39話 分断
「盛り上がってるところ悪いんだが、そろそろヤバいぞ」
いつもの豪快な笑みは消え、険しい表情でアシュードはこちらに向かって走ってくる。低い声には、普段の余裕とは異なる切迫感が潜んでいた。
その奥には燃え盛る大木の巨人、トレント。火にくべられた薪のようにバチバチと音を立てながら、両腕を降ってもがいている。
必死になって体の火を消そうとしているのかもしれないが、無駄に空気を取り込むせいで炎の勢いは増していく。そればかりか、体から飛び散る火の粉と着火した木々が、生い茂る草花に延焼していった。
ボス部屋は火の海になる直前だった。
「このままでは私たちまで丸焦げになってしまいます。直ぐに脱出を」
フレンはローブのフードを深く被り直し、ボス部屋の出口を指差す。
この火の勢いなら走れば十分間に合いそうだ。
トレントは諦めたように腕を動かさなくなり、地面に膝を付く。そのままうつ伏せに倒れ込むと、地面が激しく揺れた。あまりの振動に、俺は転ばないよう腰を少し落としてバランスを取る。
目の前には燃え盛るトレントの頭部。
またしても再稼働しないかと、俺は恐る恐る身を引いた。だがトレントは動くことなく、ただ自然現象として周囲の物体を燃やす火種と成り果てた。
メロは自分の魔法で強大な魔物を打ち倒したのだ。
「あぁー素材が燃えていく…… トレントの体は高級品なのに!」
キサラは悔しそうに髪をワシャワシャとかき混ぜる。その隣を「命あっての金だろ」とアシュードが盾を担ぎながら通り過ぎた。
「わたしたちも逃げましょう」
「そうだな」
言いながらメロは出口に向かって駆けていく。俺は隣に戻ってきたサリーの頭をそっとなで、メロに続いた。
「ううう……」
「泣くなキサラ、ちゃんと前を見ろ」
「だってー」
隣を走るキサラは、目元を手で覆いながら鼻をすすっている。これは相当に落ち込んでいるな……
「ボス討伐の報酬はちゃんと出るんだろ? 今回は諦めろって」
「そうだけどー。そうだけどー」
声を震わせ顔をブンブンと横に振るキサラ。心の中の葛藤がひしひしと伝わってくる。しかし、しっかりと足を動かしているところをみると、この状況は仕方が無いと理解はしているのだろう。
「二人とも急いでください!」
ボス部屋を抜け、扉の奥でメロが両手を頬に添えながら叫んでいる。
前を行くアシュード、フレン、メロは無事に脱出できたようだ。背中に激しい熱を感じながら、俺はさらに足を速める。
「キサラ、もう少しで――」
言いかけて俺は違和感を感じ口を閉ざす。踏み込んだはずの地面がわずかに沈み込んでいるような、奇妙な感覚が全身を駆け抜けた。
焦って地を這うツルに絡まったのかと思ったが、足下にはそんなものはない。
「うわぁ!」
隣で前方へ崩れるように転倒するキサラ。膨らんだ大きなリュックが、彼女を押しつぶすようにのしかかる。
「大丈夫かキサラ!?」
「ごめんね…… わたしとしたことが」
俺は一度立ち止まり、キサラに駆け寄った。キサラは申し訳なさそうに笑顔を作りながら、起き上がって四つん這いになる。すぐそこまで近づいた火が、彼女の整った輪郭をくっきりと照らしだす。
そして俺は、違和感の正体に気づいた。
キサラを囲っているここ一帯の草花は、一様に同じ方向へ垂れ下がるように伸びている。ボス部屋の天井ではなく、後方のトレントに向かって。ぐるりと周囲を見回すと、炎で赤く照らされた壁に対して、地面が平行ではなかったのだ。
キサラは何も無いところで転んだのではない、地面が傾いているから転んだのだ。
燃えるトレントを背に、自分の影を踏みながら走っていたせいで、そのことに全く気づかなかった。
「あいつら、全く……」
「待ってください!」
