45話 霧の中に潜む者
「母さん…… ごめん…… ごめんなさい」
とめどなく溢れ出す涙を、俺は抑えることができなかった。地面についた両手の間にこぼれ落ちる雫が、吸い込まれるように土の中へと消えていく。周囲に立ち込める霧が、現実と夢との境目をあやふやにしているようだった。
「ダレス、しっかりして! 本当にあなたのお母さんなの?」
「本物の母親との再会なら野暮な事はしたくないんだが。恐らくそうじゃないだろ」
優しく俺の背中をさするキサラ。仲間思いの彼女を諭すように、アシュードは盾を構えて前を向く。
「あいつがミラーデーモンだ」
アシュードの言うことに間違いはなかった。俺たちのすぐ向こうで、微笑みながら柔らかい眼差しを向ける女性は母さんではない。だってもう母さんはこの世にいないのだから。
だけど俺は、母さんに謝ることを止めなかった。
今自分が成すべきは、声を震わせて地面に這いつくばることではない。そんな正論は理解しているつもりだ。けれど、今までの後悔が、涙とともに口から溢れて止まらない。
俺は母さんとの約束を守れなかった。
妹のサリーとリゼを頼むと言われたあの日のことは、今でもはっきりと思い出せる。やつれた顔で、でも包み込むような笑みを浮かべ、ベッドに横たわる母さんの姿も。
サリーが母さんと同じ病にかかって、なんとか薬を手に入れたのに、俺はそれをサリーに与えなかった。
誰も俺を責めなかったけれど、俺だけは自分が許せなかった。だって俺がサリーを殺したようなものだから。
俺は後悔を叫んでどうしたいのだろうか。母さんに許してほしいのだろうか。それとも情けない自分のことを叱ってほしいのだろうか。
相手は偽物の母親だと分かっているのに。
「早くご飯にしましょう。せっかくのシチューが冷めちゃうわ」
ミラーデーモンは穏やかな笑顔を崩さず、座り込んで動かないサリーの下へと近づいてくる。
「俺を見ろ!!」
アシュードはサリーの隣に立ち、盾を構えて怒号を響かせた。
けれど、ミラーデーモンはぴくりとも反応せず歩みを進める。アシュードに意識が向かない魔物がいるなんて。こんなことは初めてだった。
「効いてないってか……」
アシュードは噛み締めるようにつぶやく。
「ウィールス・パワー!」
直ぐ様メロは杖をかざしてデバフ魔法を唱える。霧を上書きするように、赤い靄がミラーデーモンを包み込んだ。しかし、赤い靄は一瞬でかき消されてしまう。
「そんな……」
メロは続けて魔法を唱えた。けれど、杖先の宝石が虚しくきらめくだけで、ミラーデーモンに魔法が届いているようには思えない。
「わたしのデバフも効きません」
「やはり普段相手にしている魔物とは格が違いますね。 ……冒険者ギルドが、特別警戒個体に指定するわけです」
うなだれるメロの隣で、フレンは唇を強く噛みしめる。
「どうしたらいいキサラ。こいつ俺の事を無視しやがる」
「どうするも何も、ダレスが動けないなら攻撃の手段はないし。撤退するのは絶対なんだけど、逃げ切れるかどうか……」
「わたしがもう一度デバフをかけましょうか? もしかしたら次は効くかもしれません」
「それはだめ! たとえ効いたとしても効果は薄いかもしれないし。メロはなるべく魔力を温存しておいて」
「おい、キサラ! 早く指示を! もうそこまで来てるぞ!」
「えーっと、どうすれば……」
パーティメンバーの焦りと緊張が、肌にじりじりと伝わってくる。誰も想定しなかった事態に、今まで無敗だった俺たちの連携は成す術なく崩れ去った。
そんな事などお構い無しに、ミラーデーモンは体を軽くかがめて攻撃態勢を取る。
「みんな、はやくおいで――」
優しくほほ笑みながらミラーデーモンは霧を裂くように跳躍。サリーの下へと一気に距離を詰める。常人ならぬ行動に耐えきれず靴はボロボロに破れ、年季の入ったエプロンは悲鳴を上げるように大きくなびく。それは完全に獲物を狙う魔物の動きだった。姿はそっくりなのに、もうそこに母さんの面影はない。
「させるかよ!」
