57話 霧の中に潜む者
「母さん…… ごめん…… ごめんなさい」
とめどなく溢れ出す涙を、俺は抑えることができなかった。地面についた両手の間に落ちる雫が、吸い込まれるように土の中へと消えていく。周囲に立ち込める霧が、現実と夢との境目をあやふやにしているようだった。
「ダレス、しっかりして! 本当にあなたのお母さんなの?」
キサラが優しく俺の背中をさする。
「本物の母親との再会なら野暮な事はしたくないんだが。恐らくそうじゃないだろ」
仲間思いのキサラを諭すように、アシュードは盾を構えて前を向く。
「あいつがミラーデーモンだ」
アシュードの言うことに間違いはない。
だってもう、母さんはこの世にいないのだから。
だけど俺は、柔らかい笑みをこちらに向ける母さんに謝ることをやめなかった。
今自分が成すべきは、声を震わせて地面に這いつくばることではない。そんなことは理解しているつもりだ。けれど、今までの後悔が、涙とともに口から溢れて止まらない。
俺は母さんとの約束を守れなかった。
妹のサリーとリゼを頼むと言われたあの日のことは、今でもはっきりと思い出せる。やつれた顔で、でも包み込むような笑みを浮かべてベッドに横たわる母さんの姿も。
サリーが母さんと同じ病にかかって、俺はナターシャと契約してその病を治す薬を手に入れた。だけど俺は薬をサリーに与えなかった。
誰も俺を責めなかったけれど、俺だけは自分が許せなかった。
俺は後悔を叫んでどうしたいのだろうか。母さんに許してほしいのだろうか。それとも情けない自分のことを叱ってほしいのだろうか。
相手は偽物の母親だと分かっているのに。
「早くご飯にしましょう。せっかくのシチューが冷めちゃうわ」
ミラーデーモンは穏やかな笑顔を崩さず、座り込んで動かないサリーのもとへと近づいてくる。
「俺を見ろ!」
アシュードはサリーの隣に立ち、盾を構えて怒号を響かせた。
けれど、ミラーデーモンはぴくりとも反応せず歩みを進める。アシュードに意識が向かない魔物がいるなんて…… こんなことは初めてだった。
「効いてないってか……」
アシュードは噛み締めるようにつぶやく。
「ウィールス・パワー!」
すぐさまメロは杖をかざしてデバフ魔法を唱える。霧を上書きするように、赤い靄がミラーデーモンを包み込んだ。しかし、メロの魔法も一瞬でかき消されてしまう。
「そんな……」
メロは続けて詠唱した。けれど杖先の宝石が虚しくきらめくだけで、ミラーデーモンに魔法が届いているようには思えない。
「わたしのデバフも効きません」
「やはり普段相手にしている魔物とは格が違いますね。 ……冒険者ギルドが、特別警戒個体に指定するわけです」
うなだれるメロの隣で、フレンは唇を強く噛みしめる。
「どうしたらいいキサラ。こいつ俺の事を無視しやがる」
「どうするも何も、ダレスが動けないなら攻撃の手段はないし。撤退するのは絶対なんだけど、逃げ切れるかどうか……」
「わたしがもう一度デバフをかけましょうか? もしかしたら次は効くかもしれません」
「それはだめ! たとえ効いたとしても効果は薄いかもしれないし。メロはなるべく魔力を温存しておいて」
「おい、キサラ! 早く指示を! もうそこまで来てるぞ!」
「えーっと、どうすれば……」
パーティメンバーの焦りと緊張が、肌にじりじりと伝わってくる。誰も想定しなかった事態に、今まで無敗だった俺たちの連携はなす術なく崩れ去った。
そんな事などお構い無しに、ミラーデーモンは体を軽くかがめて攻撃態勢を取る。
「みんな、はやくおいで――」
優しくほほ笑みながらミラーデーモンは霧を裂くように跳躍。サリーの下へと一気に距離を詰める。完全に獲物を狙う魔物の動きだ。
