56話 レムロン渓谷
「うわぁー本当に凄い霧だね。……いててて、頭が…… 頭が割れる……」
キサラは立ち込める霧を抱きしめるように腕を広げたが、すぐさまその手で頭を抱える。もしかしなくても二日酔いってやつだ。
「脳みそ取り出して丸洗いしたい気分です……」
「珍しく飲んだと思ったが、情けないなメロは」
睡眠時間が足りなかったのか、メロの顔色はまだ優れない。酒場で倒れていたアシュードであったが、普段と変わらずガハハと笑いながら歩いている。酒の強さってのは人によってこうも違うのか。
ウェイトレスの助言通り、早朝のレムロン渓谷にはうっすら霧が立ち込めていた。これならミラーデーモンにすぐ見つかるなんてことはないだろう。
ゴツゴツとした坂道を進むにつれ、霧はよりその濃さを増していく。頂上を白い衣でまとった山間からは、燃えるような朝日が顔を覗かせ始めていた。
「視界が悪いからあんまり広がらないでね。崖から落ちて川に流されたら助けられないよ」
キサラは真剣な声色で呼びかける。
レムロン渓谷に入ったところから、道に沿うようにして川が流れていた。数日前の豪雨の影響が残っているのか、水は酷く濁り激しくうねっている。
渓谷を進むと次第に川は霧に覆われ、今はその姿を、ごおごおという水音でしか確認することはできなくなった。
道幅はなんとか荷馬車が行き来できる程度で、転落防止用の柵など無い。本来なら、霧の濃い時間帯にここを通るべきではないのだろう。
「あの…… やっぱり引き返すというのは」
「もぉー、フレンは心配症だなー。出発前に皆で決めたじゃん」
昨晩から不安の色を隠せないフレンに、キサラはあっけらかんと笑ってみせる。
日が昇る前、俺とフレンは宿でぐーすか眠る酔っ払い三人を叩き起こし、レムロン渓谷でミラーデーモンの目撃情報があったことを話した。
始めは難しい顔をしていたキサラであったが、ウェイトレスから聞いたミラーデーモンの対策方法を伝えるとぱっと表情が緩む。
念の為、しっかりこの村で準備を整えてから出発するということで話はまとまったのだが、フレンだけは最初から最後までこの攻略法に難色を示していた。
「別にミラーデーモンを舐めてかかってるわけじゃないよ。地導師としてちゃんと相手の情報は持ってる」
「であればなおさら……」
「準備はしっかりしたし、陣形も完璧だと思うよ。それに、出会わない可能性だってあるわけだし」
フレンに被せるように、キサラは親指を立てながら言う。確かに出会わないに越したことはないのだが。俺は改めて、今朝話したミラーデーモンの対策を思い出す。
ミラーデーモンは、対峙した人間の心理を読み取り姿を変える。なら、人間でないサリーであれば相手の能力を無効化出来るのでは、というのが作戦の肝だ。
だが、サリーが人間でないと見破られる恐れもある。そこに関しては、酒場のウェイトレスの助言が活きてくる。
人と見間違えるほどのサリーの出で立ち。そして、周囲に満ちた霧。この二つが、サリーのことを本物の人間としてミラーデーモンに認識させる要因となるのだ。
だから、サリーを先頭に立たせ、霧の中ぎりぎりその背中が見える距離に俺、そしてキサラにフレン、アシュードとメロが俺の近くで固まるように陣形を取る。
進行方向の左側には崖があって、その下は濁流の川。右側は壁のように岩肌が続いている。もしミラーデーモンと遭遇するなら、先頭を歩くサリーが初めに接触する布陣だ。
「変身する前のミラーデーモンはとっても脆いんだから、サリーちゃんの攻撃で一発だよ」
キサラは両手を頭に回し、けらけらと笑いながら天を仰いだ。フレンがちくりと刺すように言う。
「どこかで見たような口振りですね」
「見たことはないよ。聞いた話だけ」
フレンは諦めたように大きくため息をつく。
「そんなことより。フレンがお酒強いなんてびっくりだよ」
「わたしもです! 絶対わたしより弱いと思っていたんですが」
「メロより弱い子なんてそういないよ」