アシュードはサリーの前に立ち、盾を突き立て身構えた。ミラーデーモンは勢いのまま、体をひねってやせ細った足をしならせる。そして、アシュードのことをまるで小石のように簡単に蹴り飛ばした。
アシュードは受け身も取れず岩壁に衝突。歯を食いしばりながら左肩を押さえている。
「おいおい、冗談だろ…… トレントの拳と変わんねぇぞ」
直ぐ様フレンが回復魔術を口にし、アシュードは立ち上がる。しかし、一撃の重みは凄まじかったようで、好戦的に睨みを利かせていた瞳からは光が消えかかっていた。
ミラーデーモンは蹴り出した足をそっと地面に下ろす。一つ間を置き、怯えるサリーに優しく微笑みかけた。まるで本物の母親のように。
「私が行きます!」
「ちょっと、フレン! あなたじゃ無理よ」
「みなさん! 少し目を閉じてください!」
言い出した時には、すでにフレンは杖を握りしめサリーの下へと駆け出していた。キサラの忠告など気にもせず、フレンはミラーデーモンに杖をかざす。
「これで……!」
杖先に結ばれた装飾品が、小さく揺れながら閃光を放つ。フレンの言う通りに直ぐ目を閉じたが、瞼の上からでも感じる眩い光に、俺は咄嗟に手で影を作った。
「ああっ……!」
母さんの苦しむ声に、俺は恐る恐る目を開く。ぼんやりと広がっていく視界に入ってきたのは、両目を押さえてもがくミラーデーモンだった。ばさばさと傷んだ髪を揺らしながら後ろに下がり、霧の中へと姿を隠す。
「やったぁ、フレン! あなた、こんな魔法も使えるんだね」
「ただの基礎的な光魔法です。それよりも早く離脱を――」
「……フレン?」
フレンの言葉尻が下層の濁流にかき消され、表情が一気に曇っていく。ミラーデーモンに対して、ダメージとまではいかないだろうが、初めて有効な攻撃ができた。けれど、その場で立ち尽くすフレンの様子を見て、高揚しかけたキサラの感情はすぐに冷めていく。
フレンとは対照的に、俺は頭の中を締め付けられていたような感覚からようやく抜け出せた。ただ、全力疾走した後のような疲労感に襲われ、酸素を求めて激しく呼吸を繰り返す。
大きく上下する肺に沿うよう手を当て、俺は顔を上げた。――よかった。変わらず震えてはいるがサリーも無事なようだ。
「ダレス。早く戻ってきてね」
キサラはいつもの調子で俺の背中をぱんと叩く。華奢な手から伝わる心地よい痛みは、いつも通りのキサラのものだ。たが、俺にはまだ返事を返せるほどの余裕はなく、意識が朦朧とする中、必死で息を整えることに神経を注いでいた。
「アシュード! メロ! 何でもいいから、ミラーデーモンを足止めして時間を稼いで。みんなで助かるよ」
さっきまで冷静さを欠いていたキサラの声に力が宿る。アシュードとメロは、互いを見合って覚悟を決めたように頷き、霧に潜む魔物に詰め寄っていく。しかし、簡単に状況が好転するわけもなく。
「だめだ、全然俺に注意を向けてくれねぇ」
「わ、わたしのデバフ魔法も全く効かないです!」
冷たい空気が刺すように肌へと染み渡る。アシュードとメロの必死の叫びが、白い吐息となって重く淀む霧の中に溶け込んでいく。
「あっ…… あっ……」
フレンは怯えながら後退りし、腰の力が抜けたようにその場に座り込んだ。胸に手を当て呼吸を荒くしながら、一点をじっと見つめている。潤んだ両目からは、大粒の涙がこぼれ落ちた。
フレンの視線の先。霧をかき分け姿を現したのは、白銀のフルプレートアーマーに鉄仮面を身に着けた騎士。ガシャンガシャンと金属音を立て、フレンの方へ真っ直ぐに進む。近くでアシュードとメロが何度もスキルを使っているが、全く眼中にないようだ。右手に握った剣がゆらりと揺れながら、煙のように漂う霧を割いていく。
「うっ……」
意識がまだはっきりとしない。急激な立ち眩みのような感覚が頭の中にこびり付いている。
俺は未だ固い地面に座り込んだまま額を押さえ、ただ流れる雲を見つめるように目の前の光景を眺めていた。
俺は、何をしていたんだっけか……
峠の下層で流れる濁流が、耳鳴りのように俺の鼓膜に張り付いている。その中で微かに光を放つ声に、俺は意識を向けた。
