10話 白いローブの女
心を支えていたものが、ポキッと音を立てて折れてしまったようだった。
王都の中央区と商業区を結ぶ橋の上。
レンガ造りの欄干に身を預け、昨日の雨で勢いを増した川をぼんやりと見つめる。
俺は逃げるように薬屋から飛び出し、気づけば貧民街のある商業区の入口まで戻っていた。
妹のサリーの病を治すため、その治療に関連する全ての店を回るつもりだった。でも一軒目でこのざまだ。
五枚の銀貨が入った小袋を握りしめ、濁った川へと振りかぶる。だが、手放す直前で強く握り直し、俺は小袋を欄干に叩きつけた。
「くそっ……!」
袋の中で銀貨がシャリンと小さく鳴る。
中央区と商業区を二分するこの橋で足が止まった。
貧民街に戻ってしまえばサリーは助からない。かといって俺には薬を得る手段がない。
どうにもできないまま、ただ時間だけが川の流れのように過ぎていた。
「やっとみつけた」
声のする方を向くと、薬屋で会った白いローブの女がこちらに歩いてくる。
「何の用だ?」
「またー、そんな怖い顔しないでください」
俺は怪訝な視線を向けるが、彼女は笑顔のまま距離を詰めてくる。そのまま俺の隣に立ち、欄干に両手をついた。
「追い込まれたあなたが、何をしでかすかわかったものではないので。先ほど、あの店主から力尽くで薬を奪おうとしたんじゃないですか?」
「それは……」
「ほらやっぱり。強引に割って入ってよかったみたいですね」
図星を突かれ戸惑う俺を、やれやれといった様子で彼女は見つめる。
「お兄ちゃんが犯罪者になったら、妹さんはどう思います?」
「……そこまで考えてなかった」
「妹さんを助けたい気持ちは理解できますけど……」
彼女は川の奥へと視線を移す。付け加えるように話したその声色は、意外にも優しいものだった。
「もしかして俺を助けてくれたのか?」
「まぁ…… 何というか。そんなところでしょうか……」
フード越しに癖のある髪を触りながら、彼女は軽く目を伏せた。
「そういえば自己紹介していませんでしたね。私はフレンと申します、冒険者を生業としています」
打って変わって、誰からも愛されるような眩い笑顔をフレンは見せる。その切り替えの早さに、俺は一瞬、言葉を詰まらせてしまう。
「お、俺はダレス、ダレス・ハーパーだ。薬屋でのことは助けられているとは知らず、失礼なことを言ったかもしれない。すまなかった、そしてありがとう。声をかけてもらえなかったら、きっと俺は無理やりにでも薬を奪っていた……」
深々とお辞儀をすると、フレンは「いいですよ」と軽く往なすだけで、感謝を受け取る気配はこれっぽっちもなかった。
「えっと、冒険者ってことは魔物と戦ったりするんだろ? 治癒魔法を扱える人に知り合いがいれば紹介してほしい…… いや、何言ってるんだ俺は……」
助けてもらった相手に、また救いを求める。話しながら、薬屋でのフレンとのやり取りが脳裏をよぎり、俺は言葉尻を濁した。「駄々をこねる子ども」とは、実に的を射た言葉だと思う。
「そうですね……」
「えっ……」
フレンは不意に俺の左手を両手で握りしめた。
「ヒーリング」
優しい言葉とともに、左手が心地よい温かさで包みこまれる。
フレンが手を離した時には、鉱山仕事でできたマメは消えていた。
俺は確かめるように左手を握りしめる。ズキッとした嫌な痛みを感じない。
「すごい…… これって治癒魔法だよな! だったら!」
目の前に現れた一筋の光に、俺の声は自然と大きくなる。これならサリーもと期待の眼差しを向けるも、フレンは下を向いて首を横に振った。
「私は治癒魔法を扱えますけど、レーゲの病を治すことはできません。残念ですが、あの病をなんとかできる治癒魔法使いは、そういないと思います」
俺はわかりやすく肩を落とす。
