8話 白いローブの女
心を支えていたものが、ポキっと音を立て折れたような気がした。
中央区と商業区を結ぶ橋の上から、昨日の雨で勢いを増した川を見つめる。レンガ造りの欄干に体重を預け、茶色く濁りながらうねりを上げて流れる姿に、なぜか目を奪われていた。
現実を突き付けられ、俺は逃げるように薬屋から飛び出し、気づけば貧民街のある商業区の入口まで戻っていた。
治癒魔法か薬を得るため、関連する全ての店を周るつもりだったが、一軒目でこのざま。
五枚の銀貨が入った小袋を握りしめ、濁流目掛けて振りかぶる。伸ばした手が頭上を通過しかけたところで、緩めるはずの手を強く握り直し、小袋を力任せに欄干に叩きつけた。
「くそっ……!」
中で銀貨が交わり小さく音を立てる。
中央区と商業区を二分するこの橋で足が止まった。
帰ってしまえば、サリーは助からない。かといって自分には薬を得る手段がない。
中央区に行って、ぼんやりと見えていた現実が、自分の前にはっきりと姿を表したのだ。
どうにもできないまま、ただ時間だけが川の流れのように過ぎていた。
「やっとみつけた」
声のする方を向くと、薬屋で会った白いローブの女が中央区から歩いてくる。
「なんのようだ?」
「またー、そんな恐い顔しないでください」
怪訝な顔を向けるが、彼女は笑顔をのまま距離を詰めてくる。そのまま俺の隣に立ち、欄干に両手をついた。
風で靡いたローブが左腕に当たる。なんでこんなに距離が近いんだ。
「追い込まれたあなたが、何をしでかすかわかったものではないので。先ほど、あの店主から力尽くで薬を奪おうとでも思ったんじゃないですか?」
「それは……」
「ほらやっぱり」
図星を突かれ戸惑う俺を、嗜虐的な目で彼女は見つめる。
「お兄ちゃんが犯罪者になったら、助かったとしても妹さんはどう思います? それに、どうやって償うのですか?」
「……そこまで考えてなかった」
「妹さんを助けたい気持ちは理解できますけど……」
付け加えるように話した彼女の声色は、意外にも優しいものだった。
薬屋で見た表情とは違う儚げな姿に、兄弟に対する何か強い信念を感じずにはいられなかった。
「もしかして俺を助けてくれたのか?」
「まぁ…… 何というか、そんなところでしょうか……」
フード越しに癖のある髪を触りながら、彼女は軽く目を伏せる。
「そういえば自己紹介していませんでしたね。私はフレンと申します、冒険者を生業としています」
打って変わって、ぱあっと輝く誰からも愛されるような笑顔。その切り替えの早さに、俺は一瞬、言葉を詰まらせてしまう。
「俺はダレス、ダレス・ハーパーだ。薬屋でのことは助けられてるとは知らず、無礼な事を言ったかもしれない。すまなかった、そしてありがとう。 声をかけてもらえなかったら、きっと俺は犯罪に手を染めていたと思う……」
深々とお辞儀をすると、フレンは「いいですよ」と軽く往なすだけで、感謝を受け取る気配は全くなかった。
「えっと、冒険者ってことは魔物と戦ったりするんだろ? 治癒魔術を扱える人に知り合いがいれば紹介してほしい…… いや、何言ってるんだ俺は……」
助けてもらった相手に、また救いを求める。話しながら、薬屋でのフレンの言葉が脳裏をよぎり、言葉尻を濁した。「駄々をこねる子ども」とは、実に的を得た言葉だと思う。
「そうですね……」
「えっ……」
フレンは不意に俺の左手を両手で握りしめた。
「癒やしの加護を」
優しい言葉とともに、左手が心地よい温かさで包みこまれる。驚くことに、フレンが手を離した時には、手の平にできた痛々しい豆が消えていた。
炭鉱での仕事の時はあんなに辛かったのに、手を強く握り込んでも、ズキッとした嫌な痛みを感じない。
「すごい…… これって治癒魔術だよな! だったら!」
目の前に表れた一筋の光に、自然と声が大きくなった。これならサリーもと期待の眼差しを向けるも、フレンは目を伏せて首を横に振る。
「私は治癒魔術を扱えますけど、レーゲの病を治すことはできません。残念ですが、あの病をなんとかできる治癒魔術士は、そういないと思います」