「……レス……! ……ダレス……!」
この声はキサラか……? すまない。俺はまだ起きれそうにないんだ…… そっとしておいてくれ。
「起きて……! お願いだから……」
もう少し休んだら起きるから。もう少しだけ……
「お願い…… フレンが、フレンが死んじゃう……!」
キサラの叫びが、混濁した頭の中で光を増していく。
フレンが死ぬ? こんなところで? いや、それ以前に、フレンは俺とサリーのことを庇ってくれたんじゃないのか。攻撃する手段なんて持っていないのに、俺の前に立ってくれた女の子をこのまま放っておいていいのか。何よりも大切なサリーを守ってくれた恩人を、助けないでどうするんだ。
俺は膝に手をついて立ち上がりながら、サリーに向けてもう一方の手を伸ばす。すると、サリーは跳ねるように起き上がり、ステップを踏んで落とした大剣を拾い上げた。痩せた小さい体にさっきまでの震えはない。そして俺と呼応するように、剣の先端をミラーデーモンに勇ましく向ける。
「ダレス! 地面を狙って!」
キサラの助言の意図を俺はすぐに理解することができた。このままミラーデーモンに斬り込んだところで、全く歯が立たないのは目に見えている。むしろ、奴の標的がまた俺に移れば、俺たちのパーティはまた攻撃役を失って追い詰められることだろう。それに、フレンの意思を無駄にしてはいけない。
だから俺の取るべき行動はただ一つ。
自分の中のありったけの魔力をサリーに渡す。魔力の扱いに関して経験不足の俺だが、サリーのことを考えると不思議と難しくないように思えた。全身を流れる血の巡りを意識して、伸ばした手の指先に魔力を集める。剣を構える妹目掛けて、俺はそれを念じるように飛ばした。
サリーは軽く剣を横に振り、姿勢を落として腰に持ち手を沿わせる。凄い…… サリーの感触が手に取るようにわかる。俺の背丈ほどある大剣が、まるで木の枝のように軽い。
後はサリーと共に大地を割るだけだ。
俺が手をなびかせると、サリーは漂う霧を貫き、一瞬でミラーデーモンに詰め寄った。ミラーデーモンは気づいてはいるのだろうが、視線をフレンからそらすことはない。
「落ちろ!」
俺が大きく手を振り下ろすと、サリーは地面をすくい上げるように大剣を振り回す。
きらりと光る刃は、硬い大地を容易く切り取り、ミラーデーモンの足場を奪った。
ごろごろと岩の転げ落ちる音に、キサラの「やったー!」と歓喜の声が混ざる。フルプレートの鎧が仇となったのか、ミラーデーモンはバランスを崩すと、土砂にのまれ、霧の膜で覆われた下層へと姿を消した。このまま川まで落ちてくれと、俺は淡い期待を抱く。
「フレン!」
キサラはフレンの下へ走り寄り、凍えるように震えた体を抱きしめた。ローブのフードがふわりと剥がれ、フレンの癖のある金髪があらわになる。
「フレン…… 大丈夫? ごめんね、ちゃんとあなたの言う事を聞いておけば……」
キサラは涙ぐんだ声で呼びかける。フレンは呼吸を整えながら、キサラの頭部を優しくなでた。
「キサラのせいじゃありませんよ」
フレンはゆっくりとパーティメンバー全員を見回す。そして大きく深呼吸をした後、花が綻ぶように笑顔を見せた。
「みなさん無事で良かった――」
急にぐったりと体を傾けたフレンを、キサラは両腕で抱き寄せる。
「フレン! 大丈夫か!?」
「大丈夫だよ、気を失っただけ」
俺の問いに、キサラはフレンに柔らかな眼差しを向けたまま答えた。キサラの腕の中で、フレンは瞳を閉じたまま心地よさそうに頬を緩ませている。
「あとでちゃんと、フレンにお礼を言わないとね」
キサラはにっと笑いながらみんなに呼びかけた。同時に、霧を晴らすように朝日が差し込む。キサラの目尻に残った涙が、きらりと光っている。
俺たちは当たり前だと言わんばかりに頷いて、二人の下へと駆け寄った。
ただ―― 一つだけ胸に引っかかること。
ミラーデーモンが変身した、白銀のフルプレートを身に着けた騎士。きっとフレンにとっては大切な人。
俺はどこかであいつを見たことがある。




