ゲルダ様ったら意外にそそっかしいのですね
十九歳の王太子と、十五歳の辺境伯令嬢。二人が魂の共鳴を感じ、仲良くなるのに時間はかからなかった。
エドワードは、泥にまみれても失われないポレッタの献身を称え、ポレッタは、王太子の身分でありながら民の痛みに寄り添うエドワードの誠実さに心からの敬意を払った。
語り合うほどに、二人は自分たちの価値観が鏡合わせのように似ていることに驚愕した。
(――ずっと前から、あなたのことを知っていた気がする)
出会ってわずか数ヶ月。しかし、その密度は数十年分にも等しかった。
互いがかけがえのない存在となり、離れがたい想いが最高潮に達した頃、アルテミス領の復興は目処が立ち、王都からの帰還命令が届いてしまう。
「どうか、お健やかにお過ごしください」
涙を浮かべて別れを告げるポレッタに、エドワードは自分でも驚くほどの熱を込めて答えた。
「ポレッタ……私と一緒に、来てはくれないか」
口にした瞬間、エドワードの心に激しい葛藤が渦巻いた。
自分には、心通わぬとはいえ妃がいる。生まれたばかりの息子もいる。
何より、この汚れなき乙女をあのゲルダのいる王宮へ連れて行けば、どれほどの苛烈な嫌がらせが待ち受けているか。
彼女を連れて行くことは、果たして救いなのか、それとも不幸への道なのか。
その時、かつて父王が授けてくれた言葉が、闇を照らす灯火のように脳裏に蘇った。
『本当に大切な人は、二番目の妻として迎え、生涯をかけて守り抜きなさい』
決意を固めたエドワードが辺境伯に苦渋の胸中を明かすと、彼はただ穏やかに微笑んだ。
「どうぞ、あの子をお連れください。……あの子は、あなたが思うよりずっと強い。きっと殿下の人生を彩る、一筋の光となるでしょう」
王宮に連れ帰ったポレッタを、国王夫妻は諸手を挙げて歓迎した。
「そうか、ついに見つけたのだな。お前にとっての『真実』を」
ポレッタの王宮生活は、周囲の懸念を余所に軽やかに始まった。
彼女の清廉な人柄に触れた側近や侍女たちは、皆一様に彼女を慕い、心酔した。ポレッタの周りには常に穏やかな空気が流れ、人々は喜びに満ちて仕えた。
それは、ゲルダの周囲では決して起こり得ない光景だった。
ゲルダは使用人の僅かな失態も許さず、怒声で叱り飛ばし、冷酷な罰を与える。
恐怖で人を支配するゲルダと、慈しみで人を惹きつけるポレッタ。
光と影のように対照的な二人の妃を抱え、王宮は静かに、しかし確実に変容し始めていた。
エドワードは細心の注意を払い、ゲルダとポレッタの動線が重ならぬよう侍女たちに命じた。ポレッタの周囲には常に屈強な側近を配し、物理的な接触を徹底的に遮断したのである。
しかし、ゲルダの執念は凄まじかった。南翼へ戻るポレッタの前に立ちはだかり、側近の壁越しに毒のある言葉を投げつける。
「まあ、ポレッタ様からは不思議な匂いがいたしますこと。これが『下賤』の香りなのね」
あからさまな嘲笑に対し、ポレッタは純粋な驚きの表情で返した。
「まあ、素晴らしいわ。ゲルダ様は本当に物知りなのですね。私、たった今温室から戻ったところですの。……『ゲセン』という植物かしら? 今度、庭師に聞いてみますわ」
嫌がらせが通じぬことに苛立ったゲルダは、次にはグラスの水をポレッタに浴びせた。
「ウフフ、ゲルダ様ったら意外にそそっかしいのですね。ちょうど暑いと思っていたので、助かりましたわ。水ですもの、すぐ乾きますからお着替えも不要です」
微笑むポレッタに、ゲルダはついに赤ワインをぶちまける。
「あら、大変。ごめんなさいね?」
勝ち誇ったように笑うゲルダ。だが、ワインに濡れたドレスをじっと見つめていたポレッタは、顔を上げるとこう言ったのだ。
「……綺麗な色」
「はあっ!?」
「私、良いことを思いついてしまいましたわ。ありがとうございます!」
そそくさと立ち去る背中を、ゲルダは呆然と見送るしかなかった。
その後、ポレッタは酸っぱくなった廃ワインを活用した「ワイン染め」を考案。自ら纏うことで流行を興し、国の一大産業へと成長させてしまった。
ポレッタの強さに救われつつも、エドワードは危惧していた。いつかゲルダの狂気が一線を越えるのではないか。
彼は苦渋の末、彼女と「取引」を交わす。
条件は二つ。ゲルダがポレッタに一切関わらないこと。そして、エドワードが南翼に定住し、二度とゲルダの閨を訪れないこと。
代わりに、ゲルダの息子モルティマーを次期王太子に指名する。
彼女は即座に承諾した。ゲルダが愛しているのは夫ではなく、国母という絶対的な「権威」であることを、エドワードは冷ややかに理解していた。
こうしてポレッタとの穏やかな日々を手に入れたエドワードだったが、息子モルティマーへの情を完全に捨てたわけではなかった。ポレッタの勧めもあり、親子水入らずのピクニックは数年続けられた。
変化が訪れたのは、四歳になったノエルを連れて行った時のことだ。
兄が話した内容に、ノエルが「わからないなあ」と首を傾げて零すと、七歳のモルティマーが顔を歪め、勝ち誇ったような嘲笑を浮かべて言い放った。
「お前、こんなことも知らないのか! 呆れた馬鹿だな!」
その瞬間、エドワードの背筋に凍りつくような戦慄が走った。
目の前の少年が放った言葉、傲慢な声音、そして他人を貶めることでしか己を保てない歪んだ笑み……。それはかつて、自分がゲルダから受け続けてきた呪詛そのものだった。
『まあ、殿下。そんなこともご存知ありませんの?』
耳の奥で、かつてのゲルダの声が蘇る。それどころか、事態はさらに最悪な方向へと転がった。
ノエルは突き放されてもなお、幼い憧れを込めて兄を見上げ、こう言ったのだ。
「お兄様は物知りですごいなあ」
その純粋な賞賛は、モルティマーを喜ばせるどころか、火に油を注ぐ結果となった。モルティマーは顔を真っ赤にして逆上し、激しい嫌悪を剥き出しにして叫んだ。
「兄などと呼ぶな! 穢らわしい!」
モルティマーは、自分よりもずっと小さなノエルを力任せに突き飛ばした。
無防備に転がる我が子と、獣のような目を向ける我が子。その対照的な二人を前に、エドワードはあえて目を背けていた真実を突きつけられた。
血は争えない。ゲルダの狂気と、選民思想という名の毒は、すでにこの少年の芯まで浸透している。
彼を王太子に据え続けることは、将来、ポレッタやノエルたちの命を、この国そのものを、ゲルダの延長線上にある刃に晒すことと同義ではないか――。
これを最後に、ピクニックの習慣は途絶えた。「即位による多忙」という、あまりに空虚で、しかしそれ以外に言いようのない建前を添えて。
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