「なんですか、わたしだって本気出せばもっと飲めますよ」
「はいはい」
子どものように強がりを言うメロを、キサラが軽くあしらう。その様子を見て、フレンは噴き出すように笑った。
「私からすれば、み・な・さ・ん弱過ぎますけどね。今後、宿まで運ばされるなんてことはないようにしてください」
「フレンに言われちゃ敵わねぇな」
自信たっぷりに言うフレンに、アシュードは肩をがくっと落とした。キサラとメロが申し訳なさそうに「すみませんでした」と返すと、花が咲くようにパーティメンバー全員に笑いが起こる。
今朝から続いていたピリついた空気は消え去ったようで、穏やかな雰囲気が俺たちを包み込んでいた。
談笑しながら霧の中を進んで行く。みんなの緩んだ頬を見ると、緊張の糸が解けていることは明らかだった。あのフレンでさえも、昨晩のご馳走の味について楽しげに語っている。
このまま何事もなくレムロン渓谷を越えることができると、誰しもが思っていただろう。
不意に冷たい空気が俺の頬をなでる。反射的に手を顔に添えると、アシュードが静かに口を開いた。
「だんだん霧が濃くなってきたな。キサラ、もう少しサリーちゃんに近づくか?」
アシュードが懸念するように、サリーの小さな背中は霧の中に紛れかかっている。
「ミラーデーモンのことを考えると、この距離は保っておきたいね。ダレスは大丈夫そう?」
「俺は大丈夫だ。サリーのことはちゃんと見えてる」
キサラの心配をかき消すように、俺は語気を強めた。
「あれ? ちょっと待って」
キサラは立ち止まり、俺たちの進行を妨げるようにばさっと腕を広げた。
「誰か来る。ダレスもサリーちゃん止めて」
「わかった」
キサラに言われるまま、というより本人の意思でサリーは足を止めた。背中から大剣を抜き、サリーは臨戦態勢に入る。
ただならぬ気配に、パーティメンバーは息を殺しながら周囲を見回した。けれど、深さを増していく霧が、目で読み取れる情報を著しく制限している。
俺は、瞳をゆっくりと閉じて聴覚に意識を集中させた。
濁流が鼓膜を揺らす中、規則的に地面を蹴る音を俺は感じとる。たっ、たっと歩幅の小さい軽い足取り。その音が少しずつ近づいてくる。
不意にカシャンという金属音が響き渡り、俺は咄嗟に目を開いた。
白みがかった視界に、大剣を手放して後退りするサリーが映る。その背中は、表情を失った妹のものとは思えない程に酷く怯えているように見えた。
「サリー……?」
俺が一歩、二歩と近づくと、サリーはついに尻もちをついた。サリーの視線の向こう。まだはっきりとは確認できないが、長い髪を揺らす人の姿が霧の中にある。どこか見覚えのある女性のシルエット。
後ろでアシュードが盾を取り出す音が聞こえたが、俺に戦おうという気は湧いてこなかった。
ほんのり霧が散ったように思う。現れたのは、目尻に少ししわのある温かな瞳と、やせ細った頬が目立つ女性。俺の胸は跳ねるように高鳴った。しかし、直後に頭が割れるような激痛に襲われ、俺は地面に蹲る。
「ダレス!? どうしたの?」
キサラが慌てて駆け寄るが、俺に返事をする余裕はなかった。
女性は立ち止まり、サリーを見つめる。そして視線を俺に移した。薄い唇が静かに動く――
「リゼがいないなんて珍しいわね。ダレス、早くあの子を呼んできてちょうだい。ご飯にするわよ」
心が落ち着くような丸みを帯びた口調で、ここにはいないもう一人の妹の名前を口にする。
あぁ…… 声まで一緒なのか……
「今日はみんなが大好きなシチューよ。ちょっとしかないけど、お肉も入ってるからね」
にっこりと笑顔を作り、女性は軽く首を傾けた。
子どもの頃、家族で食卓を囲んだ光景が鮮明に蘇ってくる。どうしてかわからないけれど、俺は涙が止まらなかった。
頭の中ではまがいものだと分かっているのに、夢心地なこの時間がずっと続けばいいと思っている自分がいる。
だって母さんが、目の前にいるのだから。




