9話 理想と現実、知らない世界
「パパ、なんであの人は汚い格好で外にいるの?」
「こらっ、指を差すんじゃない。昨日悪いことをした奴かもしれないんだぞ」
無邪気と残酷さを併せ持った幼い声が、静かな街並みに広がる。俺は意識的に声のする方を見ずに歩みを進めるが、着飾った通行人からの視線をひしひしと感じていた。
王都の中央区は市場と違って閑散としていた。
立ち並ぶ店や屋敷には、獰猛な獣を象った装飾や、きらりと輝く妻飾りが施されている。他の地区、特に貧民街とはまるで雰囲気が違う。
背中に冷たい汗が流れたのがわかった。
落ち着け、俺はもう働ける大人だ。そう、ひたすら自分に言い聞かせる。
でも街全体が、ここはお前が来ていい世界じゃないと訴えてくるようだった。薬屋へと向かう歩幅は、自然と大きくなっていた。
「こ、こんにちは……」
俺は恐る恐る淡い木目調の扉を開ける。室内から、鼻を刺すが癖になりそうな匂いが漏れ出すと同時に、カラン、カランと鈴の音が店内に広がった。
店内には赤、青、黄色といった色鮮やかなポーションが虹のように陳列されている。その美しさに、俺は目を奪われた。
「いらっしゃ―― なんだい兄ちゃん?」
カウンターで作業していた小太りの店主が、振り向いてこちらを見る。俺を視界に捉えると、気だるそうに首の裏をかきながら「ちっ」と舌打ちをした。
「何の用だって聞いてるんだが」
「あ、あの…… レーゲの病に効く薬を売ってくれませんか?」
「レーゲの病?」
薬屋の店主は、高圧的な態度で詰め寄ってくる。
「金は持ってるのか?」
「手持ちは銀貨五枚なんですが、交渉できればと……」
手持ちが少ないのはわかっているが、あくまでも俺は購入する意志を示す。
「馬鹿にしてるのか、レーゲの病に効く薬は粗悪品でも銀貨八十枚はする。たかだか銀貨五枚じゃどうにもならん、帰ってくれ」
やはりといったところで、全く相手にされない。だけどサリーのために引き下がるわけにはいかないのだ。
「では銀貨百枚いや…… 百五十枚を後からお支払いします。これならいかがですか?」
店主はやれやれといった様子で指先を俺に向けた。
「どうしてお前の話を俺が信じて、薬を売らなきゃならん。そのまま持ち逃げして質屋に流すつもりだろ」
「そんなことしません! 妹が病にかかって、どうしても薬が必要なんです! どうか!」
「そんなの俺の知ったこっちゃねぇよ。お前もどうせ貧民街の出身だろ、潔く運命を受け入れるんだな」
蔑む目と言葉が、俺の胸を刺した。
運命? 運命ってなんだよ。そんな言葉を飲み込めるはずがない。サリーが病にかかったのも、母さんが死んだのも運命だというのか。
「俺にできることならなんでもします、せめて話だけでもなんとか」
「うるせぇな! お前らの命に価値なんてねぇんだよ!」
やはりだめなのか。でもサリーが…… こうなったら力尽くでも――
「それは少し言い過ぎではないでしょうか?」
柔らかくも力強い声が耳に入る。ポーションの並んだ棚の陰から、白いローブを纏った女性が顔を出した。
コツン、コツンと床を鳴らして彼女はこちらに歩み寄る。そのたびに、頭をすっぽり覆うフードの中で癖のある金髪が静かに揺れた。近づくにつれ、整った顔が鮮明になっていく。
女神が現れたのかと思った。だが、一瞬にして俺の心は冷めてしまう。
俺に向けられた彼女の眼差しが、王都の連中が貧民街出身者を見るものと同じだったから。
「これはお客様、失礼しました。お目当ての商品は見つかりましたか?」
店主は頬を吊り上げて笑顔を作り、視界から俺のことを外した。
「まだなのですが、どうしても話が気になって」
白いローブの女は、にこりと両目を細めて俺を見る。
「彼の話をもう少し聞いてみてはいかがですか?」
彼女の言葉からは変に萎縮してしまうような圧を感じた。店主は首をかきながら不満そうに答える。
「ですが、こいつは金がないんです。それじゃあどうにも――」
「そうなんです! 彼にはお金がないのです!」
店主に被せるようにして、白いローブの女は声を張り上げた。どうやら先ほどの話はしっかり聞かれていたようだ。
片目を閉じ、得意気に指を立てながら、白いローブの女は俺と店主の間を割くように歩く。