常人ならぬ行動に耐えきれず靴はボロボロに破れ、年季の入ったエプロンは悲鳴を上げるように大きくなびく。姿はそっくりなのに、もうそこに母さんの面影はない。
「させるかよ!」
アシュードはサリーの前に立ち、盾を突き立て身構えた。ミラーデーモンは勢いのまま、体をひねってやせ細った足をしならせる。そして、アシュードのことをまるで小石のように簡単に蹴り飛ばした。
受け身も取れず、アシュードは岩壁に衝突して座り込む。
「っ……! おいおい、冗談だろ…… トレントの拳と変わんねぇぞ」
アシュードは歯を食いしばりながら左肩を押さえる。
すぐにフレンが回復魔法を口にし、アシュードは立ち上がった。しかし、一撃の重みは凄まじかったようで、好戦的に睨みを利かせていた瞳からは光が消えかかっていた。
ミラーデーモンは蹴り出した足をそっと地面に下ろす。一つ間を置き、怯えるサリーに優しく微笑みかけた。まるで本物の母親のように。
「私が行きます!」
「ちょっと、フレン! あなたじゃ無理よ」
「みなさん、少し目を閉じてください!」
言うが早いか、フレンは杖を握りしめサリーの下へと駆け出していた。キサラの忠告など気にもせず、フレンはミラーデーモンに杖をかざす。
「これで……!」
杖先に結ばれた装飾品が、小さく揺れながら閃光を放つ。フレンの言う通りに目を閉じたが、瞼の上からでも感じる眩い光に俺は咄嗟に手で影を作った。
「ああっ……!」
母さんの苦しむ声に、俺は恐る恐る目を開く。ぼんやりと広がっていく視界に映ったのは、両目を押さえてもがくミラーデーモンだった。ばさばさと傷んだ髪を揺らしながら後ろに下がり、霧の中へと姿を消す。
「やったぁ、フレン! あなた、こんな魔法も使えるんだね」
「ただの基礎的な光魔法です。それよりも早く離脱を――」
「……フレン?」
フレンの言葉尻が下層の濁流にかき消され、表情が一気に曇っていく。
ミラーデーモンに対して、ダメージとまではいかないだろうが、初めて有効な攻撃ができた。けれど、その場で立ち尽くすフレンの様子を見て、高揚しかけたキサラの感情はすぐに冷めていく。
フレンとは対照的に、俺は頭の中を締め付けられていたような感覚からようやく抜け出せた。ただ、全力疾走した後のような疲労感に襲われ、空気を求めて激しく呼吸を繰り返す。
大きく上下する肺に沿うよう手を当て、俺は顔を上げた。――よかった。変わらず震えてはいるがサリーも無事なようだ。
「ダレス。早く戻ってきてね」
キサラはいつもの調子で俺の背中をぱんと叩く。華奢な手から伝わる心地よい痛みは、いつも通りのキサラのものだ。
だが、俺にはまだ返事を返せるほどの余裕はなく、意識が朦朧とする中で息を整えることに神経を注いでいた。
「アシュード! メロ! 何でもいいから、ミラーデーモンを足止めして時間を稼いで。みんなで助かるよ」
さっきまで冷静さを欠いていたキサラの声に力が宿る。アシュードとメロは、互いを見合って覚悟を決めたように頷き、霧に潜む魔物に詰め寄っていく。
しかし、簡単に状況が好転するわけもなく。
「だめだ、全然俺に注意を向けてくれねぇ」
「わ、わたしのデバフ魔法も全く効かないです!」
冷たい空気が刺すように肌へと染み渡る。アシュードとメロの必死の叫びが、白い吐息となって重く淀む霧の中に溶け込んでいく。
「あっ…… あっ……」
フレンは怯えながら後退りし、崩れるように座り込んだ。胸に手を当て呼吸を荒くしながら、ただ一点をじっと見つめている。
潤んだ両目からは、大粒の涙がこぼれ落ちた。
フレンの視線の先。
霧をかき分け、白銀の鎧を纏う騎士が現れる。




