ルミエラ・エルバート男爵令嬢の場合(2)
「……というわけなんです」
静かな生徒相談室。
ソフィアに導かれ、ようやく安全な場所に辿り着いたルミエラは、これまでの経緯と、誰にも言えず心に溜め込んできた恐怖を、堰を切ったように吐き出した。
ソフィアは否定も遮りもせず、ただ深く頷きながらルミエールの言葉を受け止めていた。そして、話し終えたルミエラへ静かに一言を添えた。
「そう、それは……本当にお辛かったわね」
たったそれだけの言葉が、ルミエラの心の堤防を崩した。
彼女は子供のように、滂沱の涙を流した。枯れるほど泣き尽くし、やがて顔を上げたとき、その表情は憑き物が落ちたように晴れやかだった。
「不思議です……。お話ししただけで、こんなに心が軽くなるなんて」
穏やかに微笑むルミエラに対し、ソフィアは対照的に、思索にふけるような真剣な表情を見せた。
「彼らの状態は一種の妄信……いえ、狂気に近いわ。あなた一人で対処するのは難しいし、何より身の危険を伴う。この件、私の仲間にも相談させていただいてもいいかしら?」
ルミエラは力強く頷き、感謝の言葉を遺して部屋を去った。その足取りは、ここに来た時とは比べ物にならないほど軽やかだった。
*
実は、ソフィアたち「対策室」は、以前からダニエルたちの動向をマークしていた。
彼らの婚約者たちが、相次いで悲痛な面持ちで相談に訪れていたからだ。
当初、対策室はルミエラを「高位貴族を誘惑して婚約破棄を狙う、野心家の男爵令嬢」という可能性も含めて監視していた。
しかし、そこで大きな疑問が浮上する。
(――婚約者たちの証言と、実際の彼女の様子が食い違っている)
遠目から見るルミエラは、殿方を侍らせて悦に浸るどころか、今にも消えてしまいそうなほど怯え、疲弊していたからだ。
「これは、本人から直接話を聞く必要がありそうね」
対策室のリーダー、アテナの言葉にソフィアも深く同意していた。
*
そして今日、確信が得られた。
ルミエラは紛れもない被害者であり、ダニエルたちは何らかの「狂信的な幻想」に突き動かされている。
だが、一点だけ、どうしても解けない謎があった。
「ルミエール」という名前だ。
あれほど執着し、守ると豪語している女子生徒の名前を、全員が一致して間違えるなどあり得るだろうか? だとしたら、彼らが見ているのは「ルミエラ」本人ではなく、別の誰かなのではないか。
ソフィアは対策室のメンバーを集め、学園内の名簿や過去の記録を照合したが、「ルミエール」という名の生徒、あるいは関係者の情報は一切得られなかった。
「実在しない人物……? それとも、私たちが知らない『何か』なのかしら」
生徒相談室の奥で、ソフィアは得体の知れない違和感に眉をひそめた。
*
翌日の昼休み。
爽やかな新緑が揺れる木陰のベンチで、アイリスとセレナはいつものように護身術の談義に花を咲かせていた。
そこへ、「やあ、元気かな?」と軽い調子でフィン・グラントが現れる。
あの日以来、彼は何かと理由をつけては二人の前に姿を見せていた。
セレナはふと思い出し、昨日得た「謎の名前」をフィンにぶつけてみた。
「フィン様。……『ルミエール』という名に、何か心当たりはございませんか?」
フィンは視線を空へ彷徨わせ、事も無げに答えた。
「それって、ピンクブロンドの髪の女の子のこと? ……ああ、小説だよ。『エトワール・アカデミー:輝く乙女と四人の守護星』っていう作品のヒロインさ」
アイリスとセレナは思わず顔を見合わせた。
「小説……? それは一体、どのような内容なのですか?」
「典型的な恋愛小説だね。学園を舞台に、攻略対象……あ、いや、登場する男子たちがみんなヒロインに夢中になっちゃうっていう内容だよ」
「……殿方も、そのような読み物を嗜まれるのですか?」
セレナの少し引いたような視線に、フィンは顔を真っ赤にして慌てた。
「さ、最近は『恋愛小説男子』っていうのが流行りなんだ! 僕は、その……教養としてチェックしただけで、ハマってるわけじゃないよ!」
二人は即座にその本を数冊買い込み、対策室の拠点へと持ち込んだ。
「……何というか、支離滅裂な話ね」
読み終えたアテナが、心底呆れたように吐き捨てた。
「これに心酔する人間がいること自体、理解に苦しむわ」
ソフィアも、眉間に深い皺を寄せて同意する。
「一人の女性を、寄ってたかって神格化して持ち上げる? 虫唾が走るわね」と、アイリス。
「間違いないですわ。ダニエル様たちは、この物語をなぞって、ルミエラ様を勝手にヒロインに仕立て上げているんです」
セレナの言葉に、四人は重いため息をつき、机の上の「名作(迷作)」を冷ややかな目で見つめた。
*
二日後の昼休み。
生徒相談室には、ダニエルたちの婚約者である令嬢たちが招集されていた。
彼女たちの手には、前日にソフィアから手渡された例の小説が握られている。
アテナが静かに口を開いた。
「さて。その本を読んだ感想を伺えるかしら?」
令嬢たちは、憤りを隠そうともせずに答えた。
「荒唐無稽。これに尽きますわ」
「ええ、本当に馬鹿馬鹿しい。なぜこんなものを読まされたのか、意味が分かりません」
「一人の女性を複数の男性が分かち合うなど、貴族の矜持として理解しがたいですわ」
「この小説、あるいは似たようなものを、婚約者の方々の邸宅で見かけたことは?」
ソフィアの問いに、令嬢たちの反応が分かれた。
「似たような本が積んであるのは見たことがございますわ」
「……そういえば、最近、妙に熱っぽく恋愛小説の筋書きを聞かされた覚えが……。聞き流していたので内容は覚えていませんけれど」
「私は、実は……この本を婚約者から贈られたことがございます。『君もこれを読んで、もっと情緒を学びなさい』と。気味が悪くて読まずに放り出しておりましたが」
令嬢たちは口を揃えて続けた。
「でも、それがルミエラさんの件と何の関係があるのです? あの女、私たちの婚約者を侍らせて、いい気なものですわ」
「いい気なもの? ……いいえ、彼女は震え上がっていますよ」
ソフィアは、令嬢たちを射抜くような鋭い視線で見回した。
「なぜ、会ったばかりの男性たちに、毎日執拗に付きまとわれるのか。なぜ――」
ソフィアは一拍置き、残酷な真実を告げた。
「――自分の名前を一度も呼ばれず、常に『ルミエール』と、別人の名で呼ばれ続けなければならないのかと」
その瞬間、室内の温度が凍りついた。
令嬢たちの顔からさぁっと血の気が引き、白磁のような青白さに変わっていく。
彼女たちは悟ったのだ。自分たちの婚約者が、目の前の婚約者ではなく、空想のヒロインの影だけを追いかけて狂奔しているという、異様な現実を。