「そうか…… でも謝らないでくれ。手を治療してもらったし、レーゲの病を治すのは、治癒魔法でも難しいことを教えてくれたんだ」
期待した光は一瞬で消え去り、また暗闇の中へと戻される。
ここまでくれば、やはりだめだったかと思う気持ちが強くて。それほどショックを受けていない自分がいた。
「あの、これをどうぞ」
フレンは肩にかけた革のポーチから、薄い赤色の液体が入った小瓶を取り出す。
「これは?」
「鎮痛剤入りの治癒のポーションです」
小瓶を受け取ると中の液体が波打ち、微かに花のような甘い匂いが漏れ出した。
「妹さんに飲ませてあげてください。病を治すものではないですが、症状は緩和できると思います」
「そんな、いいのか?」
「あなたのためじゃないですよ、妹さんのためです」
念押しするように、フレンは人差し指を俺に突き立てる。
「なんでこんなことまで……」
人に優しくされたことなんて数えるほどしかなかった。手を治療してもらったうえに、価値のあるものをタダでもらえるなんて……
感謝の気持ちよりも、なぜ? という疑問で俺の頭の中はいっぱいだった。
「ほんとに、私はなんでこんなことを……」
欄干に手をつき直し、フレンは寂しそうに空を見上げる。
「……まぁ、兄弟を大切にしてほしいって気持ちですかね、私にも似たようなことがありましたから…… ただ、あなたの行動は間違っています!」
不意に口調を強くしたフレンに、俺は思わず背筋を正す。
「助けたい気持ちはわかりますが、どうにもならないことなんて、この世の中には山のようにあります」
そう言って薬屋のときと同じように、フレンは顔をぐぐっと近づけてくる。目にかかるまで伸びた俺の前髪が、なんとか彼女との境界線を作ってくれていた。
「今回のそれが、妹さんの病を治すこと。であれば、あなたがなすべきことは妹さんに寄り添い、少しでも安らかに看取ることなのです」
「本当にそれしかないのか……」
諦めたくなかったはずなのに、フレンの言葉に納得しそうになる自分がいる。
「今だってきっと、そばにいてほしいと思っているはずです」
言いながらフレンは、ポーションを握った俺の手を両手で包む。治癒魔法を受けたときと違い、その小さな手には力強さがあった。
「この手で、妹さんの手を握ってあげてください」
「……あぁ、そうするよ、ありがとう……」
優しく微笑みかけるフレンに、思わず俺の頬が緩む。フレンに釣られてしまったのか、諦めからきた笑顔なのか、俺にはわからなかった。
「それでは失礼します」
フレンは軽く手を振った後、中央区に向かって歩いていく。遠ざかる足音が、川の流れに消されていった。
十五歳になって、働けるようになって、お金を稼げるようになった。
だけど、子どもの頃に描いていた理想と現実は大きく乖離していて。
歳を重ねて理想を叶える力を手に入れたわけではなく、現実を受け止める器が大きくなっただけなのだと気づく。
俺には初めから何もなかったんだ。
孤児院への帰り道。人通りの少ない入り組んだ路地を進む。遠回りにはなるが、今はできるだけ一人になりたかった。
崩れた木箱、散らかった飲みかけの酒瓶。乾ききっていない吐瀉物は悪臭を放ち、群がる害虫は鬱陶しい羽音を立てる。
進むにつれて俺を囲む両壁は、汚らしい黒と灰色に変わった。ここから貧民街だ。
突きあたりの角を曲がれば孤児院の見える大通りに出る。
重苦しい何かから解放されると、安堵しかけた時だった。
「そんなに辛そうな顔してどうしたの?」
聞き覚えのある甘ったるい声に、背筋が冷たくなる。生唾を飲み、声のする路地の方へと俺は体を向けた。
建物の影を踏み、黒のローブを揺らして彼女は向かってくる。怒りよりも恐怖の感情が俺の体を支配していた。
俺の目の前に、親友のガインをスケルトンに変えた女。ナターシャが現れた。