アシュードが盾を置いてボス部屋に戻ろうとしたところを、フレンが腕を出して遮る。
突如として地底から、腹まで響くような轟音。足元の地面がまるで生き物のように脈打ち始めた。今まで静止していた世界が、突如として怒り出したかのように激しく振動を始めたのだ。
「何か嫌な予感がする。キサラ、早くここを出よう」
倒れ込むキサラに手を伸ばした瞬間。内臓が逆流するような強烈な浮遊感に襲われた。
足の踏ん張りが効かなくなり、差し伸べた手は空を切る。
「ダレス! キサラ!」
慌てるメロの声が上方に遠ざかっていく。さっきまで踏みしめていた地面が、剥がれ落ちて俺の隣で浮いていた。
ボス部屋は崩落した。きっと、トレントが倒れ込んだせいで地盤が崩れたんだ。
「ちょっとちょっとちょっと! どうしよダレス!」
「どうしよって、落ちてるんだからどうしようもないだろ!」
何かを掴もうとするように、両手を振りながら慌てふためくキサラ。一つに結った髪が、重力に逆らって持ち上がる。
どうしたものかと視線を巡らすと、レースのあしらわれたスカートがちらりと目に入った。
「キサラこっちに来い!」
「えっ、ちょっといきなり何すんの」
「いいから!」
俺は嫌がるキサラを膝上に乗せるように抱えこむ。
「サリー頼む!」
落下する岩を足場に、サリーは身軽にぴょんぴょんと飛んで俺の背中に回り込んだ。そして、キサラを抱える俺を、天に向かって広がるスカートの上に乗せる。これで、サリーが俺とキサラを抱えた形だ。兄としてこの格好は恥ずかしい限りだが、今は仕方ない。
サリーはまた岩と岩の間を華麗に飛び跳ね、落下の勢いを殺しながら暗闇の中へと降りていく。
始めは嫌がっていたキサラも、俺の首筋に両手を回して必死にしがみついていた。震えて強張った手と甲高い悲鳴から、彼女の恐怖心が痛いほどに伝わってくる。
バシャンという激しい水音の直後、凍えるように冷たい水が全身を包み込んだ。どこまで続くのかと思えた落下は遂に終わりを迎えた。どうやら俺たちは水面に落ちたようだ。
落下の勢いは消えたものの、体は水底へと沈んでいく。キサラは未だ怯えるように、俺から離れようとしなかった。
地面に落ちなくてよかったと安堵する間もなく、溺死という言葉が頭の中へと広がる。焦りで吐き出した息は、無数の泡に変わって水中を上っていった。
脱出しなければ――
思考を切り替え脚を動かそうとした矢先。まるで魚になったかのようなスピードで、体が水をかき分け急上昇していく。俺とキサラはあっという間に水面に到達すると、勢いよく顔を出した。
俺は口を大きく開けて空気を吸い込む。肺いっぱいに新鮮な空気が勢いよく流れ込んだ。
「あれっ……? ゴホッ、生きてる……?」
キサラは息を荒げながら、額から伝う水を取り除くように目元をこすった。ここでもダンジョンと同じように、壁に敷き詰められた光の粒が青白く淡い光を放っている。揺れる水面で乱反射する光が、キサラの顔を幻想的に浮き出させていた。
「ダレス! わたしたち生きてるよ!」
「キサラ、ちょっと痛い」
腕の中のキサラが、弾ける笑顔で俺に抱きつく。頬と頬が触れる感触はとても冷たい。けれど、震えが収まった腕からは安心の気配を感じ取れた。
「あっ、ごめんね。嬉しくてつい」
キサラは慌てるように顔を離す。緩んだ頬はほんのり赤みがかっているように見える。気まずそうに視線を逸らすキサラであったが、俺の首筋に回した両腕を解くことはなかった。
「助かったのはサリーのおかげだ」
俺の両脇を支える小さな手。振り返りながら、俺は水面から顔を覗かせるサリーに向けて笑顔を作る。
「ありがとね! サリーちゃん! ダレス!」
「俺は何も……」
