5話 孤児院へ
雨の勢いは留まるところを知らず、ザァーザァーと音を立て夜の王都に打ち付ける。頭から足下までずぶ濡れの体に鞭を打ち、三十日ぶりに家へと帰った。
妹たちのいる孤児院に足を運びたい気持ちは山々だったが、体と心の疲労はすでに限界を越えていたのだろう。
大切な妹の顔を見るより、布団に入って休みたいという感情が勝ってしまった。
相変わらず家の雨漏りは酷く、外と変わらずジメッとした空気が漂う。部屋を歩けば悲鳴を上げるように床は軋み、吹き付けるすきま風は雨で濡らした体温をさらに奪っていく。
服を脱ぎ適当に体を拭いた後、ベッドに倒れ込む。ギシッという音と同時に、少し柔らかい板のような布団から埃が部屋一面に舞った。その一粒一粒が薄暗い灯りに照らされると、静かに反射し光を放つ。
久しぶりの我が家。炭坑の宿舎よりはぐっすり眠れると思っていたが、布団から反発する体の痛みに然程違いはなかった。
♢♢
朝になる頃には雨は止み、錆びついた窓から外を覗くと雲一つ無い青空が広がっていた。
部屋の真ん中に置いたダイニングテーブルを、背もたれのない小さな椅子が散り散りに囲む。母さんが使っていたクローゼットは、寂しそうに口を開けっ放しにしたままだ。
いつもと変わらぬ光景に、昨日のことは夢だったと目を逸らしたくなるが、右手に負った火傷とその痛みが俺を現実に連れ戻す。
ガインはもうこの世にはいないのだと――
妹たちに会うため、孤児院へ向かう。
貧民街はまだ静かで、王都の市場から活気のある声が微かにこだまする。至るところにある水溜りには、澄み切った青空が映し出されていた。
一歩、また一歩。思ったより足が軽い。
ガインを失ったばかりなのに、怖ろしいほど心が落ち着いている。
貧民街で人が亡くなるのは珍しい事ではないが、親友に対して抱くには、いささか薄情な胸の内。
人の死に触れすぎて、当たり前の感情が麻痺しているのか?
水溜りに足を取られながら自問自答していると、頼りがいのある太い声。
「ダレス!」
路地の奥から、赤髪で長身の男がゆっくり駆け寄ってくる。今日初めて会う人は、妹ではないようだ。
「フレッドさん…… 足はもう大丈夫なんですか?」
「俺の事はいいんだ、それよりお前にどうしても話したいことがあって……」
フレッドさんは炭坑で共に働き、昨日の一件でもガインに鼓舞され声を上げていた一人だ。ガドックの攻撃で負傷した足を少し引きずりはしているが、大事には至ってないらしい。
伝えたいことがあると言う彼の姿は、昨日のものと別人のようで、十歳は年上で体格の良い体が小さくみえる。
「俺達全員に罪があったはずなのに、ガインが庇ってくれただろ…… でも、まさか殺されるなんて思ってもなくて」
フレッドさんは声を震わせながら続ける。
「俺も、きっとみんなもガインと同じ気持ちだったと思うんだ。あのままじゃいけない、誰かが行動しないと行けなかった」
フレッドさんは拳をぎゅっと握りしめ、俺に力強い眼差しを向ける。
「お前のことだから、『ガインが死んだのは俺のせい』とか思ってるだろうけど、そうじゃないぞ」
「でも俺がガドックを殴ったから、ガインが殺されることになって……」
俺の胸にフレッドさんは拳を突き立て、ニッと笑う。
「ばかやろう、お前がガドックをぶっ飛ばした時は最高の気分だったぜ。ガインもきっと、お前の行動は間違いじゃなかったと思ってるよ」
「フレッドさん……」
「それだけ伝えたかったんだ、またなダレス」
早々と立ち去るフレッドさんの言葉に、昨日の自分が救われたような気がした。
「ありがとうございます!」
遠ざかる後ろ姿に感謝を伝えると、「おう」と振り向きながらフレッドさんはまた笑顔を返す。
自分の行いを肯定してくれることが、これほど力をくれるなんて、俺は今まで知らなかった。
◇◇
「お兄ちゃーん!」
孤児院の門からリゼが血相を変えて走ってくる。
一番下で十一歳の妹。二つ括りにした髪を揺らし、靴を泥まみれにしながら俺の胸に飛び込んできた。
「久しぶりだなリゼ。どうした? 何かあったのか?」
抱きしめた体は骨骨しく、健康的な子供とは程遠い体型をしている。
「お姉ちゃんが、お姉ちゃんが……」
力いっぱい抱きつくリゼの目から、涙がポロポロと溢れ出す。
「わかった、落ち着け。とりあえずサリーに会わせてくれないか?」
リゼはこくりと頷き、俺の手を引く。小さいながらも強く握られた手に、俺は焦りを感じずにはいられなかった。
ブライト孤児院。貧民街でひときわ目立つ四階建ての建造物。
壁の塗装は剥がれ落ち、むき出しの土壁と汚れた黒色が混ざったコントラストは廃墟そのもので。俺も母さんが死んでから二年間過ごしたが、今も変わらず、ここは人が住むのに適した場所とは思えない。
「あっ!ダレスだー、おかえりなさい」
「おかえりダレス!」
いつもより静かなエントランスに無邪気な声が響く。
孤児院の悪ガキトリオの二人、ロイとベンは腕を組んでじゃれ合いながら出迎えてくれた。
「ただいま。お前たち、俺のいない間に悪さばっかりしてないだろうな?」
「ちゃんとやってるよ、俺たちもう八歳だぜ」
「そうだぜ」
腕を組んだまま鼻を高くするロイとベンを見て、自分の頬が緩むのがわかった。
「そりゃ安心だな。そういや、今日はオリバーは一緒じゃないのか?」
辺りを見渡すも子供達は数人程度で、黒ずんだ床で膝を抱えたまま覇気のない子が多い。
「オリバーは、その…… ちょっと調子が悪いんだ」
満天の太陽に雲がかかるように、ロイの表情がひどく沈んだ。ふいにリゼに目をやると、下を向いたまま首を横に振る。事情を察するには充分だった。
「――でも、今度三人で誰が速く木登りできるか勝負する約束してるんだ! オリバーは約束破ったことないし、きっと元気になって……」
無理に明るく振る舞おうとするロイの目から大粒の涙が流れた。
一度体調を崩した子供がどうなるのか、ロイも何度となく見てきただろう。八歳の男の子が背負うものとしては大きすぎる。
「ああ、きっとよくなるよ――」
腰を下ろし、ロイの頭を撫でる。ぼさぼさの茶色い髪を梳かすように優しく、優しく。
手の平を数回動かすと、ロイはこらえていたものを吐き出すように「わーっ」と声を上げ泣き出した。
「……っ、簡単によくなるとかっ…… 言うなよ!」
隣で下を向くベンの目からも涙が溢れだす。嗚咽混じりの声に、心が揺さぶられる。
無責任な言葉を口にしたのは、自分が一番良く分かっている。助からない仲間を何度だって見てきた。きっとこの2人も俺と同じ経験を重ねていくだろう。
ただ、子供に希望をなくしてほしくはないと、心からの想いだった。
ベンは目を真っ赤にし俺をじっと見つめる。
少し口を開き「大丈夫だ」と言いかけたが、上手く言葉がでてこない。何も言わず、泣きじゃくる二人の肩に手を回し、ぎゅっと抱きしめる。
今の俺にはそれしかできなかった。