6話 不運はいつも畳み掛けるように
「いったいどうしたの? あら、ダレスじゃない」
「マリエラ先生……」
黒いロングスカートを軽く持ち上げ、慌ただしく階段を降りるマリエラ先生。
長い髪を一つにまとめ、遠目からでもわかる荒れた手が彼女の献身さを物語っている。
三十人以上いる孤児を大切にしてくれる、みんな大好きな先生だ。
「ロイ、ベン、泣かないの。せっかくダレスが来てくれたんだから」
そう言って優しくロイとベンを後ろから抱きしめる。マリエラ先生に抱きしめられると、まるで魔法にかかったように心が温かくなるのだ。
「ダレス、ありがとう。あなたは早くサリーのところに行ってあげて」
「わかりました」
泣きじゃくる二人をマリエラ先生に託し、リゼに手を引かれながら急いで階段を上る。
「こっちだよ」
二階の寝室。壁は色あせ、天井の四隅には主のいない蜘蛛の巣が、綺麗な六角形を作ったまま残っている。
均等に置かれた十台ほどの質素なベッド。
「お姉ちゃん! お兄ちゃん、来てくれたよ」
一番窓側のベッドに目をやると、体を起こして日射しを浴び、外を寂しそうに眺めるサリーがいた。
窓から風が入り込み、裾の千切れたレースのカーテンが波打つように揺れる。目を細め顔を覆うサリーの右手に、見覚えのあるひし形模様があった。
「お兄ちゃん……」
サリーは俺を見つけると、今にも泣き出しそうな表情で声を震わせる。
「……私、……死んじゃうのかなぁ?」
目に飛び込んできたのは、細い首筋を覆うアーガイル模様の紅斑。母さんを殺した病の特徴的な症状。俺は頭の中が真っ白になる。
「サリー!」
誰もいないベッドに足をぶつけながらサリーの下へ駆け出し、俺は無我夢中で痩せ細った体を抱きしめていた。
「大丈夫だからな、兄ちゃんがなんとかしてやるからな」
「痛いよ、お兄ちゃん」
なんでこんなことに。サリーが何したっていうんだ。
「お兄ちゃん! お姉ちゃんが痛いって言ってる」
「あっ…… ごめんサリー……」
リゼの言葉で我に返り、抱きしめた手を緩めサリーの顔を覗き込む。
サリーは「ありがとう」と優しく微笑んでくれたが、その笑顔から未来を諦めたような脆さを感じた。
「――いつからこうなったんだ?」
赤いひし形が連なるサリーの左手をそっと握る。見た目よりも冷たい手。俺は、目線を合わせ平静を装うように問いかけた。
「今朝起きたら色んなところが赤くなってて…… もう、あんまり体に力が入らないの」
サリーはゆっくりと右手を丸めようとしたが、指先は少し曲がっただけで手の平には届かない。
弱ったサリーと母さんが重なる。
たが、こんなにも病の進行は早くなかったはずだ。
「そうか、突然のことでびっくりしたろ。でも大丈夫だ、兄ちゃんが薬持ってきてやる」
頭をなでるとサリーは不思議そうな顔で俺を見る。
「でも、お金がいっぱいいるって、お母さんのときも――」
「大丈夫だって、昨日まで兄ちゃん炭鉱で働いてたんだぞ。お金ならあるよ」
サリーの言葉を遮り、さらに強く頭をなでる。
髪をくしゃくしゃにすると「やめて」とサリーは言ったが、その頬には少しだけ笑顔が戻っていた。
今回の仕事の稼ぎでは、到底、薬代を賄うことはできない。ただ兄として嘘をついてでも、妹に悲しい顔をしてほしくはなかった。
「ダレス、ちょっといいかしら」
寝室の入口に、マリエラ先生が神妙な面持ちで立っている。
良い話ではない事は明らかで、このまま妹達との時間を大切にしたかったが、そういうわけにもいかないようだ。
「ちょっと先生と話してくるな」
不安そうに俺を見つめる2人を優しく抱きしめた後、頭の上にポンと手を置いた。母さんがいつもしていたように。
「早く帰ってきてね」
「ああ」
俺は振り返らず寝室から出ていった。
♢♢
「ここなら子供達はいないから……」
一階のマリエラ先生の部屋。朝なのにカーテンは閉め切ってあり、薄暗い空間に書類や本が開いたままで、散乱している。
マリエラ先生がカーテンを開けると光が部屋一面に広がり、散らばった書籍は病理に関するものだとわかった。
そのまま腰を入れて大きな窓を開ける。ぎぃーという音とともに涼しい風が入り込み、パタパタパタと開きっぱなしの本はページを進めた。
「ごめんね散らかってて、なかなか掃除まで手が回らないの」
「いえ、気にしないでください」