「そうか…… でも謝らないでくれ。手を治療してもらったし、レーゲの病を治すのは、治癒魔術でも難しいことを教えてくれたんだ」
期待した光は一瞬で消え、暗闇の中に戻される。
ここまでくれば、やはりだめだったかと思う気持ちが強くて。それほどショックを受けていない自分がいた。
「あの、これをどうぞ」
フレンは肩にかけた革のポーチから、薄い赤色の液体が入った小瓶を取り出す。
「これは?」
「鎮痛剤入りの治癒のポーションです」
小瓶を手に取ると中の液体が波打ち、微かに花のような甘い匂いが漏れ出した。
「妹さんに飲ませてあげてください。病を治すものではないですが、症状は緩和できると思います」
「そんな、いいのか?」
「あなたのためじゃないですよ、妹さんのためです」
念押しするように、フレンは人差し指を俺に突き立てる。
「なんでこんなことまで……」
人に優しくされたことなんて数えるほどしかなかった。手を治療してもらったうえに、価値のあるものを無償でもらえるなんて…… 今まで想像すらしなかったことが、目の前で置きている。
感謝の気持ちよりも、なぜ? という疑問で頭の中がいっぱいだった。
「ほんとに…… 私は、なんでこんなことを……」
欄干に手をつき直し、フレンは寂しそうに空を見上げる。
「……まぁ、兄弟を大切にしてほしいって気持ですかね、私にも似たようなことがあったから…… ただ、あなたの行動は間違っています」
不意に重たい口調で喋りだしたフレンに、自然と背筋が伸びた。
「助けたい気持ちはわかりますが、どうにもならないことなんてこの世の中には山のようにあります」
そう言って薬屋のときと同じように、フレンは顔を近づけてくる。目にかかるまで伸びた前髪が、なんとか彼女との境界線を作ってくれていた。
「今回のそれが、妹さんの病を治すこと。であれば、あなたが成すべきことは妹さんに寄り添い、少しでも安らかに看取ることなのです」
「本当にそれしかないのか……」
諦めたくなかったはずなのに、フレンの言葉に納得している自分がいる。
「今だってきっと、そばにいてほしいと思っているはずです」
言いながらフレンは両手で俺の左手を握りしめる。治癒魔術を受けたときと違い、その小さな手には力強さがあった。
「この手で、妹さんの手を握ってあげてください」
「……あぁ…… そうするよ、ありがとう……」
優しく微笑みかけるフレンに、思わず頬が緩む。無意識に起きた表情の変化が、つられてなのか、諦めからきたのか、俺にはわからなかった。
「それでは失礼します」
フレンは軽く手を振った後、中央区に向かって歩いていく。遠ざかる足音が、川の流れに包みこまれていった。
子供の頃はこんな結末に納得することはなかっただろう。
十五歳になって、働いてお金を稼げるようになった。
だけど、子供の頃に描いていた理想と現実は大きく乖離していて。
歳を重ねて、理想を叶える力を得たわけではなく、現実を受け止める器が大きくなっただけなのだと気づく。
俺には初めから何もなかったんだ。
孤児院への帰り道。熱気に包まれた市場を避け、人通りの少ない入り組んだ路地を進む。遠回りにはなるが、今はできるだけ一人になりたかった。
崩れた木箱、散らかった飲みかけの酒瓶。乾ききっていない吐瀉物は悪臭を放ち、群がる害虫は鬱陶しい羽音を立てる。
進むに連れて俺を囲む両壁は、汚らしい黒と灰色に変わり、貧民街に帰ってきたことを知らせるのだった。
この角を曲がれば孤児院の見える大通りに出る。
重苦しい何かから解放されると、安堵しかけた時だった。
「そんなに辛そうな顔してどうしたの?」
聞き覚えのある甘ったるい声に、背筋が冷たくなる。生唾を飲み、声のする路地へゆっくりと体を向けると、建物の影と同化した黒いローブが揺らめいていた。
見下すような不気味な笑みに、怒りよりも恐怖の感情が体を支配する。
そこには、親友のガインをスケルトンに変えた女。
ナターシャがいた。