「さぁ困りました。お金がないとなると、何かで工面するか、相応の代価を支払うしかありません」
白いローブの女が場を仕切りだした。数歩進んだところで踵を返し、ビシッと俺を指差す。
「あなたにそれが出来るのですか?」
「それは……」
完全に彼女のペースにのまれている。突然の問いに、俺はたじろいでしまった。
「では、あなたが持っている五枚の銀貨」
言葉を区切り、白いローブの女は俺に一歩距離を詰める。
「どうやって手に入れたんですか?」
「鉱山で働いた報酬だ…… そうだ、俺は稼げる。時間さえもらえれば必ずお金は払う」
「素晴らしいです! 労働により対価を得る。あなたも社会の一員なんですね」
寄り添う気のない、うわべだけの言葉が耳に入る。また一歩、彼女は物理的な距離を縮めた。
「では、それは何日分の報酬なんですか?」
俺の顔を下から覗き込み、白いローブの女は不敵な笑みを浮かべる。
「……三十日分だ」
彼女の挑発的な喋りに恥ずかしさが込み上げ、俺はたまらず目をそらしてしまう。
「まぁ! まぁ! まぁ! まぁ!」
煽るよう言いながら、鼻と鼻が触れ合いそうになる距離まで彼女は顔を近づけた。
「……っ!」
ほのかに石鹸の匂いを感じたところで、俺は一歩後ろに下がる。白いローブの女は冷ややかな笑みを浮かべた。彼女の胸の上に乗る翡翠色のネックレスが、窓から差す陽射しを受けキラリと光っている。
「それでは銀貨八十枚を稼ぐには、四百八十日かかってしまいますね。四季は一巡し、また次の季節が始まる頃でしょうか?」
わざとらしくとぼけた顔をしながら、彼女は俺と店主を交互に見る。
「まして、あなたの言っていた銀貨百五十枚となるとどうでしょう? 数年は先の話になりますね? 国の情勢も心配です、働き口は常にあるのでしょうか? それに……」
白いローブの女の頬がニヤリと持ち上がる。
「あなたは生きているのでしょうか?」
いたずらのように投げかけられた言葉に、俺の胸の中がざわついた。
母さん、ガイン、死んでいった貧民街のみんなの顔がふと脳裏によぎる。
自分だけ大丈夫なんてことはない。いつだって、すぐそばに死はうろついているのだ。
「冗談ですよー、そんな恐い顔しないでください」
白いローブの女は、手の平を口に添えて笑う。どこまでが本心なのだろうか。
俺は何も言葉を返すことはできなかった。
思いついたように彼女がパンと手を叩く。
「もしかしたら、お店の方が無くなってるかもしれませんね」
「縁起でもない、やめてくださいよ」
店主は苦笑いしながらもどこか嬉しそうだった。
さっきまで険悪な雰囲気だった店内が、気づけば明るくなっている。
「これであなたの置かれている状況がわかりましたか?」
首を傾げながら白いローブの女はニコッと笑う。その美貌と、愛らしい振る舞いに好感を抱く人間は多いだろう。
でも俺にとっては、彼女が死の宣告を告げに来た悪魔にしか見えなくなっていた。
「そ、それなら……」
現実を受け入れたくない、お願いだから助けてくれ。
誰でもいいから――
「商会だ! テイムズ商会に掛け合ってお金を貸してもらう。そんなことができるって聞いたことがある、だから……」
「だっはっは!」
店主の野太い笑い声に、俺の訴えはかき消された。その横で、白いローブの女は額に手を当て、「はぁ」とわかりやすくため息をついている。
「もっとわかりやすくお話ししましょう。あなたには信用できる要素がないんです」
彼女は眉をひそめ、足元から頭の天辺までなぞるように俺の体を見た。
「泥だらけの靴に、袖の破れた服。伸びた爪には土が入り込んだまま、これで手持ちは数枚の銀貨のみ。大金を稼げていらっしゃるのなら、身なりは大目に見られるでしょうけど……」
彼女の言葉一つ一つが連なり、俺と世界の境界線を作る。耳に入る度、お前はこっち側じゃないよと諭されているようで。ただ返す言葉も見つからなくて……
「それに、見たところとてもお若いようですし、まぁ私と同じぐらいの歳だと思いますけどね」
茶化すように、自身の白い頬へとピンと伸ばした指を当てる。
「そんなあなたが、「お金をなんとかしてほしい」と言うのは無理があります」
目を閉じて一つ咳払いをし、彼女は満面の笑みで言った。
「駄々をこねる子どもと、あなたは何が違うんですか?」