「何もって…… サリーちゃんを操ってるのがダレスじゃん」
「そ、そうだけど、仲間を助けるのは当たり前のことだし」
キサラは不思議そうに上目遣いで俺の顔を覗き込む。だめだ、だめだ。気を抜くと人形師の設定を忘れそうになる。
俺とキサラを助けたのは、他でもないサリーだった。水中で人二人を抱え、大剣を背負ったままでもサリーは余裕で泳ぐ事が可能だったのだ。
死者という性質上、呼吸は必要ないので溺れる心配はないのだろう。魔力さえ供給できれば動けるとナターシャも言っていたし。
反省混じりにサリーの分析をしていたところで、俺たちの真横に巨大な岩が落下してきた。水面に打ち付けられると、大きな音を立てながら激しい水しぶきが襲いかかる。俺はキサラを守るように、岩の落ちてきた方へ背を向けた。
「あ…… ありがとう」
「これくらいどうってことない」
キサラは目線を落としてボソッと呟くように言う。心なしかいつもの元気はないし、まだ顔はほんのり赤いままだ。崩落のショックが拭いきれないのだろう、なんとか俺がサポートしてやらないと。
「ここも危ないな。どこか安全なところへ避難しないと」
俺は濡れた髪をなでながらサリーに目配せをする。サリーは直ぐに俺の意図を汲み取ってくれたようで、バタ足で移動を始めた。落下物をかわしながら、俺とキサラを抱えて、およそここよりも安全な方へと進んでいく。
俺は改めて息を整え、周囲を見渡した。
天井から伸びる棘のように鋭く尖った岩の数々。穏やかな水面の上に広がる洞窟のような空間。
「ここは……」
「たぶん地底湖だね」
「地底湖?」
「地下水や雨水が溜まってできた、文字通り地の底にある湖だよ。まさかダンジョンの中にもあるなんて」
キサラは神妙な表情で辺りを観察する。湖面に叩きつけるように落ちては沈んでいく岩の音が、徐々に遠くなっていく。
「とりあえずの安全は確保できそうだけど、俺たちここから帰れるのか?」
偶然にも地底湖に落下したおかげで命は助かったものの、この先のことはまだ何も見えてはいない。
ここから出る方法が無ければ、 俺たちは転落死ではなく餓死してしまうだけで、死を先延ばしにしているだけに過ぎないだろう。
まぁ水分には困らないし、なんとかすれば魚は取れるのかもしれないけど…… そんな生活、生きているとは言えないよな。
「絶対帰れるよ、大丈夫。キサラちゃんを信じなさい」
キサラはウィンクしながらしししと笑ってみせる。
「ダンジョンの中には独立した空間なんて存在しないの。必ずどこかに通じていて、辿っていけば入り口まで行けるようになってる」
「そうなのか?」
「だから心配しないの」
キサラはパンと俺の肩を軽く叩く。
俺の心の内を見透かしたように、キサラは安心する言葉を投げかけてくれた。さっきまで「俺がサポートしないと」なんて息巻いていたのが恥ずかしい。
「あっ! ほら、見て! あそこから上がれそう」
キサラは俺の体に身を預けるように前のめりになり、弾むような声で言う。
振り向きながらキサラの指差す方を見ると、地底湖の先が緩やかな坂のようになっていた。たしか入り江と言うんだったか。
サリーは進行方向を変えて陸地を目指す。
次第に見えてきたのは、坂の上にある洞窟の入口。岩壁できらめく光の粒が、さらに奥まで続いている。やはりキサラの言っていたことは本当らしい。
「ほらね」
キサラは自信満々に鼻を鳴らす。
「やっぱりすごいなキサラは」
「でしょ。でもなんで笑うの」
「ごめん、なんか安心したんだと思う」
強張っていた頬が緩んでいくのを感じる。
キサラは不機嫌そうに唇を突き出していたが、直ぐに笑顔を取り戻していた。
あれだけ冷たく感じた水の温度が、今は少し心地よかった。




