔しくてたまらない。
(僕だって、あっちでお手伝いしたいのに。三歳のメリルや、まだ赤ちゃんのロビンと一緒にされるのは嫌だ!)
むくれた顔で立ち尽くす弟に気づき、ノエルが明るい声をかけた。
「ハンス、ちょっとおいで。大事なお役目をお願いしたいんだ」
その言葉に、ハンスは子ウサギのようにぴょんぴょんと跳ねて駆け寄った。
「いいかい、これは重要な任務だよ。はい、これ、味見してみて」
ノエルが、大きく開けられたハンスの口に、ブランデーを抜いた方のケーキの欠片を放り込んでやる。
「おいしい! 兄さま、もっとちょうだい!」
「だーめ。味見っていうのは、ちょっぴりだから価値があるんだ。あとは収穫祭当日までのお楽しみだよ」
いいお返事をして厨房を後にしたハンスだったが、実はその手の中には、隙を見て掠め取った「もう一つの欠片」が握られていた。
(くふふ、兄さまも気づかなかったみたい。……あれ? さっきのとちょっと香りが違うぞ?)
ハンスはそれも大事そうにもぐもぐと平らげ、ロビンのいる部屋まで意気揚々とトコトコ歩き始めた。だが、数歩進んだところで、なんだか足元が覚束なくなってくる。
(あれれ……なんだかフワフワするなあ。とってもいい気分……)
ウヒャヒャと上機嫌に笑いながら、千鳥足で廊下を彷徨う六歳児。
案の定、すぐに侍女に発見されたハンスは、「ブランデー入りの方を食べてしまった」ことが即座にバレて、そのまま強制的に『赤ちゃんたち』と一緒のお昼寝タイムへと連行されるのであった。
南翼五階の一室には、子供たちの寝息が満ちている。エドワード王とポレッタ妃がそれを見守り、誰もがこの平穏が永遠に続くと信じて疑わなかった。
――しかし。
その幸せな静寂を切り裂くように、一人の早馬の伝令が王宮の門を叩いた。
執務室に飛び込んできた側近の青ざめた顔を見た瞬間、エドワードの表情から温かな色が消える。
サビーナ・アカデミーの寄宿舎にて、禁忌の薬に溺れ、復讐の狂気に取り憑かれた第一王子。
あの日、紫煙の中で「悲劇の王子」を演じることを決めたモルティマーの脱走が、ついに王宮へと知らされたのである。




