『お兄様』って言えたねえ
お読みいただき、ありがとうございます。
ところ変わって、ここは王宮。
かつては権勢を誇った第一王妃の居所、北翼。
王太子の廃嫡と共に、華やかだったかつての面影は消え失せ、今や人影もまばらな静寂が支配している。
その薄暗い自室で、一日中、呪詛のような恨み言を吐き続けている女がいた。
第一王妃、ゲルダである。
彼女の胸を焦がすのは、ただ一つの後悔。唯一の愛息が廃嫡され、国外追放されるという屈辱を阻止できなかったことだ。
悔しい。その一念が、彼女の精神を黒く塗りつぶしていた。
燃え盛る怒りの矛先は、複数の人物へと向けられている。
そもそも、すべての発端を作った元凶――カサンドラ・レクトル。
我が子に冷徹な裁きを下した、元学園長アテナ・ルーミス。
貴族たちを扇動した学園理事長、イングリッド・シンクレア。
情け容赦なく息子の処分を決めた、夫である国王陛下。
そして、空いた王太子の座を掠め取ろうとするノエル王子と、その母、ポレッタ。
「ふふふ……。一人ずつ、ゆっくりと地獄へ落としてやるわ」
ゲルダはまず、事の元凶であるカサンドラの行方を追わせていたが、蛇のように狡猾な彼女は未だに尻尾を掴ませない。
「……仕方ないわね。逃げ足の速い小娘は後回しにしてあげましょう」
ゲルダは机の上に広げたリストを、指先でなぞる。
怨念の籠もった指がピタリと止まったのは、二番目に記された名前。
――アテナ・ルーミス。
ゲルダの口角が、歪に吊り上がった。
*
ところ変わって、こちらは第二王妃の住まう南翼最上階の一室。
ポレッタ王妃の第六子である幼い王子がハイハイを始めたため、床は鏡のように磨き上げられ、清潔で柔らかな敷物が隅々まで敷き詰められていた。
この部屋は完全なる「土足厳禁」。それどころか、赤ん坊と同じ目線で過ごすために「立って歩くこと」すら禁じられている。
ゆえに、この部屋にいる者は皆、ハイハイで移動するのがルールだ。
兄姉である王子や王女たちは、この幸せ溢れる空間をたびたび訪れては、赤ん坊と一緒に床を這い回り、末の弟をこれでもかと可愛がっていた。
学業に疲れ果てたノエルがこの部屋を訪れたとき、そこには母のポレッタ、弟妹たち全員、そして乳母が勢揃いしていた。
ノエルはとろけそうな笑顔を浮かべ、末の弟へとじりじりと「ハイハイ」で歩み寄る。
「ロビンた〜ん、お兄たまですよ〜」
多くの弟妹がいるノエルだが、赤ん坊の愛らしさには何度でも感動してしまう。
大きな頭に小さな体のアンバランスさ、つるりと広いおでこ、一点の曇りもない瞳。飾り物のようにちっぽけな鼻や耳、それとは対照的にふっくらとはち切れそうな頬。
そして、何よりこの甘ったるいミルクの香り――。
「バーバーブゥ」
「そうそう、お上手! 今『お兄様』って言えたねえ」
ノエル、絶賛癒やされ中である。
(はあぁぁ……幸せ……♡)
愛おしい弟を抱き上げ、幸福を噛み締めていると、そこへ父である国王陛下が姿を現した。
珍しいことではない。陛下は公務の合間を縫って頻繁にここへ顔を出し、そのたびに側近に引きずられて、嫌々仕事に戻っていくのが日常茶飯事なのだ。
「ロビンちゅわ〜ん♡」
国王自ら猛烈な勢いのハイハイで突進してきたため、ノエルはそっと弟を差し出した。
宝物を扱うように末息子を抱く父の姿に、自分もこうして愛されたのだろうかと、ノエルの胸に少しくすぐったい温かさが広がる。
ふと、背後から袖を引かれた。
すぐ下の妹、十二歳のアイラである。
「兄さま、少しお話が……」
彼女はノエルの耳元で、密やかに何かを囁いた。
その内容に、ノエルは驚愕して妹の顔をまじまじと見つめた。
この妹はまだ幼いながら、王宮の使用人を手懐けて独自の情報網を築き、時には自ら変装して潜入工作までこなす、底知れない少女なのだ。
彼女が掴んできた情報は――ゲルダ王妃の不穏な動きについて。
アイラが差し出したのは、ゲルダの部屋から盗み出したという「リスト」の写しだった。
「これは……」
「ええ、間違いないわ」
ノエルも確信した。これは、モルティマー元王太子の廃嫡事件に関わった者たちを記した、復讐のリストだ。
そこには、自分や両親、そして前校長のアテナの名も連なっている。
「すぐに父上に相談しよう」
「ええ。でも兄さまもお気を付けて」
平和そのものだったハイハイ部屋に、冷たい風が吹き抜ける。
ノエルは深く頷き、手元にあるリストを強く握りしめた。
お読みいただき、ありがとうございました。