マリエラ先生の部屋には、基本的に子どもは入ってはいけない決まりだ。
大事な本がたくさんあるからとの理由であったが、昔、孤児院で悪ガキトリオと侵入した時はこれほど部屋が荒れていることはなかった。
それほどまでに孤児院の状況は芳しくないのか。
「本も動かしていいから、そこの椅子使って」
「わかりました」
慌ただしく本を片付けるマリエラ先生。
椅子に積まれた本をそっと床に置き、座面に溜まった埃を手でさっと払う。
マリエラ先生は「ごめんね」と呟き、年季の入った木の椅子に腰掛ける。対面する形で俺も椅子に座った。
「……サリーちゃんのことだけど……」
明らかに声のトーンが重い。やはり良い話ではないようだ。
「あれは、レーゲの病ね…… 症状の進行が早すぎるけど、あの浮かび上がった模様から推察するに間違いないわ」
「……はい、僕もそう思います。母さんも同じ病気だったから……」
俺の言葉にマリエラ先生は目を見開いた。そのまま息を呑み数秒の沈黙が流れる。
「そうだったわね…… なんとかしてあげたいんだけど、今の孤児院はかなり厳しい状態で」
マリエラ先生は唇をぎゅっと噛み締めた。
「王国からの支援金や、寄付も少なくなって、食べ物の値段がどんどん上がってる。近い内に、また戦争するんじゃないかって噂まであるのよ」
少しずつマリエラ先生の表情が険しくなる。
「――倒れる子も多くなって、もうこの孤児院がやっていける状態じゃない。国に掛け合ってみても門前払いで、いつも子供たちがしわ寄せを受ける羽目になる。オリバーも…… あの子優しいから、お腹を空かせた小さい子達に自分の分をこっそり渡していて、それで……」
子供達への想い、王国への不満が止めどなく溢れる。俺と目が合うと、マリエラ先生はハッと我に返ったようで、静かに手を口へ当てた。
「……ごめんなさい、ダレス」
「いいえ、マリエラ先生には感謝しています」
「ありがとう、あなたにそう言ってもらえたら嬉しいわ」
ほっとしたようにマリエラ先生は笑顔を作り、手を合わせた。
ブライト孤児院はかつてないほどの危機に見舞われているのだろう。
ただでさえ少ない食料がさらに減っている。体調が悪くなっても、診てくれる医者もいなければ薬もない。
これだけの子供がいる施設なのに、吹き抜ける風の音が聞こえるほどに静かなのだ。子供の声が聞こえない孤児院ほど不気味なものもないだろう。
できることならみんなを助けてやりたい。
ただ、自分にその力がないことは、昨晩痛いほど突き付けられた事実で。
それでも俺は、一番大切なものを守るために全力を注ぐことを考えていた。
「マリエラ先生、レーゲの病は治りますよね?」
よほどの不意打ちだったのか、マリエラ先生は目を丸くし、驚きの表情を隠せずにいる。
「それは…… 治癒魔術か薬があれば治る病だけど、いくらお金がかかるか……」
「よかった…… マリエラ先生から治ると聞けて安心しました」
俺は椅子から立ち上がり、ポケットに入れた小袋から銀貨を取り出す。
マリエラ先生は銀貨を見つめた後、直ぐに視線を俺に戻した。
「これだけじゃ何もできないわよ」
「わかってます、でも交渉の材料として少しは使えるんじゃないかと」
「そのお金を使って、サリーを優しく看取ることもできるのよ――」
マリエラ先生の言うことは間違いではないのだろう。だけど……!
「何もしないまま、サリーを見捨てることなんてできません!」
ガインの最期が脳裏に焼き付いている。あの時の自分は何もできなかった。
だけど今は、力のない自分でも行動する時間が残っている。
「……妹達のことをよろしくお願いします」
「ダレス! 待ちなさい!」
マリエラ先生の言葉を背に受け、部屋から走り去る。小袋の銀貨がこすれ合い、小さく、小さく音を立てた。
何もできず亡くなる人をたくさん見てきた。
あまりの数に悲しいと感じる気持ちも薄れていた。
そういうものだと、そういう世界なんだと受け入れる周りの人間に流されそうにもなった。
それでも気持ちは変わらない、そんなもの受け入れてたまるかと。
勢いよく孤児院から飛び出す。
目に入るのはどこまでも広がる青空。
踏み抜いた水溜りは高く、広く水しぶきをあげ、太陽の光を反射し周囲に散らばった。
サリーのことを想うと足が軽くなり、前へ前へと体が進む。俺は振り返ることなく王都の中心を目指した。