あ、これ……『もっとやらせろ』だ
「なんか、人質にされたそうじゃないですか」
「そうなのそうなの」
ノエル王子と従者のアラン・フラティは、命綱一本を頼りに城壁を登りながら、のんびり話に花を咲かせていた。
「どうしてそんなことになったんです?」
「んーとね、ちょっと油断しちゃったんだ。刺客がみんな捕獲されて、ホッと一安心……って瞬間にね」
「焦りました?」
「うん。なんか、臭いし」
「臭いんですか? 汗臭いとか?」
「いやー、なんというか『男臭い』んだよねえ」
「まあ、何ともなくて良かったです。……ところで殿下、こんな鍛錬ばかりしていると、脚が筋肉質になりますよ」
「ん? いいんじゃない?」
「いや、お得意の半ズボンが似合わなくなっちゃいますよ」
「『お得意の』じゃなくて『お似合いの』ね。あーでも、いいのいいの。学園の制服は長ズボンだし」
「半ズボンに切っちゃえばいいのでは?」
「アレンジ禁止だってさ」
「聞いてはみたんですね」
「ふふふ。まあ、僕も十五歳だしさ。これからは『可愛さアピール』は封印して、『男っぽさ』で売っていくわけよ」
「ソフィア様に伝わると良いですねえ」
そうこうするうちに頂上へ登り切った二人は、用意しておいた水をグビグビと飲み干し、その場にひっくり返った。
「えーっと、今日のタイムは十一分二十三秒。おっ、記録更新ですね」
「うん。でも、そのうち十分を切りたいんだよねえ」
*
アランがノエルの従者になったのは、ノエルが二歳、アランが十七歳の時だった。
それまで従者見習いをそつなくこなしてきたアランは、内心「子供の相手なんて楽勝っしょ」と高を括っていた。
しかし。
天使のような容姿に反し、二歳のノエルは凄まじかった。
無尽蔵のエネルギーで爆走し、やってほしくないことを確実にやり、危ないものには一番に飛びつく。
(放っておけば、壁でも天井でも走り回るんじゃないか?……んっ?)
試しにやってみた。
まず、ノエルを壁に向けて立たせる。そしてアランの人差し指をノエルに握らせ、その上からアランが手を握り込む。
するとどうだろう。ノエルは自ら壁に足をかけ、スルスルと登り始めたではないか。
面白いと思って見ていると、ノエルはどんどん高度を上げていく。アランの手が届かなくなる寸前で慌てて抱きとめ、「はい、おしまい」と告げると、ノエルはブウブウと文句を垂れた。
(あ、これ……『もっとやらせろ』だ)
気づかないふりをして絵本の読み聞かせを始めても、ノエルは暴れ回り、あろうことか服をすべて脱ぎ捨てて、廊下を全力疾走していった。
全裸で全力疾走する王子。
驚愕して見送る人々。
死に物狂いで追いかける新米従者。
(ヤバい。具体的に何がどうヤバいか分からないけど、俺の将来が絶望的にヤバい!)
「分かった、分かりました! やりましょう、壁歩き!」
アランが叫ぶと、ノエルは振り向いてニッコリ微笑み、また全力で部屋へと帰っていった。
(天使じゃない……これ、小悪魔じゃん……)
アランはゼエゼエと肩で息を切りながら、主のあとを追った。
それから何度も壁歩きを繰り返すうちに、ようやく疲れが見えてきた。……ノエルではなく、アランの方に。
「あと1回ですよ」
「ブウブウブウ」
そんな攻防を何度か繰り返し、ノエルの手が届かなくなったところで抱きとめようとした、その時だった。アランの手がすべった。
(ひえっ、落ちる! 俺、打ち首必至!)
一瞬で走馬灯のように最悪の事態が頭をよぎったが、次の瞬間、ノエルは空中でクルッと身を翻した。
足を揃え、腕を斜め上に掲げた見事な着地。
(ヤダ、ウチのコすごくない……?)
(ってか、さすが王族、ポテンシャル半端ないな)
(ってか、首がつながった……フウ)
この日から、アランによるノエルの英才教育(主にアクロバティックな技限定)が、気が向いた時にだけ始まることとなった。
ある日のこと。外から戻ってきたアランが、折れた物干し竿のような棒を拾ってきた。
「王子、見てくださいよこれ。捨ててあったんですけど、何かに使えませんかねえ?」
ノエルは興味津々でぴょんとジャンプし、その棒に掴まると、クルクルクルと回り始めた。
「わあ、王子すごーい! ……そろそろ止まりましょうか? ……おーい、聞こえてますか? ……あの、もういいですよ? ……えーっと、止まり方が分からないとか? ……目が回ってませんか? ……うっ、見てるこっちの方が酔ってきた……気持ち悪い……」
バタン! と先にぶっ倒れたのはアランの方だった。
(この王子についていくには、俺自身も鍛錬せねば……)
薄れゆく意識の中で、アランはそう固く誓った。
翌日、アランはノエルを座らせて言い聞かせた。
「いいですか王子。王子のあの動きは『秘密兵器』です。人に見せちゃいけませんよ」
「……ひみちゅ」
ノエルは神妙にコクンと頷いた。
それから数年後。十二歳になったノエルが「城壁を登ろうと思う」と宣言した時、アランは必死で止めた。
「分かった、じゃあやめる」
ノエルはあっさり引き下がったが、アランは察した。長い付き合いである。
(あ、これ、こっそりやるつもりだ)
「分かりました。でも、城壁を登る時は必ず私と一緒に。これだけは守ってください。いいですね?」
ノエルは今度は真面目な顔で頷いた。
まもなく、ヘルメット、肘当て、膝当て、命綱、特製の革靴といったフル装備が揃った。
「いいですか王子、三メートル登ったら降りる。これを繰り返しますよ」
ノエルは頷く。城壁の上から垂らした三本の命綱が少し邪魔そうだったが、彼は迷わず壁に飛びついた。
あっという間に三メートルを登り切り、そこから一気に飛び降りる。
アランの心臓が口から飛び出しそうになったが、ノエルは命綱に吊るされながら、ケラケラと楽しそうに笑っていた。登っては飛び降り、登っては飛び降り。見ているうちに、アランも少しだけ登ってみた。
(うむ……なんか楽しいな、これ)
こうして主従は、度々人目を盗んで城壁登りに興じるようになった。
ある日、ノエルが「なんか行ける気がする」とスルスルと頂上まで登っていった時はさすがに唖然としたが。
初めて登り切った時は四十分かかった。それが今や十二分を切る。
(どこまでもお供しますよ、王子)
アランは、決して自分を退屈させないこの風変わりな主を、心から頼もしく、愛おしく思うのだった。
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